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2014年3月 9日 (日)

ん~。つながっているのね、すべては。なにかみえそうなんだけど。

▼かささぎの連句的メモ

1、[大室寅之祐(おおむろとらのすけ)]、被
差別出身の天皇(すめらみこと)をパチンコ
(いけない)する     森山光章

2、「平成13年12月23日、桓武天皇の生母は、古代朝鮮、百済の武寧王の子孫である。このような、発表が平成天皇記者会見であった。

確かに、桓武天皇の生母、贈太皇太后、高野朝臣新笠、たかののあそみにいかさ、間違いは無い、しかし、実態は当時、渡来人として日本に帰化した百済王朝の子孫で彼女の場合、帰化してから10代目に当たる。

したがって、韓国人が喜び、騒ぐ程の事ではない。日本の皇室に古代朝鮮人の血が入ったとするなら、一方でこのような話もある。

朝鮮半島を始めて統一した王朝、新羅の第2王統、昔姓王統の祖は日本人、神武天皇の兄、稲飯命、いなひのみこと、である、この事は歴史書、朝鮮正史の一つ、三国史に記されている、

朝鮮の王は、日本人だったという話。

天皇、皇統記、南朝、北朝あり、NHKの大河ドラマでもあるように、実際は万世一系といわれているが、。非常に複雑な家系になる。


徳川の世から、明治にかけての間に、面白い話がある。

第122代、明治天皇、孝明天皇の第二子、睦仁親王が実は替え玉、すり替えだったと言う話、これはインターネットでも沢山の話があるので、調べれば良いと思うが、それは簡単に説明するとこんな話になる。

徳川幕府は政権を天皇に返還、大政奉還をした、時の天皇は孝明天皇、そして明治天皇、だが、政権を担いだ、薩摩、長州、政権運用上、扱いやすいお上にしたかった。

そこで、孝明天皇、暗殺、皇位継承者、睦仁親王をすり替えた。すり替わって、明治天皇となったのは、南朝系天皇の子孫、大室寅之祐、面白い事にこの大室家の子孫、元内閣総理大臣、橋本竜太郎に繋がる。

この説の根拠はいろいろ有るが、信憑性が高いのは、当時の写真、明治天皇になる前とその後では、明らかに別人である。

とにかく、結果、歴史上有名な明治天皇が誕生した。明治天皇、昭憲皇后の間の子供は無かった、大正天皇は明治天皇と柳原伯爵の娘、柳原愛子、宮中女官との間の子供である、

大正天皇、色々奇功もあったとされた、現在ではその症状からいって知識障害ではなかったかと言われているが、その生涯は短かった。

この大正天皇と貞明皇后の長男が、昭和天皇になる。

日本には色んなタブーがあって、触れてはいけない問題、話があって、天皇家の問題は菊のタブーとされた。

菊は天皇家のご紋章である。

戦前であれば、このような記事は書けないし、書いたら、不敬罪で刑務所行きだった。」

以上、「わがまま親父の独り言、カナダで生きています」より引用転載。
http://2002mar.blog.fc2.com/blog-entry-430.html(ありがとうございました。)

3、

新笠出自と子孫[編集]

父の和乙継は百済渡来人の子孫で、(かばね)は和史(やまとのふびと)と推定されているが、詳細は不明。夫の白壁王(光仁天皇)即位後に高野朝臣と改姓した。

続日本紀延暦8年12月28日条に

「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。、、、、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」

とあって、和氏が武寧王から出た百済王族であることが記されている。日本書紀によれば継体天皇7年(西暦513年)百済太子淳陀死去とあり、純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。このことから和氏が武寧王の子孫であるかどうか学術的に少なからず疑義が持たれている[2]

また、淳陀太子の没年と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、和氏が百済系渡来人としても百済王氏のような新来の渡来人ではなく、相当な古来で日本化した帰化氏族だといえる。天平宝字元年に「大倭国」が「大和」に改められた際、「大倭宿禰」などの字(あざな)もすべて「大和」に改められており、和氏ももとは倭氏と名乗っていた可能性が高い。

和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。

高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。ここには菅原寺、秋篠寺などが営まれ、また長岡京が大枝におかれたことからみても、母方の土師(大枝)氏一族は貴族として以後重んじられていった。一方、高野朝臣と改姓した父方和氏一族のその後は、ほとんど知られていない。

高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001年)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった。(ウィキペディア)

4、熊本、三千三百三十三段の階段、釈迦院。

釈迦院(しゃかいん)は、熊本県八代市泉町柿迫にある天台宗の寺院。山号は金海山(きんかいざん)で、詳しくは金海山大恩教寺釈迦院(きんかいざんだいおんきょうじしゃかいん)と号する。

寺伝によれば、延暦18年(799年)、桓武天皇の勅願により奘善大師が草創したという。
奘善はもと薬蘭と称し、延暦18年の大地震の際に大行寺山山頂から金色釈迦如来像を感得し、草庵に祀った。薬蘭の祈祷が桓武天皇の病気平癒に効験があり、薬蘭は桓武から奘善大師の号を賜ったという。寺に伝わる木造僧形神坐像の像底には、仁治3年(1242年)の年紀とともに、「釈迦院 山王二宮御垂跡形像」云々の墨書があり、釈迦院の名称が13世紀には使用されていたことがわかる。[1]

