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2013年7月13日 (土)

前川弘明句集『月光』評   岸本マチ子

前川弘明句集『月光』より三十句抄

      岸本マチ子・抄出

直立不動の皇帝ペンギン春の月
初つばめ被爆の橋をくぐり来し
爆心地みんなかげろうになりて過ぐ
飛込みのながき一瞬雲の峰
担がれてガラスがよぎる大花野
古希いつか過ぎたり石榴弾けたり
熟年のたましい冴えて月光に
霧を行く角もたずともかなしまず
血族が寄り合い桜の下である
ぬぬぬぬとケータイうごく朧月
麦の秋はればれ燃えるもの燃やす
透明になるまで泳ぐ月夜かな
白日傘ゆけどもゆけども爆心地
八月の水飲めば鳴る喉仏
薄氷を壊して今日の来りけり
春立ちぬ逆立ちでもしてみるか
体内の水位みちくる麦の秋
初蝶のはじめは風花であった
八月の水ぶっかける被爆坂
霜踏めば骨の音する爆心地
真夜の雛くすくす笑いしていたり
どっぷりと河馬たっぷりと春の水
白蛇もオラショも雨の音がする
羽抜鳥おのれ映して水を飲み
ごうごうと昼の銀河の五島灘
血の色のギヤマングラス桜騒
かなかなの鳴きつくしたる空き家かな
綾取りをほどけば秋の水がゆく
相客はみみずく雪の終電車
歳晩の水の音するきれいな樹

句集『月光』を読んで

  岸本マチ子・文章

1935年3月7日生れの前川さんは、早生れの為、わたしより一つ若い同年生。つまり戦中戦後の実に飢えと貧困と、過酷と変動の坩堝の中で、青春を過ごして来た同志と言えるかも知れない。だが長じて「海程」同人となった前川さんは、一寸えらそうでわたしにとっては頭の全く上がらない先輩なのだ。その彼が第4句集を出された。「月光」である。

 直立不動の皇帝ペンギン春の月

一読まるで彼の自画像のようで面白かった。
妙に律儀で真面目で、その癖ペンギンの様に愛すべき不器用さが胸を張っている所など、思わずうふふとなってしまう。

  初つばめ被爆の橋をくぐり来し
  爆心地みんなかげろうになりて過ぐ
  八月の水ぶっかける被爆坂

しかし、彼はわたしが焼夷弾や照明弾の下を掻い潜り逃げ回っている時、長崎のピカドンに遭遇していたのだ、いやしたであろうと想像している。広島で原爆にあった私の友人は、ぼろの様にぶら下がる皮膚の母親を抱え、病院へ行ったがそこもやられていて、やっと与えられたオキシドールの大ビン一本とガーゼだけで奇跡的に直したとのこと、随分大変だったに違いない。

  古希いつか過ぎたり石榴弾けたり
  熟年のたましい冴えて月光に

その昔杜甫が「人生七十古来稀」と曲江詩に謳ったというのだが、現在では古希など普通になってしまった。しかしながら本人にしてみれば、よくぞここまでという感慨一入に違いない。そして気が付けば八十歳ももうすぐ。熟年のたましいも冴え冴えと月光に吸い込まれていき、老人力は熟年力とばかり胸を張るこの突っ張りが、なんとも頼もしい。

  ぬぬぬぬとケータイうごく朧月
  麦の秋はればれ燃えるもの燃やす
  どっぷりと河馬たっぷりと春の水
  相客はみみずく雪の終電車

「あとがき」の中で前川さんは「作品を書くという事は、眼前の対象をただ書き留めることではなく、作者の直感・記憶・幻想・思念など作者の総合をもって対象を照射し作品を創出することであろう」と言っているが、煎じ詰めればセンスの問題という事になろうか。なんにしても己の全体重を掛けて頑張らなくてはと理解する。

  ごうごうと昼の銀河の五島灘

今、尖閣を初め五島列島附近はごうごうと音をたてて軋んでいる。故にそんな昼の銀河の不穏な空気を増幅して感じさせて居られるのはさすがだと思った。ますますのご活躍を!!

