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2014年3月26日 (水)

行空とは何者か~『法本房行空上人と造悪無碍』 2

水月・文

  二

 法本房行空は生没年も伝記も明らかでない。ただ凝然(1240~1321)の『浄土法門源流章』には「美州行空大徳(10)」とある。静見(1314~1383)の『法水分流記』には「住美乃(ママ・11)」とあり、鸞宿(1682~1750)の『浄土伝灯総系譜』には「美州作人(12)」とある。中野正明氏は美作は美濃の誤りであるといい(13)、山上正尊氏は美濃は美作の誤りであるといわれている(14)。美濃か美作の人であったらしい。
 そして入室の年時は不明であるが、法然(1133~1212)の門下で、上足の一人であった。日蓮(1222~1282)の『一代五時図』を見ると、隆寛、證空、弁長、長西、幸西のあとに「法本」とある(15)。凝然の『浄土法門源流章』には、幸西、隆寛、弁長、信空の次に「行空」を挙げ、長西とともに「源空大徳親承面授の弟子なり(16)」とある。「行空」という名から察すると、證空や源智、綽空というように、法然によって名づけられたものであったかもしれない(17)。

 元久元年(1204)冬、比叡山の集徒は法然が説く専修念仏の停止を天台座主・真性(1167~1230)に訴えた。そこで法然は同年十一月七日、「七箇条制誡」を門下に示し、遵守するよう連署せしめた。原本は現在、京都嵯峨の二尊院に所蔵されている(18)。それによれば、行空は第四十番目に署名している。しかし、実はこの連署名が問題なので、後述することにしよう。

 翌・元久二年(1205)十月、今度は南都の興福寺から九箇条の過失を挙げ、専修念仏の停止と、法然および門下を罪科に処するよう朝廷に求めてきた。貞慶(1155~1213)の起草した『興福寺奏状』がそれである。朝廷は対応に苦慮した様子であるが、その後も興福寺からの訴えは続き、藤原長兼(生没年不詳)の『三長記』、元久三年(建永元年 1206)二月十四日の条によれば、行空と遵西(?~1207)を名指しし、配流に処するよう召し捕る口宣が届いた模様である。行空は「一念往生の義を立つ」といわれている。これによって行空が一念義の主唱者であったことがわかる。また同年二月二十一日の条には、行空、遵西のほかに、幸西と住蓮(?~1207)も罪科に処するよう訴えられている。さらに同年二月二十二日の条には、行空と遵西を「偏執、傍輩に過ぐ」といわれている。そして同年二月三十日の条には、その日の宣旨として、遵西のほか、行空を「忽(たちま)ち一念往生の義を立て、故(ことさら)に十戒毀(教カ)化の業を勧め、恣(ほしいまま)に余仏を謗り、其の念仏行を願(ママ)進す」といわれている(19)。なおこの条には法然が行空を破門したという記事も見られるが、それは後に取り上げるとして、興福寺から見ると、数多い法然門下のなかで、とくに行空と遵西、そして幸西と住蓮の四人が目立っていたのであろう。彼らが法然教団の信仰と伝道の中核であったのである。

 ここで行空のおおよその年齢が推測されよう。というのは、このころ親鸞は前年の元久二年に『選択集』の書写と真影の図画を許されていたが(20)、外部からはまだ目立った存在でなかったようである。そこでまず行空は親鸞より兄弟子であったと推察される。そして前に述べた『三長記』元久三年二月二十一日の条には、幸西を「成覚〈此の弟子未だ名字を知らず〉」と記している。幸西は行空ほど知られていなかったらしい。その幸西が親鸞より十歳年長であるから、行空はさらに年長であったのでなかろうか。

 ともあれ、建永二年(承元元年、1207)二月、後鳥羽上皇(1180~1239)の逆鱗によって、専修念仏に対する大弾圧が下された。それが単なる風紀問題であったのか、聖道門と浄土門とののっぴきならない思想対立であったのか説が分かれるが、おそらく真相は後者であろう。さきの『興福寺奏状』が効力を発揮したのである。このとき行空は、『歎異抄』流罪記録などによると、佐渡島へ流罪となった(21)。

