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2013年6月30日 (日)

ののかで女子会、そのあと、旧大内邸に行ってきた。

きのう、月に一度の幼馴染との食べ歩き会。
先月は八女市忠見の「水の菜(みずのさい)」でしたが、今回は八女市内。
あそこは日の出町かな、紺屋町なのかな、郵便局からまっすぐ南へ三百mほどにある小さなレストラン、「ののか」。

ここは、開店したばかりのころ、ランちゃんに誘われて訪れたことがあったので、私は二度目。
どうしても友がここへ行きたいというので、格別においしくもまずくもない平凡な味(失礼)の印象がその後どうなったろうかと訪ねた。

驚いた。
外観はおなじだけど、内装がぐっと落ち着いている。
そして、料理がとてもおいしくなったように感じられた。
出されるもののどれもがおいしかったのだ。
器もすっとしてきれいで料理を引き立てていた。

水の菜もすごくよかったのですが、お値段とにらみ合せるとなるほどなので、ののかは女子会にぴったりと言えるかもしれません。
味も種類も量もじゅうぶん、かつお手頃価格です。ただし予約がいります。

近況、最近の家族間トラブルで得たサトリを話し合い、デザートがセット価格にくまれていなかったのもあり、食後はずっと私が行きたかった、白木の旧大内邸に連れて行ってもらった。

あのご隠居に、戦国時代の八女と大内氏の関係を問われて、答えにつまったことを思い出しながら。

車で十五分ほど南の山間部へのぼると、それはあった。
背後の杉や潅木の林のみどりがとっても美しい古い日本家屋で、説明板によると、十五~六世紀に山口の周防の国に一大勢力を誇った、大内義隆の弟である大内義信をとする第十代大内精一郎=初代白木村長で県会議員、その子の第十一代大内暢三(ちょうぞう)、=五期22年間衆議院議員、昭和六年には上海にあった東亜同文書院の院長も務める=の生家だったものの由。

庭には二宮金次郎少年がマキをしょって本を読んでいるあのお馴染みの銅像とともに、風呂水の哲学の碑が彫られていた。
二宮尊徳翁の御教え「風呂に入ってお湯を自分にかき寄せればお湯は自分に当たって向こうへ行ってしまう。だがあちらへ押せばお湯は向こうにぶつかって自分に返ってくる。これが天地自然の理法、仁であり義である」。
これを大内暢三先生は生涯の信条としておられたとのことだ。

ネットで調べた、大内暢三プロフィールと東亜同文書院の歴史を貼り付けておきます。

郷土の先覚・大内暢三のことhttp://net.a.la9.jp/fu/fu-kaiho/fu-2010/2010-09/p-01.html

沿革

  • 1901年明治34年)- 東亜同文書院設立(政治科、商務科。修業年限3年)。
  • 1914年大正3年)- 農工科設置。
  • 1918年(大正7年)- 中華学生部設置決定(修業年限は予科1年・本科3年)。支那研究部設置。政治科募集停止。
  • 1920年(大正9年)- 農工科募集停止。
  • 1921年(大正10年)- 専門学校令による外務省指定学校となる(修業年限4年)。 
  • 1934年昭和9年)- 中華学生部廃止。
  • 1939年(昭和14年)- 大学令による東亜同文書院大学に昇格。予科を新設(修業年限2年)。
  • 1941年(昭和16年)- 学部を新設(修業年限3年)。
  • 1943年(昭和18年)- 専門部を付設(修業年限3年)。
  • 1945年(昭和20年)- 中国軍が校舎接収。

歴代院長・学長

院長
学長

校地の変遷

  • 1901年明治34年)5月 - 上海の高昌廟桂墅里(クイシュリ)校舎にて開校。
  • 1913年(大正2年)9月 - 第二革命の戦禍で桂墅里校舎が焼失。長崎県大村仮校舎に一時移転。10月上海赫司克而路(ハスケルロ)仮校舎に移転。
  • 1917年(大正6年)4月 - 上海徐家匯虹橋路に新校舎竣工、移転。
  • 1937年(昭和12年)
  • 1938年(昭和13年)4月6日 - 上海海格路(ハイコーロ)の旧交通大学の施設を借用して授業再開。
  • 1945年昭和20年)
    • 戦局悪化で渡航不能となった新入生のため富山市の旧呉羽紡績の建物の一部を呉羽分校校舎として借用。
    • 9月 海格路校地が中華民国政府に接収。

