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2013年7月14日 (日)

随想 風媒花(19) ひたむきに願う    文・ 大浦フサ子

ひたむきに願う

    文・大浦フサ子(宮崎県都城市在住)

 水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

金子兜太「自選自解99句」(平成24年5月刊)の中の一句。
昭和21年11月トラック島から帰還の復員船中の句で、「非業の死者」への鎮魂の句と解説されている。本句を幾度となく読み、昭和の激動といわれる戦争、特に第二次大戦の三百十万人余の戦死者に思いを馳せる。その多くが大正年代の生まれである。
今年は東京大空襲より68年となる。三男の兄は荒川区にいた。兄は昭和20年3月9日の深夜から、10日の早朝の東京大空襲の惨状に遭う。B29約80機の空爆は巨大火災の大旋風を巻き起こす。中でもその熱火から逃れようと隅田川に飛び込んだ住民は、山積みの死骸となっていたという。一昨年九十九歳で亡くなった墨田区深川本所の知人は、五人の家族が焼死。中野区の別邸で、空襲の早朝「おかあさん」と長男の声に起こされたが、空耳であった。私には悲しい思い出話である。

爆撃機B29延べ三万三千四十一機の空爆。
65の都市が焦土化。死者67万人余りで終戦。

私の思いは原子爆弾の投下である。
8月6日の広島の爆心地では、着ていた服も皮膚も黒くぼろぼろに垂れ下がったという。被爆の人々は「水」「水」と水を求めて彷徨い、放射能で汚れた水を飲み、多くの人が命を落とした。画家の丸木位里、俊の夫妻はいち早く駆けつけて「原爆の図」を墨画した。正に生き地獄。

私はその現場の一部を、三十数年前に広島の資料館で見た。被爆した諸々の中に真黒になった下駄があり足型が薄く残る。下駄は靴替わりの当時の女学生の履きもの。朝8時、国の学徒勤労動員令によって、防空作業のために集まっていた女学生のものと確認される。またアルミの弁当箱が米粒や梅干しの形なく黒こげに。私は息を呑んだ。もっとひどい惨状が想像できた。下駄を履き、必需品を入れた手製の布かばんと防空頭巾を肩に掛け、モンペ(手製のズボン)を穿いた女学生の集団が、一瞬にして黒く形を変える情景ー。

平成25年2月4日「原爆乙女」25人のなかの一人、被爆の語り部山岡ミチ子さんの死が報じられた。八十二歳であった。被爆当時山岡ミチ子さんは女学校三年生(現中学三年生)十五歳。その十年後25人の「原爆乙女」の一人として、米国でケロイドの皮膚の移植を受ける。手術は27回に及んだが、消すことはできなかった。被爆後の広島に風評が立ち、復業は長期に亘り、被爆した女の人からは奇形児が生まれるという、結婚否定であった。

戦後六十八年、私はミチ子さんと同じ年令。戦時の学徒動員へ従事した。
結婚し子ども孫にも恵まれ今日健康に暮らしている。平凡な生活のひと世を核に犯され、核の語り部となったミチ子さん。昭和の14年余り続いた戦争で亡くなった多くの方々に心からの冥福を祈り、平和に感謝を捧ぐ。

大正8年生まれの九十三歳の俳人金子兜太氏は、南の島の墓碑に向かって毎朝合掌しておられる。不戦の願いも望まれているのだ。戦争はどんな理由があっても絶対勃発させてはならないと願うのみである。

※資料・・・NHK自分史年表。戦後50年毎日新聞。中学社会、大阪書籍。等。

大浦フサ子氏の俳句作品

参道をいろはに落ちて楓かな
侘助や里の地熱に愛(いと)しまれ
東京駅異国の人や蔦紅葉
大根曳き腰折れ後の大笑い

枯蟷螂福祉のバスより降りてくる

「九州俳句」170号(平成25年5月15日発行)より引用しました。

冒頭の金子兜太の一句、水脈(みお)の果か果てか、表記を確認したくてネット検索したところ、下のブログにいきあいました。

http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2684.html

表記は果て、とおくってある。
それにしても、ぎょ。
上記ブログ、金子先生は故人になっていますが・・・
何かの勘違いです。
今年の長崎原爆忌平和祈念俳句大会の選者にもなっておられます。

あ!そうそう、そういえば。

川柳の点鐘誌で墨作二郎先生の編集後記を読んでいましたら。
スミサク先生は八十代だと思いますが堺の番傘川柳創立85周年(古い!!)の大会選者をなさるそうで、その応募総数千三百とかいう膨大な句たちを全部自分でノートに筆記して、それから選句なさるとのこと。たまげた!わたしはほんとにびっくりしました。

▼年に四回発行、九州俳句誌のご紹介

編集発行 福本弘明
発行所  九州俳句作家協会
印刷所  山福印刷

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コメント

水脈の果て
炎天の墓碑を置きて去る
でした。金子兜太師94歳祝のルポを見ました。
この句も、それから、連句で一句いただいた、

暗闇の下山
くちびるをぶ厚くし

も、長崎時代の、

彎曲し
火傷し
爆心地のマラソン

も三句とも、出てきました。

師のおとうとさんの踊られる、ゆったりとした秩父音頭がこころにひびいた。せせこましい土地だからこそ、空をとぶ鳥になりたかったのだろう、とする鳥のポーズが目に焼き付いた。
わたしは金子兜太師について余り知らなかったのですが、これをみて、家族、ことに医師であられたお父上の影響から俳句の道に入って行かれたことを知りました。
母上十七歳のときのこどもだったとか。
物心着いたとき、家で句会が行なわれているのを傍でみていて、批評しあうのがまるで喧嘩みたいだと感じたこと。
たった十七音にいのちをけずる人たちがいること。

この頁に毎月いらっしゃるおかた。
ありがとうございます。

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