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2014年3月30日 (日)

行空とは何者か~『法本房行空上人と造悪無碍』 4

水月・文

     

      四

 さて、法本房としての行空が造悪無碍者であったかどうかであるが、それについては行空がどのような義を立てたのかを見る必要があるが、最初に断ったように別稿に譲る。いまはさきに注意した『西方指南抄』巻中末に収録されている「七箇条制誡」連署名に注目したいのである。
 『西方指南抄』は「深智ありと雖も、文章に善からず。仍つて自製の書記なし(46)」といわれた法然の法語、消息、伝記、行状などを集成した、いわば法然全集ともいうべきものである。それを親鸞が編集したのか、すでに成立してあったのを親鸞が転写したのか説が分かれるが、おそらく親鸞の編集になるものであろう(47)。仮りに転写であったとしても、いま重要なのは高田専修寺に親鸞の真蹟本が現存しているということである。それは上中下の三巻をそれぞれ本末に分けた六冊から成る。奥書を見ると、康元元年(一二五六)十月より翌二年一月のわずか三ヶ月ほどで書き上げられたことがわかる。親鸞八十四歳の終わりから八十五歳のはじめである。そのうち「七箇条制誡」を収録する巻中末の奥書には、「康元元年〔丙辰〕十月十四日 愚禿親鸞〔八十四歳〕書写之」と記されている。
 前に述べたように「七箇条制誡」の原本は京都嵯峨の二尊院に所蔵されているが、それを『西方指南抄』本と対照すると、連署名に相違がある。『親鸞聖人真蹟集成』で示すと次のようである。

    信空  感聖  尊西  證空
  源智  行西  聖蓮  見仏
  導亘  導西  寂西  宗慶
  西縁  親蓮  幸西  住蓮
  西意  仏心  源蓮  蓮生(レンセイ)
  善信  行空  〔已上〕
     已上二百余人連署了
(48)(傍線筆者)

