無料ブログはココログ

« ユニフォームがつんつるてん | トップページ | 今朝のけしき »

2013年12月11日 (水)

平成26年度診療報酬改定の動向(102) 勤務医等の負担軽減等について

保健医療経営大学学長

橋爪章

2013 年 12 月 11 日 平成26年度診療報酬改定の動向(102)

Share on Facebook


先週の中医協では、個別事項その5として「勤務医等の負担軽減等について」が取り上げられています。
ふたつめの「等」には、「病棟薬剤業務」、「院内感染防止対策」、「救急医療」、「周産期・小児医療」、「認知症対策」、「褥瘡対策」が含まれています。
残された個別事項がてんこ盛りされており、いよいよ中医協は大詰めの段階ということでしょう。
勤務医等負担軽減についての提言は次の通りです。
・ 時間外・休日・深夜における内視鏡検査について評価。
・ 時間外・休日・深夜の処置(1000点以上の処置に限る)・手術の評価を、下記を要件として充実。
○医師の時間外・休日・深夜の対応に関する配慮を実施すること(予定手術前の当直の免除や交代勤務制の導入、時間外・休日・深夜の対応に対する手当
○採血・静脈注射・留置針によるルート確保について、他業種との役割分担の推進すること
・ 医師事務作業補助者の勤務場所に一定の制限を設けた上で、医師事務作業補助者の配置について、より充実した評価を行う。
・ 重症度が高い患者を多く受け入れている病棟において、夜間急性期看護補助体制加算および看護職員夜間配置加算の評価を充実。
月平均夜勤時間72時間要件のみが満たされない場合、一般病棟7対1入院基本料、一般病棟10対1入院基本料だけではなく、その他の72時間要件が対象となる入院基本料についても同様の取扱とする。
これらのうち、「医師事務作業補助者」については本学卒業生が活用されています。
提言によると、医師事務作業補助者を配置した場合の加算について、従前の診療報酬がすべてアップされるようです。

(保健医療経営大学学長ブログ転載)

▼かささぎ工場日誌

かささぎババアの耳がピンとなる用語:

月平均夜勤時間72時間要件、とはなんぞや。

病院には昼の顔と夜の顔がある。
どんなに昼間よい看護体制が敷かれていても、夜も同じとは限らん。
よい昼間の活動のためには夜間の休息と安眠が必要だからだ。
だが、病院では夜間にこそ看護の必要度は高まる。

解説)

病院では、昼夜を問わず患者さんの看護が行われています。特に重症な患者さんが多く入院している病棟では、夜間に看護師が少ないと、患者さんが必要な看護サービスを受けられなくなる可能性があります。これに対応するために、夜間においても患者10人程度に対し看護職員1人以上が勤務する体制が必要であり、また看護師の労働負担を緩和し、よりよい看護が提供できるように看護職員1人あたりの平均夜間勤務時間数を月72時間以内とする条件があげられました。このように夜勤の看護サービスの質を保証するために、一定の要件を満たした場合には、診療報酬において「夜間勤務等看護加算」が病院に支払われているのです。また、新たに2002年の診療報酬改定では、手厚い夜勤体制が必要となっている実態を踏まえ、高い看護職員配置には診療報酬点数も高く設定されています。看護職員配置の水準が評価されているのです。

http://www.kango-net.jp/mame/hospital/story_02.html

(☝夜間でも手厚い看護を受けるために)

▼連句的かささぎ工場日誌

病院ではないが、かささぎ工場では、昼間の電気料よりも残業体制に入ってからの電気料の方が多いんだそうな。笑。
工場では残業が月に80時間を超えないよう限度が設定されている。
かささぎの斜めとなりの工員さんはそれによくひっかかっているほど、働き者です。
いつも黙々とよく働いて、改善提案でも表彰されてます。
火を吹く機械も難なくこなせて、とってもかっこいいっす、うら若き独身女子なのに。

工場全体が陰日向なく働くはたらき者の職場で、かささぎも知らず知らず働き者になってしまいましたとさ。とほほ。または、えっへん。

お待たせしました。
時間学のお時間です。
かささぎ、きょうは有給をとっています。
平日でなきゃできん用を済ませるため。

キリスト教の時間について、ですね。

What’s 時間学 ? (21)

「未来と今─キリスト教の時間」その2)

(1)

