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2014年3月27日 (木)

行空とは何者か~『法本房行空上人と造悪無碍』 3

 水月・文

  三

 ところで、福岡県八女市星野村黒木谷に高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」というのがある。八女市(星野村)の指定文化財である。墓標の正面中央には「高野山講坊先師行空上人」、向かって右に「天文十六年」、向かって左に「七月六日」とあり、墓標の左側面には「時宝暦十天三月 日/講坊法印弟子/戒浄 建立」と三行に刻まれている。
 おそらくこの墓標を世に紹介した最初は、江頭享氏の『郷土史物語』(1968年)であろう。氏はこれをいま問題にしている法本房としての行空の墓と見られている。それによってであろう、墓標の傍らに建てられている解説版や、『星野村史 文化財民俗編』も同様の旨を記している(35)。氏によれば、行空は「星野村と黒木町の境界にある高牟礼峠を越して星野に下る途中、縫尾久保という所で急に卒倒して死亡」したといい、それが天福元年(1233)七月六日のことであり、年は九十歳であったという。そして現在の墓標に刻まれている天文十六年(1547)と宝暦十年(1760)は改修の年であるといわれている(36)。
 ただ、墓標の正面にある「講坊」というのは高野山千手院谷にある本覚院のことで、行空をもって開基とする。門をくぐった右手にある石碑「本覚院累代記」などによると、建久年間(1190~1198)当時有名であった女流歌人・待宵小侍従(1120~1201、大阪府島本町桜井に墓と顕彰碑がある(37))の願により建立されたという。そして行空がつねに『法華経』を講じていたことから「講坊」と称せられたが、元禄年間(1688~1703)待宵小侍従の法号「本覚院殿湛然如真善女」にちなんで「本覚院」と改称されたといわれている。その本覚院の伝承によれば、行空の没年は文永年中(1264~1274)といっているのである(38)。
 しかし本覚院が行空によって建久年間に創建されたとすると、年九十歳で没したというのであるから、文永年中では少し年代に無理があるのではなかろうか。現在、本覚院の『当国過去帳』には「行空」のところに、新しいもののようであるが、赤字で「天福元癸年七月六日寂/西暦1233年」という書き込みがある(39)。本覚院も江頭氏の天福元年説を採用することになったようである(40)。

 そうすると、行空は九十歳で没したのであるから、天養元年(1144)の生まれとなり、法然より十一歳年少、親鸞より二十九歳年長となって、法本房としての行空と年代的によく合致する。花田玄道氏になると、行空の生没年を「1144~1233」と明記されている(41)。しかし、話はそれほど簡単ではない。
 というのは、墓標の正面には「高野山先師講坊」とあって、この行空が法然門下になったという痕跡は微塵もうかがえない。本覚院のほうでも、さきの「本覚院累代記」にせよ、過去帳や行空の位牌の裏にせよ、開基の行空が法然門下になったという記述は欠片もない。この行空は「高野山先師」として生涯を閉じたようである。
 
 また「本覚院累代記」やその過去帳、あるいは江頭氏や花田氏など多くは、この行空の行状を虎関師鍊(1278~1346)が元亨二年(1322)に朝廷へ上奏した『元享釈書』に求めている。それは諸国を順錫し、いずれの地にも二夜を重ねなかったことから一宿上人と称せられ、ただ『法華経』のみを昼六部、夜六部ずつ誦して、生涯三十余万部に達したというものである(42)。この行状はまったく法華の行者である。実際、鎮源(生没年不詳)が長久年間(1040~1044)に撰述した『法華験記』のなかにこの行空の記事が見られるのである(43)。そのほか十二世紀初めころ成立した『今昔物語集』や、蓮禅(生没年不詳)が保延五年(1139)以後に著した『三外往生伝』にも出ている(44)。それらはともかくとして、『法華験記』は本覚院などが取り上げている『元亨釈書』の素材となったもので(45)、そこに収録されている以上、この行空は長久年間以前の人物と考えねばならない。法本房としての行空とは行状も年代も明らかに異なっている。したがって高野堂(こうやんどう)「行空上人」の墓は、法本房とは別人としての行空の墓とみなければならないであろう。年九十歳で没したというのも、『元亨釈書』に「年九十にして鎮西に歿す」とあるものによるが、その元になった『法華験記』には「老後に、鎮西に出でたり。九十に及びて」等とある。それはもちろん一宿上人としての行空のことであって、法本房としての行空のことでないから、その没年は不明といわざるをえない。

  つづく

▼かささぎの感慨

なるほどそうだったんですか。
きっちりとしらべあげてくださいました。

これですべてのつじつまはあいます。

でも、村人たちは、黒木物語で有名な歌人のまつよいの小侍従の願によって高野山に本覚院を建てたという行空の物語を信じていらっしゃるようですし、行空がどの時代の行空であっても、どの宗派の行空であっても、はるかなときの彼方にいるお方。
それでいいのだという気がしますね。