       ◆

 その旧跡は一般に、佐渡市河崎にある曹洞宗・晃照寺境内とされている(22)。それは橘正隆氏の『河崎村史料編年志』(1959年)にはじまるようである。そこに「曹洞宗龍壽山晃照寺之景」という古境内の鳥瞰図を掲載し、その上部に「法本坊旧跡」という囲み文字が記されている(23)。しかし晃照寺御住職にお尋ねすると、そのような寺伝はなく、古境内の鳥瞰図というのも明治三十三年(1900)十二月に金沢済美館が製版したもので、突然出てくるものである。歴史的根拠はまったくないということであった(24)。そこで注目されるのは、住田智見氏の「一説には同島相川の法界寺行空の遺跡を伝ふと云へり。(維新に廃寺になると云ふ(25)」という記事であるが、これも晃照寺御住職に御教示いただいた『佐渡叢書』第五巻所収の「佐渡国寺社境内案内帳」(1974年・・・26)の「法界寺」の項を見てみると、行空に関する記事はまったくない。ゆえに行空の佐渡島における遺跡と呼べるものは不明といわざるをえないのである(27)。ただ、さきほどの橘氏は古佐渡本間系図「忠綱」の註記に「承元元年流人法本坊来りて念仏の法門を授く、法名法心云々」とあるといわれている(28)。ただし塙保己一(1746~1821)の『続群書類従』に記された「忠綱」の項にそうした記述はないが(29)、古系図にあるという橘氏に信を置けば、行空は佐渡島でまず本間忠綱に念仏の法門を授けたことがわかる。

 建暦元年(1211)十一月十七日、法然や親鸞が赦免になった(30)。行空も同じく赦免になったはずである。ただ翌年の建暦二年(1212)一月二十五日、法然が往生した。法然は自分の没後に門弟たちの間で諍論がおこるのを案じて一所に群会することを禁じた「没後起請(遺誡)文(31)」をのこしている。行空はそれにしたがい、そのまま佐渡島にとどまったか、どこかへ移住したか、まったくわからない。嘉禄の法難(1227)のときには片鱗もすがたを見せていないので赦免以前に往生していたのかもしれない。

 なお、佐渡島は行空が流罪になった六十四年後(1271)、日蓮も流罪になっている。『佐渡御書』によると、文永九年(1272)一月十六・十七日、日蓮は印性坊を棟梁とする念仏者数百名と法論をおこなったという(32)。また日蓮は『呵責謗法滅罪鈔』に「此の佐渡国は畜生の如く也。又法然の弟子充満せり(33)」といっている。そこには多分に誇張があろうし、対論した印性坊など念仏者の詳しいことはわからない。ただ、もし彼らが行空の流れを汲む人たちであったとすれば、行空は本間忠綱以外にも佐渡島で法然が説く専修念仏の種を蒔いたことになるであろう(34)。

 つづく

▼脚注

(10)『浄土法門源流章』(『浄土宗全書』十五・591頁)
(11)『法水分流記』(『真宗史料集成』七・826頁)
(12)『浄土法灯総系譜』(『浄土宗全書』十九・10頁)
(13)中野正明氏『七箇条制誡について』
    同氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、2010年)426頁
(14)山上正尊氏『一念多念文意講讃』(為法館1956年)90頁
(15)『一代五時図』(『昭和定本日蓮聖人遺文』三・2287頁)
(16)『浄土法門源流章』(『浄土宗全書』十五・591頁)

