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2013年10月13日 (日)

満州事変についての思い、赤とんぼが晴らす。

去年の老連広報に、高校のアルバムの教師名簿のなかにお名前をみることができた先生(以前に尖閣諸島を開拓した人は八女出身の古賀辰四郎だったという文章を書かれていた山下功先生)の満州事変についての御文章があった。(引用済みです。)

正直言って、満州事変は私にはよくわからないが、丸山豊先生の「月白の道」には、中国には便衣兵(平服の兵)がいたことが書かれている。身なりでは兵士か民間人かわからないのだ。そんな中戦うのであるから、どうしても込み入ってくる。卑怯な手口も使っただろう。

考えようとすると、霧のなか、近づけなくなるのだった。

ところが、今日、十月二日に亡くなった、連句仲間の沢都の「赤とんぼ」を転載しなおすにあたって、満州で赤とんぼを作っていたおじいさんを再び思い出しているうち、赤とんぼ絡みで、満州航空というものがあったことを知った。あちこちググっていた中にこれらはあった。

以下引用。

「彼らのほとんどは、予備役下士官として除隊後、母校の助教をはじめ、大日本航空、満州航空、中華航空、航空機製造メーカーへと就職し、さらに上級コースの中央航空機乗員養成所へ進んでいった。そのまま軍隊に残り、そこで優秀な者は操縦候補生課程を経て将校に昇進した者、母校の助教を経て操縦候補生になり、終戦時、少佐にまで昇進した者もいたが例外だった。」

http://www.aero.or.jp/web-koku-to-bunka/2007.8.15you

http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n13812(満州事

満洲事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動であったのです。
戦乱と飢饉の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって満州国こそ最後の駆け込み寺でした。年間百万あまりの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことがその何よりの証拠です。
満州国は日本の支援によって政治的に安定した地域となり、航空機まで製造する近代産業国家に発展したのです。豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は、「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。
毛沢東はかつて「かりにすべての根拠地を失っても東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。実際戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占め、中華人民共和国を支えたのは満州国の遺産であった。

今▼▼

憂楽帳:続・丸山豊の沈黙

毎日新聞 2012年04月07日 西部夕刊

 戦争体験をつづった「月白の道」という名著を残した詩人の丸山豊が、最後まで書か(け)なかった戦争の一面とは何なのか。しかもただ書かないのではなく、わざわざ書か(け)ないことがあると明かして読者に謎解きを委ねたのはなぜか。引っ掛かっていたのは私だけではないようで、先週の拙文を読んだ何人かに声をかけられた。

 捕虜の生体解剖や朝鮮人慰安婦に象徴される加害の側面も、事実として「どこまでも追いつめる」仕事をした元記者の品野実は、丸山を深く尊敬していたことが彼の本を読むと分かる。丸山が品野の仕事を否定的に見ていなかったのも、その本に詩を献じていることから明らかだ。ただ丸山は「月白の道」のあとがきで、復員十数年後に農薬をのんで自殺した元部下やドブロクにおぼれて死んだ元兵士のことを記し、胸の内が分かると書いている。

 戦場の傷を心に抱えた人がいる限り、傷口に塩を擦り込むようなことは自分はしない。そう「倫理的な判断」をし、「化石になるまで忍耐する」道を丸山は選んだのではなかったか−−。

 本人亡き今、確かめるすべはないが、そんなことを考える。【福岡賢正】

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コメント

それともう一つ、具体的な満州のイメージを教えてくれる記憶があります。
渡辺きょうじ先生の厠のアンケートへの回答。
満州にいたころは水洗トイレでした。いまは和式汲み取り式です。(と書かれていた。)
これに驚いてしまったのだ。満州って、そんなに文化的先進国だったのかと。

石橋秀野を調べていたころのことです。

青嵐ベンチレーター軋み鳴る   昭和十六年、東京中野にて 石橋秀野

暮らしにもう換気扇があった。
わたしはそのことに驚いてしまった。
私の田舎でガスが普及するのは昭和三十年代後半。マキのかまどで煮炊きしていたことは直接は覚えていないけれど、祖母が納豆を作るとき、庭にかまどを作って煙のなか豆を煮ていたことと、あとはそれよりもっと古い三歳位の記憶か、醤油を絞っていた匂い、は覚えている。味噌も納豆もうちで作っていた時代の前に醤油も作っていたんだろう。
思えば新聞投稿はいろんなことを教えてくれた。
西日本新聞と朝日新聞。大好きだった。
こどもたちが小さいころ、投稿ばかりしていた。
朝日にあったテーマ談話室。
その「食べる」に、「こども」に、せっせと書いた。
のちにまとめられて本になった。
市井の人たちの記憶をまとめた本。
そういうのをやりたい、とどこかで思っていたのだろう。
わたしはれぎおんの前田編集長に頼んで、ガスのアンケートをとらせてもらった。振り返れば42歳のころ。
集計の助手をしてくれた沢都は30代後半だった。
最初のアンケートは、以下のことを一枚のプリントにして送ってもらった。実施は50人。

煮炊きに何を使っているか。
それ以前は何だったか。
風呂はどうか。
なにかそれに絡むエピソードがあれば。

ほとんどの人が回答してくださった。
それがわくわくするほど面白く、しかも貴重な肉声。どこにも嘘はない。資料としてどこかに売り飛ばしたいくらいだと前田先生がおっしゃった。

つぎは電気もしたいな、でもこれは今時ろうそくの生活している人はなかろうから、トイレをやろう。ということで次に厠のアンケートをやった。
これもまた圧倒的に面白かった。

それをまとめた。
前田先生に回答をぜんぶ送ってもらって、集計し、文集にまとめ、協力してくだった方々へ送付した。

思えば、かささぎが編集して出した手作りの小冊子が二つあって、ひとつはこれです。
もう一つは、八女ぼんぼり祭り連句大会の記録。
どちらも当時愛用していた富士通のワープロで作成した。
わずか十余年前のものなのに、すごいスピードで文明がすすんだので、ワープロなんてもうどこにもない。もうちょっと我慢して、持っておけばよかったなあ。
ワープロフロッピー。


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