虎関師鍊のなまえをぐぐっていましたら、おもしろいものを発見。

ユーチューブ詩吟。ぜひきいてください。

過因の詩  空海・詩

http://www.youtube.com/watch?v=ucQRNu8_qq0

冬の月  虎関師鍊・詩

※こかんしれんというひとを調べていますと、今年古典研究室函館の杉浦清志先生のブログ日記で紹介されていた、後輩の学者先生による、『光厳天皇』と同時代の人であることがわかります。こうごんてんのう、は、南北朝時代の北朝最初の天皇、だったとおもう。

http://www.youtube.com/watch?v=jQxH1XOuLnw

▼今回の脚注

(35)高野堂(こうやんどう)の解説版には「行空上人は、鎌倉時代前期の天台・真言の教理をも極めた浄土宗の僧で、美作の出身と伝えられます」等とある。また星野村教育委員会編『星野村史 文化財民俗編』(一九九七年)三八頁。 (36)江頭亨氏『郷土史物語』(一九六八年)一三八、一四六頁。 (37)その解説板には待宵小侍従について次のように記されている。 父は石清水八幡宮二五代別当大僧都光清で、母は花園左大臣家女房小大進です。三九歳のころ夫の藤原伊実(太政大臣 藤原伊通の子)と死別し、のちに二条天皇に仕えました。天皇の崩御後、同皇后藤原多子に仕え太皇太后小侍従として、しばしば歌合せに出席するなど、一流の女流歌人として歌壇に確かな地位を占めるようになりました。『待つ宵の ふけ行く鐘の こゑきけば あかぬ別れの 鳥はものかは』これは、彼女の呼び名のもととなった「待宵の歌」で、訪い来ぬ人を待ち明かす苦しみを詠んだもので『新古今和歌集』にも収められています。『平家物語』巻五の月見の段によると、大宮(多子)から「待宵、帰る朝、何れかは哀れはまさる『待宵・恋人の来るのを待っている夕べと、帰る明日・恋人の帰ってゆく朝とではどちらが情趣深いだろうか』」との問に答えて詠み、このことより彼女を「待宵」と呼ぶようになったといわれています。晩年は出家して桜井に真如院(応仁の乱の兵火により廃絶)を開基、隠棲したと伝えられます。後に能因法師、伊勢と共に東摂の三歌人と呼ばれました。 (38)星野村教育委員会編『星野村史 年表編』(一九九五年)一五頁所引の『高野山本覚院之由来記』、同『星野村史 文化財民俗編』(一九九七年)三八頁所引の『高野山本覚院因由並ニ筑後国檀縁之由来』、和田重雄氏編著『貞享版 黒木物語』(一九八三年)二○九頁以下所引の『本覚院は筑後国を檀家とする由来』などにいわれている。とくに『貞享版 黒木物語』のそれには「文永年中」のところに「(一二六五)」という右註がある。 (39)二○一二年四月二十六日、本覚院を訪れた際、御住職の御高配によって『当国過去帳』と行空の位牌を拝見させていただいた。ここに記して、深く感謝の意を表する。 (40)なお、福岡県八女市の高野堂「行空上人の墓」には昭和五十九年(一九八四)に行空の七百五十二回忌が修され、その記念碑が建っているが、それも没年を天福元年と見たものである。 (41)花田玄道氏「法本房行空について」(『仏教論叢』三五、一九九一年)、同氏『鎮西教学成立の歴史的背景』(大本山善導寺開基八百年慶讃大法要記念出版、一九九六年)六一頁 (42)『元亨釈書』巻十一(『国史大系』十四・八二五~八二六頁) (43)『法華験記』巻中(『岩波日本思想大系七 往生伝 法華験記』一三七頁) (44)『今昔物語集』巻第十三(『岩波古典文学大系二四 今昔物語集』三・二四一頁)、『三外往生伝』(『岩波日本思想大系七 往生伝 法華験記』六七四頁) (45)禿氏祐祥氏「元亨釈書の素材と法華験記」(『龍谷学報』三二七、一九四○年)、黒川訓義氏「法華験記と元亨書との関係」(『皇学館論叢』一二─六、一九七九年)など。

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コメント

コピペで脚注を入力したところ、一題ごとの行替えができませんでした。
書式がよめない、と出る。

光厳天皇について、問答コーナーの無名の先生の回答がおもしろいので、ご紹介いたします。

光厳天皇は1331年に後醍醐天皇が京を出てしまったため、持明院側が勝手に退位待遇として即位した天皇です。
後醍醐は一度は負けて隠岐に流罪になりましたが、脱出し持明院側のパトロンである鎌倉幕府を滅ぼしてしまったため、光厳天皇の即位は「無かったこと」にされてしまいました。

もし足利尊氏が後醍醐と仲違いしなければ、光厳天皇は歴代天皇として数えられない存在になったと思います。
壬申の乱で負けた弘文天皇のように、本当は即位したけれど勝った方の都合で「無かったこと」にされた天皇になっていたはずです。
当時も光厳天皇は退位後、忘れられた存在に等しかったらしく、尊氏が担ぎ出したときは「ほこりをかぶったご本尊を持ち出した」と言われたほどです。

二人の仲違いにより、光明天皇が即位し、光明天皇を即位するためには「無かったこと」になっていた光厳天皇の即位を「あったこと」にしなければならなかったのです。
なので、実は即位してたけれど無効化されていた光厳天皇の即位を有効とした1336年を以て南北朝の分裂と見なしています。
(まぁ光厳天皇即位を以て南北朝分裂とする説もありますけれど)

ということで、この時期の天皇位は光厳天皇即位を有効と見るか無効と見るかで変わります。
光厳天皇の即位を有効とする視点=「北朝」から見ると、
1318~1331年 後醍醐天皇治世
1331~1333年 光厳天皇治世
1333~1336年 空位
1336~1348年 光明天皇治世

一方、光厳天皇の即位を無効とする視点=「南朝」は、
1318~1339年 後醍醐天皇治世

北朝から見れば後醍醐は1331年に退位してそれっきり、南朝から見れば後醍醐は譲位したことは一度もないということになります。

行空 検索で見えています

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