大行寺山(釈迦岳)の頂上近くに所在し、かつて坊数75坊、末寺49院が建ち並び、西の高野山とも称された一大霊場だったという。本尊は釈迦如来で、天台宗真言宗禅宗浄土宗4宗兼学で、1446年文安3年)には、比叡山延暦寺の末寺であった[2]

天正年間1573年 - 1592年)に、キリシタン大名小西行長の寺院焼き討ちにあい、寺坊は焼きつくされ、社領も没収され衰退した。その後、加藤清正忠広親子により再興され、熊本藩主細川氏により修復された[3]

信仰すれば、長わずらいすることがないとの事で「ぽっくり寺」とも呼ばれる。例年、4月8日花祭りには多くの参拝客が訪れる[4]

伝承によれば、弉善(しょうぜん)は、宝亀8年(777年)肥後国八代郡北種山村梅林(現・熊本県八代市)生まれで、幼名は薬蘭。

幼くして出家し、霊感により大行寺山に庵を結んだ。桓武天皇の病を加持祈祷により治癒した効験により寄進を受け、釈迦院の堂塔が建立され、桓武天皇より大師号を授かったとされる。承和3年(836年)、60歳で没したという[5]

熊本県指定重要文化財[編集]

  • 銅造釈迦如来立像
  • 木造男女神坐像 7躯

日本一の石段[編集]

釈迦院へと続く日本一の石段

釈迦院が所在する大行寺山(標高957メートル)は、八代市下益城郡美里町の境に位置している。

また、美里町側からの参道は中世以来の表参道であったが[6]1988年昭和63年)、当時熊本県知事であった細川護熙の「日本一づくり運動」に呼応し、それまでの羽黒山 (山形県)の石段を抜く3,333段の日本一の石段(釈迦院御坂遊歩道)として整備された[6][7]

釈迦院に月の傘(からかさ)かかる夜
三千三百三十二のきだはしにて花を詠み
ぽっくりといきたし   釈恭鵲

海抜一千米余大行寺山頂上近くに古刹金海山釈迦院がある。
往時七十五坊四十九院、寺領凡そ三千三百八十町を有し僧侶二百八十人余、四宗兼学道場とし盛大であった事を伝えている。
天正年間小西行長の兵火にて一坊残す事なく灰塵に帰し、後加藤清正忠広二代にて再興、明治二年廃佛毀釈の難に依り廃寺に至るも年来地之有志の復興努力により寺院境内山林現状に復す。
開基は弉善大師、大師には出生伝説を残す。
宝亀八年正月二十九日種山村梅林(現在八代市東陽村)にて誕生、幼名を薬蘭と云う。
時の国司藤原朝臣道妙は、多聞天蓮華を捧げ南に飛び種山村権三(或説権藏権操)の家に到り妻お米の枕元に置く光明輝き男子誕生の夢を三回見る。不思議に思い、当時の国府現在熊本市二本木町は土木工事の最中であり、指揮に当っていた権三に問い質されますと権三は、「自分の妻は十三ヶ月に至ってもお産がない」との事、故に同道して家に到れば、お米産気付き光明の中に男子誕生とある。時の郡司桧前正麻呂(或説桧隈、日隈政丸)養育に当り十三歳にて得度、二十三歳に至って霊雲に導かれ当山の或泉にて生身の温かい釈迦金像の湧出するに会い草庵を営み安置する。と伝えている。肥後国誌に依れば、

(なんということ。ここでぶちきれていました。ひどい。ちゃんと読みたし。)

5、傘橋(からかさばし)・・・だいぜんじ

http://kurumenmon.com/daizenji/daizenji/tamataregu.html

(下の記事はしゃしんとも、上記ブログの引用でございます。ありがとうございます)。

傘橋と道君首名

傘橋の橋脚    
    石柱の基礎になっている、大石には不明瞭ですが模様があります。傍の2つの大石と合わせて夜明神社の道君首名の墓石だったということです。(この付近には大石は少ないので活用されたようです)
(首名は中央では大宝律令の選定に携わり、新羅への派遣大使を務めたり、筑後守に任ぜられ、肥後守も兼任した初代国司で、三潴では灌漑や農業振興などに力を尽くした人。)    

現在、社務所の傍にかなりの高さの石柱が立っています。(上左の画像)これは傍を流れる広川に架けられていた神幸橋の橋脚石です。当時は現在の川幅の半分位で25mほどだったそうです。
    当時は、川の氾濫で簡単に橋が流失するため、川にこの橋脚石を立て、これに両岸から橋桁を差し、川が氾濫するとすぐに橋桁を外すことができた。このとき、夜明神社にあった道君首名の大きな墓石3つを運んで橋脚の基礎石に使った。最も大きな石には、丸い何かの文様が彫られた痕跡が残っています。
    「抜河曳橋」この姿がからかさを開いた姿に似ていたので「傘橋」と名付けられたが、嘉永4(1851)年の大洪水で流失したという。

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コメント

大行寺山にいるおじさん 熊本

で見えてる

とてもきになる

そらそおと。
信長コンチェルトがはじまるんやな。
小栗旬、楽しみです。

ここ。さきほどみえていたのです。
ちりがよくわからない。
だいぜんじにひろかわがながれていたっけ?
ひろかわ、ひろかわまちをながれて、そして、だいぜんじにでて、ちくごがわとごうりゅうするのかなあ。
からかさばしも、よくしゃしんでみますと、ふるくて、ものものしげですね。くわしくしらべたらおもしろいのだろう。

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