(17)なお重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究』(平楽寺書店、1964年)439~440       頁には、行空の房号を法本房ということについて、般若系口伝法門に属し、鎌倉期のものらしい『止観心要鈔』(漢光類聚)に「三千法本有、而一念名法性常寂」というごとき意味の法本をとったものかとおもうといわれている。
(18)辻善之助氏『日本仏教史第二巻 中世篇之一』(岩波書店、1947年)317頁、鷲尾順敬氏「法然上人七箇条起請の原本検討」(『現代仏教』九ー九十八、1932年、のち同氏『日本仏教文化史研究』〈冨山房、1938年所収〉など。
(19)『三長記』元久三年二月十四日、二十一日、二十二日、三十日の条(『増補史料大成』31・172・174・176・183頁
(20)『教行証文類』後序(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』472頁)
(21)『歎異抄』流罪記録(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』855頁)、『拾遺古徳伝』巻七(『真宗聖教全書』三、737頁)、『法水分流記』(『真宗史料集成』七・826頁)などに記されている。
(22)『浄土宗大辞典』 「行空」の項、三田全信氏『改訂増補 浄土宗史の諸研究』(山喜房仏書林、1980年)303頁、藤井正雄氏ほか編『法然辞典』(東京堂出版、1997年)「行空」の項などに記されている。
(23)橘正隆氏『河崎村史料編年志』(両津市河崎公民館、1959年)245頁。なお龍谷大学図書館蔵本には、表紙の次頁に鳥瞰図の拡大コピーが貼ってあり、「法本坊旧跡」のところに矢印がしてある。
(24)橘正隆氏『河崎村史料編年志』(両津市河崎公民館、1959年)244~245頁には、「晃照寺古境内図にみると、『法本房旧跡』と刻んだ石の記念塔が建っている。ところが明治四十年五月八日旧堂舎が自火焼失し(註、晃照寺御住職の談によると、実は放火であったらしい)、現堂舎を再建するにあたり、もとの図取りを模様がえし、記念塔のある場所へ庫裏を建てたのはよいとして、その塔をどこへどうしたものか、今では皆目わからなくなってしまった」といわれているが、図にはそうした記念塔のようなものは見当たらない。「法本房旧跡」という囲み文字があるだけである。
(25)住田智見氏『浄土源流章解説』(法蔵館、1925年、1982年再刊)231頁
(26)原本は宝暦年中(1751~1763)に書かれたもので、『宝暦寺社帳』とも呼ばれている。
(27)晃照寺御住職は見知らぬ私の問い合わせにいろいろと御指導下さった。この場を借りて厚く御礼申し上げる。
(28)橘正隆氏『河崎村史料編年志』(両津市河崎公民館、1959年)245頁
(29)『続群書類従』第五輯下・497頁
(30)『教行証文類』後序(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』472頁、『拾遺古徳伝』巻八(『真宗聖教全書』三・751頁)
(31)『西方指南抄』巻中末所収「起請 没後二箇条事」(『真宗聖教全書』四・156頁)、『漢語灯録』巻十所収「没後起請(遺誡)文」(『真宗聖教全書』四・530頁)
(32)『佐渡御書』(『昭和定本日蓮聖人遺文』一・616頁
(33)『呵責謗法滅罪鈔』(『昭和定本日蓮聖人遺文』一・789頁)
(34)もちろん佐渡島に念仏を伝えたのが行空だけであったとは限らない。行空が流罪になった十四年後、承久の乱(1221)で順徳天皇(1197~1242)が佐渡島へ流罪となり、それに連れて法然の念仏が伝えられたとも考えられるし、あるいはまた別に無名の人たちが伝えたとも考えられる。

▼かささぎの感慨

これ。この脚注を打ち込むのがいかに大変だったか。
かささぎの目は節穴があいている。
法本房を本法坊と書いていた、つぎに、法本坊と書いた、それからこの名前の意味をかんがえているとき出会った論文
http://www.sainenji.net/kiyou003.htm
のおかげで、はっとして、そうか、これは房号か。
と、やっと正確な表記にたどりつく。
すみません。行空さん、森本光慈さん。

いま拝借したブログの論文、勉強になりました。
筆者の谷のついた龍はなんとよむのだろうか。

先日の夕方、ひとりでみたしゅららぼん、龍神の映画だったなあ。

親鸞って行空よりずうっと年下だったのか。そういうこともなにもしらない。
ネット上に行空という情報はないに等しい気がします。
きょうの記事にある、佐渡島の晃照寺(こうしょうじ)の記事も、ひとつしか見つけることができませんでした。動画(デジブック)を開いてみました。
これです。http://blog.goo.ne.jp/sadoriko3tomo8kan9/e/addbb389eba9e5572ff1cc2713765708
ありがとうございました。