保健医療経営大学の第6回大学祭「たかやな祭」が先月24日に開催され、無事成功裏に終了しました。本学大学祭の歴史について、学長が本学HPのブログ「学長のひとりごと」(11/24「大学祭」)で経営の視点から講評されています。ぜひご覧いただきたいと思います。

「開学初年度(平成20年)は一年生しか在学していませんでしたので、聖マリア学院大学の大学祭(マリア祭)に本学新入生による模擬店を出店する形での相乗り大学祭でした。(略)」と書かれています。私も学生と一緒に、長テーブルを初め備品類をワゴン車で「マリア祭」の会場に運び込んだことをつい昨日のように覚えています。

合同開催を呼びかけてくれた兄弟校「聖マリア学院大学」の教育理念には、「「カトリックの愛の精神」に基づく教育・研究を行って、豊かな人間性と深い教養を具え、(略)」とあります。

つぎに、前回報告「 未来と今 ━キリスト教の時間 」の資料編をお届けします。

桜の華、2013.11 .15(2)

(11月中旬のダリア「桜の華」です。 師走に入った今は、

右上隅のつぼみがきれいに咲いています。)

 

 

(2)「未来と今 ━キリスト教の時間」資料編

 

1)聖書( the Holy Bible )の構成

【 宗教別の正典(経典) 】

旧約聖書  39巻     ユダヤ教、 キリスト教(カトリック、プロテスタント)

新約聖書  27巻       ━  、 キリスト教(カトリック、プロテスタント)

旧約聖書・続編 13巻  ユダヤ教、 キリスト教(カトリック、   ━    )

 

・神がイスラエル民族に対してモーセを通じて結ばれた旧約(旧い契約)

・のちにイエス・キリストによって結ばれた新約(新しい契約)

 

2)ユダヤ教の暦とキリスト教の暦と(それぞれの特長)

・ユダヤ教では、世界の創造を年代的に確定できると信じられており、第一日という時の

或る起点を 定めて、そこから単に先へ数えていく。

(『キリストと時 ━原始キリスト教の時間観及び歴史観』 Christus und die Zeit

                      Oscar Cullmann・著、岩波現代叢書、1954年、p.1 )

 

・キリスト教では、或る起点からではなくて、一つの中心から出発する(キリスト紀元)。その

中心とは、ナザレのイエス・キリストの生誕という事実である。そこから出発して、一つは前

方へ、もう一つは後方へと正反対の方向に、「キリスト(紀元)後」「キリスト(紀元)前」という

二つの数え方が行われる。

この数え方は、この二百年以来初めて用いられた、キリストの生誕を中心として、同時に前

方及び後方に数えていく仕方である。すなわちキリスト来臨の事実が、すべての出来事の

時間的な中心とみなされるからである。                        (同上p.2 )

 

桜の華1、'13.11.19

(この写真の撮影は、前掲写真をとって4日後の11/19でした。

右の花冠が大きくなっているのがわかります。)

 

3)キリスト教的な時の考え方

「キリスト(紀元)後」「キリスト(紀元)前」という二つの数え方に従えば、歴史の始めは、後

方(過去)にさかのぼってゆく時間の線上の不確定な一点に位置しており、歴史の終りも同

じく、前方(未来)にすすんでゆく線上の不確定な一点に位置している。何故なら、両つの

方向にむかって数えつづけてゆく可能性は、無限にひろがっているからである。(略)この

時間の線全体を、その年代的経過に従って観察するならば、キリスト以前の時代の大きな

数は、次第に減りながら1にむかってすすんでゆき、キリスト以後の年数は、逆に1から次

第に増しながら大きな数になってゆくのがみられる。(略)この時間の図式が、(略)原始キ

リスト教の時間及び歴史の把握の仕方に、いかに適応しているかを見る。(略)」

( 同上、p.2 )

 

4)聖書にみるキリスト教の時間概念

 

イエス・キリストは昨日も今日も永遠までも変り給うことなし。

(ヘブル書 13:8)                   (同上、p.ⅱ

Jesus Christ is the same yesterday , today , and forever.