設立前史

岸田吟香の援助を受け漢口で活動していた荒尾精は、1890年明治23年)に中国貿易実務者を養成するための「日清貿易研究所」を上海に設立した。 しかし同所は1894年明治27年)の日清戦争勃発のため閉鎖を余儀なくされ、荒尾は1896年明治29年)に死去した。 戦争終結後の1898年明治31年)、東亜同文会が設立されると、その会長近衛篤麿は日清貿易研究所に範をとる「南京同文書院」を設立、荒尾の同志であった根津一を院長とした。しかし同校が義和団の乱により存続不能に陥ると、1901年明治34年)、上海で新たに根津を院長とする東亜同文書院が設立され、南京同文書院はこれに統合された。

「大旅行」

1902年明治35年)、外務省から根津一院長に対し、中国西北地方におけるロシア勢力の浸透状況についての調査が要請され、根津は第2期卒業生の5人を現地調査に派遣した。彼らの報告書に対し外務省から支払われた謝礼金を基金として、5期生以後は卒業論文のための中国調査旅行、すなわち「大旅行」が制度化されることとなった。学生たちは数名から5・6名のチームを組んで各地へ3ヶ月から半年までの旅行をし、その範囲は中国本土にとどまらず東南アジアにも及んだ。彼らが収集した地域情報をもとに1915年から1921年にかけて『支那省別全誌』全18巻が刊行され、1918年に研究所として「支那研究部」が新設されると、大旅行はいっそう組織的に実施されるようになった。しかし末期には日本軍が学生に対し情報提供を依頼するケースもあり、これらの事情があいまって大旅行を「スパイ活動」と見なす中国側の疑惑を呼んだとする見方もある。

学生運動

1930年昭和5年)秋、安斎庫治(27期生)は学内に共青団中国共産党の青年組織)支部を組織、朝日新聞上海総局に勤務していた尾崎秀実と連携しつつ学生運動の中心的指導者となった。さらに彼は中共党員の王学文が指導していた「日支闘争同盟」にも参加し、日本海軍艦船の兵士・乗組員に対する反戦宣伝活動に従事した。この組織には安斎のみならず西里龍夫(26期生)・中西功(29期生)など多くの現役書院生および出身者が参加していたが、同年末上海総領事館警察による弾圧で書院生8名が検挙され同盟は壊滅した。翌1931年春、出獄・復学した中西らにより共青団が再建、同年末には「対支非干渉同盟」が組織され、満州事変から上海事変へと動く情勢のもとで、中共に入党した書院生を中心に反戦運動が進められた。しかし1932年昭和7年)3月には総領事館警察によって書院生19名が再び検挙され、東亜同文書院における反戦運動は終焉した。(ウィキよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E6%9B%B8%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%97%A7%E5%88%B6)#.E6.AD.B4.E4.BB.A3.E9.99.A2.E9.95.B7.E3.83.BB.E5.AD.A6.E9.95.B7

(ちょっと、引用が長すぎたかもしれません。すみません。
激動の時代で、ものを知らな過ぎるものですから。)

ひなびた中にもどこか毅然とした趣を感じさせるのは、そのような政治家の気骨が、まだ家の柱や踏みしめられた三和土や、大きなむき出しの梁木などのあちこちに残っているからだろうか。

古くて気品のある大きな屋敷と、トトロの物語の人形があちこちに飾られているのが違和感なくなじんでいた。
わたしたち三人(久留米在住のおがわ千代、立花町在住の一ノ瀬凛、そしてかささぎの旗子)は、ゆずジュース(400円、てづくりかりんとう付き)をいただき、じっくり和気分を堪能して帰ってきた。おがわ千代は、ほんとは小袖の会という団体でこちらに食事会に来る予定だったという。けれども、がん治療の入院を控える身なので、その日は来れないからちょうどよかったらしい。

