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2014年3月22日 (土)

「偉大なる、しゅららぼん」とあふみの民

偉大なる、しゅららぼん

みたいとおもう。

一日二興行。
しかも二時間。

わが三人のばあちゃんたちにはむりだな。

銀の匙なら見れるかもしれませんが・・・。

かささぎ、これがみたい。

主演の濱田岳がいまノリに乗っていること。
湖の民という設定、あふみのたみ、であること。

こじつけでもなんでも、ブログでの二つの縁がなにか開けそうな気がするから。

1、渋谷師関連

渋谷幽哉師は熊本県芦北の僧侶でしたが

先祖は近江の武士です。

専妙寺の開基の由来

「専妙寺は慶長二年八月(西暦1625年)了学という人の開基(創立)である。
この人は江州(滋賀県)甲賀郡の住人で、豊臣秀吉が天下を治めていた頃、熊本城主となった加藤清正と共に肥後にやってきた渋谷与左衛門重次、のち芦北郡佐敷花岡城主となる加藤大和守重次の親族の一人である。
重次の父渋谷宇助重成は甲賀郡渋谷荘司平頼長の末裔(子孫)にあたる。了学は重次が城代を勤めた佐敷花岡城が元和五年、一国一城制に伴い廃城となったほか、重次の病死などが重なり世の無常を感じたのが動機となり、出家剃髪し、本願寺から木仏と専妙寺の寺号を頂戴し、開基している。
当時の本願寺では多くの出家子弟を養成し、布教拡大のため木仏と寺号を与えて全国に旅立たせている。
了学は一時江州甲賀に帰っていたが、佐敷で仏門に入ったのは、一族が佐敷城に関わり、住民にも知己が多かったからと考えられる。しかし当時、民、百姓、町人は生活状態が著しく悪く、全国的にも百姓一揆が頻発した時だったので了学師の布教には相当な苦労があったことは想像に難くない。したがって開基とはいっても、寺を建てたわけではなく、しばらくは恐らく何処かの家を借りて布教し、毎日が苦行の連続であったと思われる。それを裏付けるようにわずか六年で死去、第二代の了喜師の時に本堂を建立している。開基から二十四年も経ってからである。」

(『至誠院釈幽哉師を偲ぶ~遺稿と専妙寺四百年の歩み』より引用)

ちなみに、「渋谷氏」で一番にでたのはこれでした。
東京の渋谷氏。同祖かもしれません。

http://www.inet-shibata.or.jp/~iide/jikosyoukai/shibuya/tokyoushibuya.html

さしき城(佐敷城)
佐敷城画像引用元;http://cmeg.jp/pc/9725

平の頼長。。。藤原の頼長とは違うようだ。

2、万葉集の志貴皇子「懽(よろこ)びの御歌」関連。

みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。
ただ軍服時代二年間のあいだに、岩波文庫の『万葉集』
をくりかえし読みました。「いはばしる たるみのうへの
さわらびの もえいずるはるに なりにけるかも
」。
この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、
死に直面したその時期に、心をつねに拭きとる役目をし
てくれました。
(司馬遼太郎「学生時代の私の読書」『以下、無用のことながら』
文春文庫)。


これは大谷雅夫氏によれば、じっさいに司馬氏が読んだ通りなら、

「岩波文庫の『万葉集』とは佐佐木信綱編『新訓万葉集』(昭和二年刊)上下二冊。その上冊、巻八の巻頭歌(1418)は
石(いは)そそく垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

でなければならんのだそうだ。
ではなぜに司馬氏のうたのよみはかわってしまったのか?
おそらく、長い時のあいだに人口に膾炙する歌が、江戸中期カモノマブチによる強引な改読以来、自然淘汰で変化を遂げ、司馬氏の記憶もそれに同調したのだろう。。。
と。以下、大谷雅夫氏の原文。

「万葉集とはもともと漢字だけで記された歌集である。万葉集を読むとは、
本来その原文の漢字列を訓読することであった。そして司馬氏の思い出
の歌の初句は「
石激」の二文字。平安時代から江戸時代まで、それは
一貫して「いはそそく」と訓まれてきた。「いはばしる」とは、江戸時代中期、
賀茂真淵がそう改めて、以後のほとんどの万葉集注釈書が支持し、踏襲
した訓であった。『新訓万葉集』は数少ない例外であった。

司馬氏は、当時にあって珍しかった「いはそそく」の歌を岩波文庫で読みながら、「いはばしる」と後に記憶を変形させてしまったのである。「いはばしる」の「みごとなリズム」の印象がそれほどきわ立つからだろうか。あるいは、「いはばしる」の形でその名歌が語られる機会が多かったせいでもあろうか。」

「いはそそく」と「いはばしる」 万葉集名歌の訓みの考察 大谷雅夫

その1http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-6ad2.html
その2http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-a3a1.html#comment-106340305
しきのみこの御歌(ウィキペディアから引用)

志貴皇子の歌は万葉集に6首収められているが、いずれも繊細な美しさに満ち溢れる名歌である。

  • 「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」
  • 「神なびの石瀬の杜のほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かむ」
  • 「大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも」
  • 「むささびは木末求むとあしひきの山の猟師に逢ひにけるかも」
  • 「采女の袖ふきかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く」
  • 「葦辺ゆく鴨の羽交(はがひ)に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ」

しきのみこはなかのおおえのおうじ、天智天皇のむすこなんですね。
なかのおおえ、ってさ。中くらい大きい兄ちゃん、って意味なんだね。
それにしても、大谷先生の論文をよむまで、石走るに何の疑問も抱かなかった。いい歌だなあと思うだけで。
でも、いまは違います。
もともとの正式な原歌の石激は「いはそそく」とよむことを知った。

しかしながら、だ。
比較すると、石ばしるのほうがずっといいのはなぜだろう。

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