The Letter to the Hebrews 13:8

 

5)讃美歌にみるキリスト教の時間概念

 

讃美歌 546(讃詠)

 

聖なるかな、せいなるかな、

せいなるかな、主なるかみ、

      むかしいまし、いまいまし、

      とわにいます主をたたえん。

 

(『讃美歌・讃美歌第二編』日本基督教団 讃美歌委員会・編集、

日本基督教団出版局、1971年)

 

桜の華2、'13.11.19

(開学の年に播いたコスモスは毎年キャン

パスの主役でしたが、今年も控えめですが

学生達の目を楽しませてくれています。)

 

6)キリスト教における神の永遠性

 

滅びざるもの

かつてあなたは大地の基を据え

御手をもって天を造られました。

それらが滅びることはあるでしょう。

しかし、あなたは永らえられます。

(詩編10226,27節)

 

O LORD , you live forever ;

long ago you created the earth ,

and with your own hands you made the heavens.

They will disappear , but you will remain ;

Psalms 102 : 26,27

 

古来人間は、悠久の天地の中で人間の生命といとなみのはかなさをうたい続けてきま した。

天を仰ぎ、地を眺めて、過ぎゆく己が存在を慨嘆しました。

しかし、その天も地も滅びるというのです。それらを創造された神の下では。神の中にだけ

永遠は存在する、それが聖書のメッセージです。神という人格との出会いの中で、人間は

永遠を味わいます。永遠を呼吸します。

(略)。

(『朝の道しるべ 断想366日』小島誠志・著、教文館、2011年)p.242

 

7)「キリストと時」について

(略)神の国の性格を如何に解釈しようとも、新約聖書自体が過去、現在、未来という時間

に制約されてその中に起る出来事を描いていることに疑いなく、これ等出来事がイエス・キ

リストという歴史上の人物を中心としていることも否めない。この点からしてクルマンは新約

聖書の歴史観を過去から未来に続く神の救済史の線として描き、その中心にイエス・キリ

ストの来臨を置く。現在はその来臨と未来の再臨との間にあり、従ってギリシャ的な意味で

現在の時と無時間的な永遠とを対立させず、現在も過去と未来と共に神の経綸の中にあり

とする。

(『キリストと時 ━原始キリスト教の時間観及び歴史観』 p.288 )

 

8)終わりに

可能なら、時間を心との関係からとらえたアウグスティヌスの時間観に挑戦してみたい、

と考える。

 

(投稿者:松永伸夫)

▼アウグスティヌスの時間論、とは。

で検索して二番目に出てきたサイトから、ひかせてもらいます。(かささぎ)

キリスト教思想史上の時間論で、まず我々が足を停めるべきなのは、初代キリスト教の思想的最高峰と言われているアウグスチヌス(Aurelius Augustinus)であろう。彼はマニ教から新プラトン主義の影響下にキリスト教へと改宗したのだが、その有名な『告白録』の中で(4)

永遠と時間について次の如くに述べている。

汝(神)は時間において時間に先んじておられるのではない。さもないと、汝があらゆる時間に先んじておられるということにはならないであろう。しかし、汝は常に現在であるところの永遠において、あらゆる過去に先んじ、あらゆる未来の後に残られる。未来も過ぎ去るならば過去になるが、汝はなおそこにおられる。汝は常に同一であり、汝の年は去り行きもしなければ来りもしない。しかもわれらの年はすべて未来の年が来る余地を作るために、去り行きまた来たる。汝のすべての年は同時的に存在している。そして、汝の年は去り行くにあたって、来るべき年によって押しのけられない。何故ならば、それは過ぎ去らないから。しかしわれらの年は、われらすべてが存在しなくなってもなおも存在しているであろう。汝の年は1日であり、汝の日は日毎に新たになるものではなく何時も「今日」である。何故ならば汝の「今日」は「明日」によって滅ぼされず、「今日」も「明日」も「昨日」につづいているものではない。汝の「今日」は永遠である。それ故汝が、汝とともに永遠な者(キリストのこと――引用者注)を生まれた時、汝は彼に向かって言った、「われ、今日汝を生めり」と。汝はすべての時を、お造りになった。それ故に、あらゆる時の前に汝はおられ、汝の時がなかった時はない。

以上、野呂芳男氏のホームページより引用いたしました。
ありがとうございます。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1595/1975jikanron.html

« ユニフォームがつんつるてん | トップページ | 今朝のけしき »

コメント

娘がフェイスブックに乗せてくれた感動をおすそわけさせてくださいね。

Maine Kagawaさんがリンクをシェアしました。

13時間前
.