何年がん?とぶしつけにきくかささぎ。
八年かな。とまじめにこたえるちよさん。

そうかあ。八年。
この調子で八十まで行きますよ。ねえ、凛さん。

いいなまえでしょう。
原爆忌に一句だしてもらい、そのとき、つけてもらった俳号です。
ふたりとも、これではじめて俳句をつくりました。
しみじみ、俳句っていいなあ。とっつきやすいからとってもいい。
短歌もいいけど、短歌はつい説明してしまうでしょう。
のべたくなる、手が自然とものがたってしまう。
でも、俳句は、いおうとしても、すぐおわってしまうから、そんな暇ない。
余白ばかりだから、読み手という無為無意識のはたらきが、いる。
つまり、他力がはたらく余地がとてつもなく大きい。
運だめしみたいなところがあって、面白い文芸だ。

大内邸にはすみっこに本が積まれていた。
磐井のなんとか、という本と「九州の南朝」を見つける。
著者名のたろうら、という苗字にはっとする。
たしか、長男か次男が小学校のときの先生が太郎良だったような。
途中黒木かどこかへ転校されたけど、おなじ先生かな、と気になり、九州の南朝を買い求めてしまった。ちょうど二人から投句料をもらったぶんで買えた。

目次を見て、おおっ。

ちょうどのところに石が落ちているではないか。
山下整子さんが出合った黒木の古い家柄の五條家、それから調一党、これらが歴史の物語の中で語られていく小説らしい。いま、よむべきものが多すぎて、並行読みするしかないのだが。

ことしは、まだ一回も、ブンインも連句会もできていません(!連句はことし四月に古墳資料館でやったね!)が、いずれ、ときがきたれば、なにかどういうかたちでか、できるだろう。七月か、八月か、九月にかわからないけれども。

さいごに。旧大内邸の玄関近くにあったつる性の植物は、もしやパッションフルーツ=くだものとけいそう=ではないかと友がいう。彼女は自分でも植えたそう、で、失敗したのだそうです。

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コメント

幼馴染って、無条件でいいよね。

ののか、オープンしたての頃、行きました。夜のコースに。最近ご無沙汰ですが。
八女の街にはいいお店が隠れてると思います。

機会があれば行きたいと思ってるのが、
メキシコ料理店あすてか。
と、
もつなべ専門店、
紺屋町にあるらしいです。
この時期にもつなべ?とお思いでしょうが、ランチはパスタ料理がでるんですって。それがびっくりするほどうまい。と、むすめの弁。
どちらもむすめのおすすめ。

おさななじみ、ちょくちょく会うようになったのはここ数年、千代さんが病になってからですね、振り返ってみると。
きもちはいくつになっても、まったくかわらないように感じる。だけど、容貌の変化、はやくいえば老化は注意深く観察している。シビアにね。
原爆忌の俳句を出してくれたのですが、それをまとめるときの彼女たちのはなしが面白かった。少しでも気晴らしになればと思って。もうひとり、さいたまの大宮のすみちゃんも誘ってあげればよかったかな。来年はそうしましょう。そろばんの天才だから、ものすごく俳句もうまいかもしれない。

ところで、何、そのあすてかというのは。八女にあるん、メキシコ料理店が。
もつなべとかぎょうざやさんとかはありそうだけど。
ね。

七月七日、たなばたの日は日曜だということに今日きづいた。
みなさま、集まりませんか。
乙四郎先生は仕事でしょうか。そらんさんは句会?
ぼんちゃんは仕事?久留米に帰ってきてるらしい呂伊利先生のお祝いをまたファミレスでしませんか。べつにファミレスでなくてもいいけどさ。予約とらなくていいとこといえば、ファミレスだったりするもので。でも日曜のたなばたは多いのかな。