  『九州俳句』170号より

▼連句的

ごうごうと昼の銀河の五島灘  前川弘明

爛々と昼の星見え菌生え    高濱虚子

ごうごうと欅鳴るまの地蟲かな  石橋秀野

▼尖閣諸島を開拓して貿易の一大拠点とした八女出身の古賀辰四郎さんのことが最近の西日本新聞に載っていた。それ、そのままコピペします。

古賀辰四郎(1856~1918)

 現在の八女市山内に製茶農家の三男として生まれる。23歳で沖縄に渡り、茶と海産物業の古賀商店を開業。1896年に明治政府から尖閣諸島の魚釣島などを借り受けると、家屋や船着き場の建設などの開拓を始め、その後、漁業やかつお節製造などを行った。その功績が認められ、1909年に藍綬褒章を受章した。

(2013年7月10日掲載)

尖閣諸島開拓者 古賀辰四郎さん 出身地・八女を歩く 「寄付」と伝わる図書館 神社修復に桁違いの大金

 中国の領有権主張によって国際的な関心を集める沖縄県の尖閣諸島。開拓した実業家古賀辰四郎さんは八女市山内の出身だが、今は地元に親類縁者もなく、その名を身近に感じることはなかった。それでも、1世紀以上も前、はるか南の島々で活躍した辰四郎さんのルーツや足跡くらい見つかるはず。そう思って山内地区を歩いてみた。 

 まず訪ねたのは川崎小学校の体育倉庫。「地元では辰四郎さんが寄付した図書館と伝わってます」。そう説明するのは、同行してくださった熊谷恒樹さん(70)。郷土史に詳しく、「童男山・犬尾城址(じょうし)保存会」の前会長も務めた。

 床面積約30平方メートル。壁には子どもたちの絵画や世界地図が残り、図書室の面影を感じる。八女市広報などによると、辰四郎さんは兄2人とともに当時の川崎村に図書館を寄贈したとされ、棟木には「大正十四年(1925)十二月七日上棟」の墨書きを確認できた。

 少し待てよ。辰四郎さんが亡くなったのは18年のはずでは…。

 「実際には存命だった次兄の与助さんが資金を出したのが、時代とともに『辰四郎さんが建てた』に変わってしまったのでは」と熊谷さん。樋口佳司校長も「ここで本を読み、辰四郎さんみたいに成功してほしい。そんな地域の思いがこの図書館に込められているのでしょう」と語る。

 すでに伝説上の人物のような扱いだが、できれば明確な記録からも辰四郎さんに触れたい。次に案内された山内天満宮にその足跡があった。

 樹高約30メートル、幹回り約10メートルの市指定天然記念物の「大樟(おおくす)」で知られ、社殿の屋根は銅板ぶきでなかなかの重厚感が漂う。

 「ここに『辰四郎』の名前がありますよ」

 熊谷さんが指したのは1897年に建てられた高さ約3メートルの石碑。春の大祭を開く資金として、兄弟連名で十円を寄進したと刻まれていた。別の石碑には1917年に「金百円寄附(きふ)」と残る。寄付したのは当時の国債で、利息を含めて38年に完成した社殿の修復費に充てられたという。

 「修復は地域の一大行事。地元の名士からも資金を集めているが、多くて五十円程度。古賀家は桁違い」と熊谷さんもうなる。関西地方から沖縄まで幅広く事業を手がけ、大きな成功を収めた辰四郎さん。故郷に錦を飾るという思いも生涯忘れなかったようだ。

 続いて古賀家の墓を訪ねると今は別に移されて墓石もなく、竹がうっそうと茂るだけ。これで終わりかときびすを返すと、斜面の先に見えたのが童男山古墳。不老不死の霊薬を求める中国・秦始皇帝の命を受け、日本を目指した徐福が息絶えたという伝説が残る場所だ。毎年1月に川崎小児童らが徐福をしのぶ「童男山ふすべ」を続けている。

 辰四郎さんも徐福伝説を知らないはずはなく、「海外を意識するきっかけになったかも」と熊谷さん。辰四郎さんが徐福の来た道をたどるように海を目指したのだとすれば、今度は辰四郎さんについて学び、冒険心に燃える若者が山内に現れるかもしれない。そんな期待を抱きたくなる町歩きだった。

http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/word/7237/9752

かささぎの旗で古賀辰四郎:
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-34cf.html

 

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コメント

「熊谷恒樹」さん
検索でみえていました。
えっ、それ、だれ。わたし何かかいていたっけ。

読んで、あっとおもいました。
尖閣諸島に徐福伝説のはなしまでがからんでいる。へえ~~~.そうだったの。八女ってすごいね。

そういえば、木附大子おばあさんのご主人が、その徐福研究をなさっていて、八女市山内にどうなんさんふすべを定着させられた人なんです。
こないだの八女老連会報のうら表紙に、そのことを顕彰する言葉が載っていました。
それと、もうひとつ、緣がつながってました。八女老人会長はザリガニおっちゃんの妻の義兄だそうです。おかげで一冊入手することができました。

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