身内の話で申し訳ありません。
実は私の母がこの度本を出版する事になりまして、この場を借りて宣伝させて頂きます。

詳しくは動画を見てもらえればお分かりになると思いますが、アウシュビッツ収容所での音楽隊と一人のバイオリン弾きの少女の話です。音楽知識は全くいらないので、普段オーケストラやクラシックに馴染みがない方でも十分楽しめると思います。

思えば10年くらい前、いきなり何かに憑かれたように夜も寝ずに本を書き始めてから
初めは自主出版で本を出したり、家族全員からもうやめろと反対されたり悪い人に騙されかけたりなどここまで来るのに何回も壁にぶつかっておりました。
しかしそれらを全て跳ね返してきた彼女の根性とこの本にかける思いには横で見てる私から見ても正直凄まじいと思います。

角川書店様、また今回の出版に関わってくださりました全ての方々に私からも心からのお礼を申し上げますと共に、ぜひお時間ある時にでもこの動画を見て頂き
、本屋に行かれた際、この本が目に入りました際には一度手を取って見ていただきたく思います。
長文失礼致しました。


http://www.jannu.jp/


https://www.facebook.com/yoshiko.kagawa.16/posts/459553427483217

よしこ先生。
むすめさんは、マイネちゃんとおっしゃるのですね。とっても響きのうつくしいお名前です。
先生が書かれた小説は、アンネの日記を取り込みつつ、日本とユダヤの同祖論ともシンクロして、知っているようであまり知らなかった、戦時中の捕虜の扱いや、それから、この平和ボケがかなり進行している今の日本では語るにしのびないような、ホロコーストのはなしを、真正面から語って、目を背けさせない勇気があります。
そう、今きづいたのですが、前半のホロコーストの暗さを、後半の明るい日本の捕虜待遇でバランスをとっているため、決して暗澹たる気持ちにはならない工夫がされています。

>思えば10年くらい前、いきなり何かに憑かれたように夜も寝ずに本を書き始めてから

面白いものですね。
先生にお会いしたことはまだありませんが、そういえば、似たタイプのにんげんがもうひとりここにいますよ。
竹橋乙四郎のイスラエルをつくった男の話、。
あれができたのは、三日ほどでしたか、あれよあれよというまにでした。とりつかれたように、です。

いま、読み返してみて、久留米での捕虜の扱いについて書かれている部分、これは要注目です。
「九、
29の俘虜収容所のひとつに久留米俘虜収容所があります。福岡県久留米では第48連隊の練兵場の中に収容所が新設されました。1905年4月19日、九州鉄道の京町停車場にロシア兵捕虜500名が降り立ち、そこから徒歩で三井郡国分村の収容所へ向かいました。その後も捕虜は続々と到着し、最終的に2800名余りのロシア兵(下士卒)が滞在しました。短い収容生活の間にも、地元の住民との交流がありました。1905年9月11日の筑後川水泳大会を伝える福岡日日新聞によれば、来賓の部で捕虜15、6名が競泳を始め、川向こうから泳ぎだしたが、予定の場所に着いたのは2、3名で、他は押し流されて下流に繋いだ筏に泳ぎ着き、1、2名は船で救い上げたとあります。
 久留米では、11月26日に、捕虜の放火と見られる火事も発生しています。バラック収容棟8棟、炊事場、物置などが焼失しました。福岡日日新聞によれば「数日前より俘虜の一部は待遇の不満を唱え居たれば、或は暴行を為すやも知れず」とのことでした。日本人兵士の倍額の食費をかけ、戦時下の牛肉不足の中でも新鮮な牛肉を調達するなど、いかに厚遇に努めても、日本式組織管理や居室の構造、洋食食材の品質など、異国の地で余儀なく暮らす捕虜たちには不満が鬱積していたのでしょう。
久留米俘虜収容所は短い期間しか使用されませんでしたが、この時の捕虜との交流経験が、十年後、ドイツ兵捕虜との深い交流につながり、久留米市の発展の礎となっています。」
以上、竹橋乙四郎「浜寺俘虜収容所のロシア兵~あるユダヤ人捕虜と日本」☟からの引用。

