無料ブログはココログ

« 社会保障審議会医療保険部会の動き(12)国民健康保険の保険者の在り方 | トップページ | 社会保障審議会医療保険部会の動き(13)  保険制度の破綻回避のために国保の広域化待ったなし »

2013年6月 6日 (木)

八女茶物語~笠原小学校記念誌『母校の百年』より

八女茶物語

  ー笠原小学校記念誌『母校の百年』よりー
霊巌寺保存の由来記によると今を去る約五百年前の応永年間に、出羽の国(秋田県)生まれの周瑞和尚が明に渡って仏教の修業をなし、帰朝して筑後の国鹿子尾村(かこおむら・今の黒木町笠原)が霊巌三昧修行の地であるのを認めて霊巌寺を建立すると共に当時の庄屋、松尾五郎j兵衛隆友の長男松尾太郎五郎久家に明から持ち帰った茶の種子と興元製茶の技術を伝えたのが八女茶の始まりであると記されており、その後改良研究され八女茶の名を世界に馳せるに至ったもので斬界に名高い八女茶の起りも実は黒木町がその源であるとされている。
福岡県茶業専門技術員馬場一郎氏のお茶談義によれば、天保年間に山城の国宇治から茶作吉片衛を招きお茶の改良に当らせ、弘化嘉永年間には琉球へ八女茶として積み出され、文久三年にはアメリカへも輸出されて八女茶輸出の先鞭をつけたと述べられている。
明治初年頃から茶摘み娘さんが遠く三瀦、山門、浮羽郡、熊本県天草方面から風呂敷包を手にしながら鹿子尾へ、鹿子尾へと上り来て、どこの茶山も若々しく朗らかな茶摘み唄が山から山へと流れ、夕暮れになるとどこの家でも釜製の茶もみが笑声の中に行われたものである。
炉製(手もみ本製)は明治二十年頃笠原の小川内橋村伍平次氏よりはじまり明治四十年頃には鹿子尾柏ノ木の宮園宗五郎、小松長市等その研究の歩を進められたが、この辺になってからは漸く八女郡内各地にも茶の生産がはじめられ現在の黒木町田代方面の生産も相当量に上って来た。大正八年に至り静岡県より炉製の技術者を招聘して笠原の椿原、鹿子尾、わに八に製茶伝習所を設置して本格的に製法の研究に努め出したのである。
この頃より茶の生産は急速に増加し、八女東部各地は勿論郡内各地にも相当大がかりな手もみ工場ができ、製品も相当出荷されるようになってきた。
製茶工場(機械製)では大正十年に椿原の川島熊吉氏が高林式機械によったものが始まりで、その後続々と各地に製茶工場が建てられ、製茶技術も旧速度に進んできた。
現在黒木町だけでも近代的設備を誇る製茶工場が五十一工場あり(この数字は記念誌が出た昭和54年当時のもの、姫野註)、茶園約三百十五ヘクタールを有し本町に於ける農業振興計画の重要施策として品種の改良、茶園の団地化、加工技術の改善等強力に推進している。
その成果は全国茶品評会でもわかるように近年産地賞を受賞し、毎年農林水産大臣賞等を獲得している。しかし製品の販売体制に於いて尚研究の余地があり、これが研究改善化は目下の急務と思考される。
尚、お茶の歴史を知る貴重なる資料として発見せられた文献によると、天明八年頃徳川十一代将軍家斉の時代に於いて既に大阪方面と茶の取引が行われていたことが解る。
(発見された手紙の文面)
江戸大阪御用鹿子尾初花茶来月中頃差立方申候に付その心得にて新茶出来次第品々相納候様
左のとおり相納候取計下候己上
 一、七斗初花茶  但三斗五升入横桶弐箇
 一、一石右同   但五斗入 右同
  〆
右のとおりご勘定所から申来候条例通収調相納候様御取計申渡己上
四月朝日        鈴村紋吾
右のとおりに候
御紙面の趣その心得新茶出来次第品々相納候様御取計可有之以上
             松浦加右門
上妻郡庄屋村
   次郎右門殿
この文により鹿子尾茶は天明年間に於いても将軍の江戸商業の中心大阪に於いても
有名であったことが実証される。
全文引用~「母校の百年」百周年記念 黒木町笠原小学校
   昭和五十四年十一月四日発行 非売品
   記念誌編集委員会編集  東印刷所印刷(八女市祈祷院)

▼かささぎの一人ごと

ここ数年間の自分に起きた出来事、出会いを思っていますと、不思議であります。
はるかな昔、自分の知らない時代から、すでに自分は始まっているというのが実感としてわかる。
はっと気づけば、母が以前貰い受けていた一冊の本がありました。
それを見れば、色々と説明がなされています。
過去への手がかりとして、時間をみつけて打ち込んでおきたい。
それがまた、どなたかの何かの手がかりになれば。

転載するにあたり、二つ、漢字を変換したくなりました。

一つは、大阪。三つ出ていますが、すべて大阪の文字でしたので、真ん中の史料のなかのを大坂に替えた。
明治維新までは大坂だったと習いました(連句の前田師匠に)。
これは本物の史料を見なければわからない、問いかけとして。

それと、修業と書かれていたのを、修行にさしかえました。

と、ここまで書いて、
なにをちょこざいな。と心の中で声がする。
杉山のおんじいがいっていたではないか。
そのお方が書いている通りに引用すべし。
ですので、さいごにまた原文にもどしました。

▼かささぎのしようもない疑問

お茶ですが、最初に出ていますのは、釜製で、つぎに炉製(手もみ本製)、さいごに製茶工場の機械製です。
これがどう違うのか、いつか詳しく調べよう。

それとね。かささぎはしようもないことが気になっていて、金爆のけんじっちのお里浮羽の人は、八女の人たちは(というてもかささぎの身めぐりの数人だけど)、根性が悪いといいます。いや、まじでそういうの。
これはね、山一つ越すと根性が悪い、だったかなあ、谷ひとつ隔てると、だったかな。なんか、そんなふうな言い方でした、いうんですよ。
相性が悪いのか、それとも、なにかあるのかな。
気になっているのは、かささぎの夫までもが、以前そこへ勤めていたころに、おなじことを言ってたからなんだ。彼はここの人間ではないよそ者でしたからね。公平だろう。
おーい、けんじっち。
あなたは根性が悪いですか?そうはぜんぜん見えません。やさしそうだ。
(かささぎの読みでは、ムラにすむ人々は、排他的なので、ムラを一歩でたら、そんなふうな見方をする。ということじゃないのかな。互いにね。)

ウィキペディアで八女茶の説明http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A5%B3%E8%8C%B6

« 社会保障審議会医療保険部会の動き(12)国民健康保険の保険者の在り方 | トップページ | 社会保障審議会医療保険部会の動き(13)  保険制度の破綻回避のために国保の広域化待ったなし »

コメント

検索サイト Yahoo  検索ワード 黒木町名家


でご訪問ありがとうございます

やめろうれんこうほうに五條家の旗まつり載ってました

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 八女茶物語~笠原小学校記念誌『母校の百年』より:

« 社会保障審議会医療保険部会の動き(12)国民健康保険の保険者の在り方 | トップページ | 社会保障審議会医療保険部会の動き(13)  保険制度の破綻回避のために国保の広域化待ったなし »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31