 ここに「二百余人」といわれているが、二尊院本では百九十名の連署である(49)。しかし二尊院本を写真版で見ると、第百九十番目の「向西」のあとに余白がなく、一紙ほど欠落しているように見える。そこで元々は「二百余人」の連署があったのかもしれない(50)。そのうち『西方指南抄』は二十二名だけ記し、あとを省略している。そして第十九番目の「源蓮」までは二尊院本とまったく同じである。ところが第二十番目の「蓮生」は二尊院本では第八十九番目にあり、第二十一番目の「善信」は「僧綽空」として第八十七番目にあり、第二十二番目の「行空」は既に述べたように第四十番目にある(51)。最後の三人には親鸞の手が加わっているのである。
 この順序の相違について松野純孝氏は、「親鸞は第十九番目の源蓮まで忠実に原本どおりに書写し、この辺で打ち切り(52)、第二十番目に自分の名『善信』を記して、あとの連署者二百名足らずを略そうとして、『已上二百余人連署了』としたのであろう。ところで、第二十番目に『善信』と記そうとしたが、蓮生房熊谷直実を忘れることができずに、自分の前に『蓮生』を記し、そして次に『善信』と記した。ところが、また行空のことが思い出されて、『行空』と書き加えたのではなかろうか。おそらく蓮生房熊谷直実や法本房行空は、親鸞の吉水時代の友として、特に生涯忘れることのできなかった人たちではなかったか(53)」(傍線筆者)といい、霊山勝海氏もこの解釈を「事実に即していると思う(54)」といわれている。とすれば、親鸞と行空は吉水時代、年齢差こそあれ、親交が深かったのであろう。そしていま、ここに「行空」と記されていることを、とくに注意しておきたいと思う。
 その上で、親鸞が造悪無碍を誡めている消息を見てみよう。『浄土真宗聖典(註釈版)』の『親鸞聖人御消息』でいえば、第二、四、五、二十七、二十八、三十七通である(55)。第二通には「建長四年二月二十四日」という年月日が記されている。それは一二五二年で、親鸞八十歳のときである。第四、五通には年月日がないが、第二通とほぼ同じころと思われる(56)。第二十七、二十八通は「九月二日」とだけあり、年代について意見が定まっておらず、建長五、六、七、八年ころのものと推考されている(57)。一二五三、四、五、六年で、親鸞八十一、二、三、四歳である。第三十七通は「十一月二十四日」とあり、建長四年のものでないかと推定されている(58)。いずれにしても、『西方指南抄』が編集される直前に近い。
 このなかで親鸞は、たとえば第二通には「煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことはあるべくも候はずとぞおぼえ候ふ(59)」といっている。第四通はもっとも厳しく、「その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん(60)」と、往生にかけて誡めている。
 またこのなかで親鸞は、造悪者に対してとるべき態度を示している。すなわち第二通に「悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことは候へ(61)」といい、「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず(62)」といっている。そして、その「なれむつぶべからず」の根拠として、第二通と第三十七通には善導(六一三~六八一)の「散善義」至誠心釈に「もし善業にあらずは、つつしみてこれを遠ざかれ(63)」といわれている文を、
    かやうに悪をこのまんにはつつしんでとほざかれ、ちかづくべからず(64)。
    悪をこのむ人をば、つつしんでとほざかれ(65)。
というように取意して挙げている。
 それは親鸞自身がとった態度である。すなわち第五通に、
    北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。
といい、また第三十七通に、
    北の郡にありし善証房といひしものに、つひにあひむつるることなくてやみにしをばみざりけるにや。
といっている(66)。善証房について第五通にいわれている以上の詳しいことはわからないが、親鸞は彼を近づけなかったのである。第二通に出ている「浄土の教もしらぬ信見房(67)」も同じであったのではなかろうか。親鸞が彼らを遠ざけていたのは東国時代のことであろう。それを晩年になっても例に出しているというのは、親鸞の一貫した姿勢であったことを示していよう。
 またこのなかで親鸞は、近ごろ法然の浄土宗義がさまざまにいいかえられていることを歎いている。すなわち第二通には「法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生などとおもひあひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身をもまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあうて候ふめり(68)」といい、第四通には「この世の念仏の義は、やうやうにかはりあうて候ふめれば(中略)浄土宗の義、みなかはりておはしましあうて候ふひとびとも、聖人の御弟子にて候へども、やうやうに義をもいひかへなどして、身もまどひ、ひとをもまどはかしあうて候ふめり。あさましきことにて候ふなり(69)」といっている。
 元に戻って、その親鸞が『西方指南抄』に「行空」と記しているのである。親鸞は誰でも彼でも記しているわけではない。たとえば『西方指南抄』を写真版で見ると、充分な余白がありながら、理由はわからないが、「遵西」の名を記していない(70)。しかし「行空」の名はあるのである。もし行空が造悪者であり、法然門下の異義者であったとしたら、記すことはなかったであろう。「行空」の記名は造悪者でなかった証拠である。親鸞が証人になっている。鎮西派では行空を、幸西・長西(一一八四~一二六六)とともに「門弟の列にのせざるところなり(71)」というが、それは鎮西派のいうことで、少なくとも真宗に流れを汲んだものは行空観を改めねばならないであろう。

 つづく

▼かささぎの独り言

つい、うなってしまった。

この章は本当におもしろい。
署名の順番と書き足しに関する考察。

84歳の親鸞が。

こないだの三章、八女星野黒木谷の高野堂の行空上人の墓が証すように、行空という名前が時代をこえて残っているという事実を鑑みただけでも、行空そのひとの聖人ぶりがわかります。もしわるいぼうさんであれば、だれが同じ名前を名乗るでしょう。
連句的に考えるとはそういうことです。

いまみたいに電気入力なら簡単に順番は並び替えられるのですが。

さて、かささぎ日誌。

普段、連日のように二時間の残業をこなし、家事もやります。
なかなか以前のように自由な時間はなくなったので転載も遅れがちです。

それが言葉のはしばしに表れるのか、水月さん、おこころ遣いありがとうございます。

おかげで助かりました。

原文のパソコンテキストをメール添付で水月さんからいただきました。
おかげで、難解で、普通じゃない(だって仏書ばかり)漢字がたくさん出てくるものを四苦八苦して打ち込む必要はなくなる。
これはしかしながら、いいような、わるいような。