ごめんなさいまし。
よしこ先生の小説が、大海原に船出をするというときに、もうひとりのすごい才能の持ち主をわすれるわけにはいきませんでした。
ヨセフ・取るペンで取ーる。だったっけ?
ヨセフ・取る便出とる。だったっけ。
ああごめんさらにもひとつごめん。わすれちまったい。めんどくさいながったらしい名前。
(名前検索では、竹橋乙四郎の☟が二番目、一番目にはウィキのゼエブ・じゃぼちんすきい。がでます。)

ということで、香川よしこ先生のザ・ヴァイオリンが触媒となって生れた、竹橋乙四郎の小説も、ここで宣伝いたしました。

ものがたりのうまれいずる場所に立ち会うっていうのも妙なきもちです。

さいごに。
大ヒットを祈念しております。

「歌仙は三十六歩なり。一歩も後に帰る心なし」。
これが連句一巻を巻く際の「基本精神」と言われています。
要は、これが決まりごとで、大きな柱です。
これに基づくがゆえに、句を付けていく時には、発句と脇句以外では、重複、粘着、停滞、同種・同趣・同景などは「許されない」ものとなります。

いま今いま、なのです。

そして、すべて前へ前へとすすめ、同じ場所に停滞したり後に戻ったり、以前のものに固執したり、無効な使いまわしをすることは御法度なのです。

連句をしていくと、そうした「我」や「とりつかれた亡霊」のようなつまらない自分が鮮明に見えてくるから不思議といえば不思議で、やがては、これが潜在する魅力や可能性の宇宙なのであろうか、と実感するに至ります。

連句が面白いのは、句を詠んでいた過去の今と、その句を読んでいく今とが生き生きと連動するからです。そこには句をだした本人でさえがあっと驚くような一瞬の因果論がある。(ような気がする。)
因果というと、ながい一本の時空軸を連想しますが、ほんとうは点なんだ。と、はっと気づく。(ような気がする。)おそろしく先端をいっているというか、まだだれも踏み込んでいない領域がはじめからある、というか。
むかしの日本人にはそれがみえていたんだねえ。

以上、竹橋乙四郎の「連句について」(たかやな祭連句興行資料)と、かささぎの連句における時間論でした。

よしこ先生。あーんど乙四郎先生。
わたしはまだフェイスブック加入してないんどす。
そこまで手が回らず、です。
若い人たちはブログよりツイッターしてますね。
次男もやっているらしい。覗いたことはないが。

ラインもしらんし、アンドロイドも知らずに、やっと今日調べました。

今、「すばる歌仙」丸谷才一、大岡信、岡野弘彦3氏で巻かれた連句の本を読んでいます。

ちょっとおもしろい。巻いた歌仙の、一句一句の解説を書いてあるんよ。決まりごとは私たちのより緩い気がする。
いろいろな巻き方があるとわかった。

それは面白そうですね。
ぼんさんも乙四郎さんも本格的に連句の勉強をされています。
たのもしい。
らんさんも読んでいたっけな。連句の本。
共著で、一人は大野鵠士先生でした。

このひとが大野鵠士さんです。☟
連句大会でおはなしをなさいました。
福岡国文祭、れんく会場は、苅田でした。
西鶴矢数俳諧の世界、という著書おもしろし。

ふしぎなことがあった。
もとめ、という言葉から、ウロウロしていたとき、思考の部屋のどなたかのコメントで池田晶子という哲学者に出会う。
もう、なくなっていらした。
小学校教科書に掲載されているという文章について読んだ。ぐっときて、まっすぐこころに届いた。
動画をみた。
連句の時間論とまったく同じ話をなさっていた。
いま、今、いまがあるだけなんだと。☟

池田晶子「言葉の力」について
丹藤博文

滞在時間 15分23秒 閲覧ページ数 4ページ 参照元 平成26年度の診療報酬に対する病院検査室の生き残り

アクセス解析をしなきゃ。と開いたが、ここすうじつ、異常な数字の増え方をしていて、見ていると不気味。一分間隔くらいでアクセスがある。
むかしのアクセス解析にはロボットツールが分けられていたのですが、今のではその区別がつきません。整然と並んだ、参照元なし、のアクセスを、どうしていいかわからない。
とりあえず、そんな中、これは人の気配がするアクセスでした野で、忘れぬうちにメモろう。
検索用語、
加算 夜勤 診療報酬 静脈注射

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« ユニフォームがつんつるてん | トップページ | 今朝のけしき »

最近のトラックバック

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31