でも、どっかで見たんだけど。ネット上でだったんだろう。地図の上だったかな。
水月さんが書いてあるような図。

ところで。
朝、この脚注を打ち込んでいると、調うたまるさんからメールを頂く。
今日は懐良親王のご命日で、星野ではお祭りがあるから行こうと思っていたけれど。と書かれていた。

わたしはびっくりしました。
八女の人間なのに、まったくそういう知識がありません。
それにネットでもでてきません。
教えてくださってありがとう。

きっと、行空とどこかで繋がっているという意味だろう。
えめさんのブログでみかけた、八女ぼんぼりまつりの明永寺さんへのコメントでも、しらべさんをみかけました。噂をみかけた、という意味です。本人はみかけない。

さて、つぎはいよいよ、八女星野の黒木谷のこうやんどうがでてきます。
期待してください。次号。

それにしても、水月さん。
佐渡島にもいきなさった。(電話取材のみで、いかれなかったんだそうです。)
八女にもきなさった。

おどろきました。

ブログに書いて良かった。とはじめて思った。

きっと、これを読むことによって、いろんなことが大きく開けてくるような気がします。
ひとはともかく、わたしは今の仏教がどこからやってきたか、勉強になります。

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コメント

本法坊と打ってました、のっけから。

アスタリスクはついてませんが、脚注の数字が目立ちますね。
後がたいへんだ。

本文末尾に感慨を打ち込みました。

行空のなまえを二度も間違ってしまい、もうしわけありませんでした。
かささぎの目はからすまがりしている。

ご無沙汰してします。
ほんとタイミング良いですね。
今は宇都宮の新幹線からです。
星野であったのは御祭りではなく大円寺で執り行われる懐良親王の大追善供養ですよ…。

ありがとう!フォローしてもらいました。

きのうじつは私は一昨日からおなかをくだしていて葬儀にいけず、こもっていたのです。
どうも母の食べ忘れていたパンが当たったみたいで。この時期、賞味期限を二日もすぎているものはたべないのが無難です。まだまだ暖房してますしねえ。

きのう、母の妹ふたりとひろこちゃん(我が従姉で三味線と民謡のおっしょさん)は三人で明永寺におはなしを聞きに行ったそうです。なんのおはなしだったのか、きかねばなりません。明永寺は調紀というお名前のお坊さんのお寺でした。

谷偏の龍はおおたに、でした。あるいはながたに。

真宗大谷派が我が家のお寺の宗派なんですが、これまでなぜ大谷派なのかを問うこともありませんでした。名前の由来を。
親鸞が法然にまかされていたのが、大谷という地区の教化だったのが最初みたいで、それからついたようです。地名だったとは。
大きな谷、長い谷には水神の龍が住んでいる。
偉大なる、しゅららぼん、おもしろし。

一番若い叔母に尋ねました。
昨日は明永寺で音楽の催しがあったそうです。
知り合いの娘さんがピアノで、歌は黒木町は木屋の、年に一回幽霊の掛軸を公開されるお寺の御住職がうたわれたらしい。
親鸞聖人の歌です
確か、そのピアノの先生である娘さんが作られたと以前聞いた記憶あり。とてもいい歌です。

民謡のおっしょさんの従姉は目が不自由な叔母さんのために、その歌を録音してあげたらしい。
叔母は寝る前などに聞いてるそうです。
こころ安らぐそうです

うたまるさん、
木屋と書いて、こやです。
グリーンピアからおりてくるふもとあたりか
つるぎがふちあたりかな

八女農のイブに亡くなった娘さんがそこの人でした

何かとても気になります

寺、しらべました
光善寺、か

拙論ご参照いただき恐縮です。
「谷」ヘンに「龍」で「ナガタニ」と読みます。
以後、お見知りおきを。

拝復、

豅 とかいてながたにとよむのですね。

お教えくださってありがとうございました。

なまえについての論文、おもしろいです。
なにもしらなくても、ひきこまれます。
あさから、よんでいました。

〉ひめの様
お読みくださり感謝です。

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