自分の手で入力していくと、筆者のおもいが、自分の身に流れ込んでくる。
それはなかなか得がたいことだから。
かささぎ、ひとのためにやるのではなく、自分のためにやっているので。

▼きょうの脚注

(46) 明恵(一一七三~一二三二)の『摧邪輪』巻上に「有る人の云く」としていわれている(『浄土宗全書』八・六七五頁、『岩波思想大系十五 鎌倉旧仏教』四五頁) (47)梯實圓氏は『西方指南抄序説』(西本願寺安居講本、一九八六年)七~十五頁に、宮崎円遵氏・生桑完明氏・赤松俊秀氏・浅野教信氏・平松令三氏・三田全信氏・霊山勝海氏による先行論文を概観した上で、十一の項目を立てて、親鸞編集説を唱えておられる。逆に中野正明氏は「『西方指南抄』について」(同氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年、一二九~一三○頁)に、五項目を立てて、親鸞転写説を唱えておられる。ただし中野氏は梯氏の著には触れていない。 (48)『西方指南抄』巻中末「七箇条制誡」(『親鸞聖人真蹟集成』五・四○二~四○三頁、『真宗聖教全書』四・一五五~一五六頁) (49)「七箇条制誡」(石井教道氏『昭和新修法然上人全集』七九○~七九三頁) (50)中野正明氏「『七箇条制制誡について」(同氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年)四○○頁参照。なお「七箇条制誡」の写真は、法然上人伝研究会編『法然上人伝の成立史的研究 第三巻〈研究編〉』( 臨川書店、一九九一頁)一八六頁、中野正明氏『増補改訂 法然遺文の基礎的研究』(法蔵館、二○一○年)三九九頁などに掲載されている。 (51)「七箇条制誡」(石井教導氏『昭和新修法然上人全集』七九一~七九二頁)。なお、この連署名では十人ごとに「十人」「廿」と注記されているが、「八十」の註記は実際は八十一人目で、以下、一名づつずれていることに注意しておかねばならない。 (52)親鸞が「この辺で打ち切」ったというのは、単なる思いつきでなく、連署名第五行目の一段目に「西意」の名を記したからではなかろうか。拙稿「親鸞聖人と安楽房遵西上人─古田武彦氏への疑問─」(『行信学報』二五、二○一二年)に触れている。 (53)松野純孝氏『親鸞─その生涯と思想の展開過程』(三省堂、一九五九年)九九頁。 (54)霊山勝海氏『西方指南抄論』(永田文昌堂、一九九三年)三五頁。 (55)五十嵐大策氏『親鸞聖人御消息講読』(永田文昌堂、二○○二年)三二八頁参照。 (56)霊山勝海氏『末燈鈔講讃』(永田文昌堂、二○○○年)二五七頁、五十嵐大策氏『親鸞聖人御消息講読』(永田文昌堂、二○○二年)三二八頁参照。 (57)山田雅教氏「善鸞事件をめぐる研究史」(『高田学報』九一、二○○三年)註の23、参照。 (58)霊山勝海氏『末燈鈔講讃』(永田文昌堂、二○○○年)二三一頁参照。 (59)『親鸞聖人御消息』第二通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七三九頁) (60)『親鸞聖人御消息』第四通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七四四頁) (61)『親鸞聖人御消息』第二通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七四一頁) (62)『親鸞聖人御消息』第二通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七四○頁) (63)「散善義」至誠心釈(『浄土真宗聖典七祖篇〈註釈版〉』四五六頁) (64)『親鸞聖人御消息』第二通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七四一頁) (65)『親鸞聖人御消息』第三十七通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八○一頁) (66)『親鸞聖人御消息』第五通、第三十七通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七四五、八○○頁) (67)『親鸞聖人御消息』第二通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七三八頁) (68)『親鸞聖人御消息』第二通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七三八頁) (69)『親鸞聖人御消息』第四通(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七四四~七四五頁) (70)『西方指南抄』巻中末「七箇条制誡」(『親鸞聖人真蹟集成』五・四○三頁)、拙稿「親鸞聖人と安楽房遵西上人─古田武彦氏への疑問─」(『行信学報』二五、二○一二年)を参照されたい。 (71)『法然上人行状絵図』第四十八巻(井川定慶氏『法然上人伝全集』三一八頁)

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