7日はお休みです。昼or夜?
どちらもOKです。が、出来れば夜のほうが良い。

そうか。
まだ誰にも尋ねていません。
それがね、私の携帯はまだ復旧してません。
携帯がない暮らしは意外に快適で、人様とつながることはできないが、本とはつながれる。細切れの時間がとても大事だったなと気づいた。
呂伊利先生にまず、パソコンメールで尋ねてみますね。主役だから。東京とこっちと行ったり来たりとこないだのコメントには書かれていましたよね。学校の先生って定年後も先生なんだろうか。

今日、らんちゃん宅に行きました。らんちゃんは都合が悪いそうです。少し急すぎるかもね。

料金不足で戻ってきた手紙をことづけました。80円切手はまだ使えます。しわくちゃになってごめんなさい。

追伸

平山温泉で女子会はいかがでしょうか?との提案がありました。
さっき思い出した。詳しくはらんちゃんにきいてね。

三十六   七夕    弘俊

七夕のあふ夜のとこは天の戸を
をし明かたもいそがさらなん

仕事中にこの歌を思い出したのですが、57577の真ん中の5のところがどうしても思い出せなかった。あまのとを。なるほど。
さらなん。いそがさらなん。
いそがされることだろう。というような意味だろうか。

途中までになっているけど、石激の読みは江戸時代にかものまぶちがいわそそく、というよみをいははしるに変えてそれに人気があつまり、そっちに決定してしまったようですが、もとにもどそうというのがこないだの学者さんのお説で、それをよんで、へえ。歴史も長い時のなかであとにもどったり進んだり、逡巡したり、決定版はないんだな。多数決かもしれないな。とおどろいたような次第で。
ああもっと詳しく書きたいが、もう行ってきますの時間だ。

遅れましてごめんくだされ。6月下旬から自分で自分の退職を祝う旅行に出ていました。なんと2週間も!
7/7の件、早めに知ってればそれに合わせて久留米に帰ってくることもできたのですが、飛行機の予約を取ってしまったのでm(. ̄  ̄.)mス・スイマセーン
久留米に落ち着くのは9月以降になります。そろそろ再就職活動を再開。

てやんでい。ろいり先生はまだ足を洗ってない。

七月七日に絶対連句会をしなきゃ。と例年思うのですが、すぐ忘れるのです。かささぎなのにねえ。
でも今年はまだ一回しかやってないし、集まりたい。もうちょっとつめてみようね。

九時近くにヨレヨレになって帰宅しますと、卓上にらんちゃんの丸くて大きな文字の書付がまたありましたよ。母上もあにじゃも調子がよくなかったのですね。それで里と婚家とを行ったり来たりしてるらしくて、忙しいらしい。らんちゃんは無理っぽい。
ぼん。ぼんからの手紙、まだ封を切っていません。
ドキドキする。包丁かなんか入ってたらどうしよう。
入っとらんか。笑。
ああねむてえ。おらきつい。
こんなときにあれですが、今おもいだした、あまちゃん、時々しか見ないから質問するけどさ。
もと東京育ちなのに、なぜなまっているのけ。

きょう、仙台だったか、北陸のほうで、一台不良発見。クレームがきました。どうもおらのせい。おらがコネクター接続をしそびれていたんだろうね。冷却ファンの電源コードをつないで、黒マジックでマークを入れるのですが、毎回十台ほどにそれをやっていると、ねえ。
一年になりますが、毎回どんなときも完璧だとは言えない。たぶん一台二台のつなぎ忘れがあって当然じゃない。
でも、今回はじめて。

日々の労働、おつかれさまです。

連句もいいが、その平山温泉で女子会っての、そそられます。暑いさなかの温泉もありだよね。

ところでね。先日、ふとしたことで初対面の香川のご夫婦とカラオケに行くことになって、わたくし、数年ぶり(10年近いブランクだと思う)にカラオケで歌いました。
これがほんといいストレス発散になったのよ。
声を出すっていいねえ。
機会があれば、ストレス発散のためのカラオケというのもおすすめかと。

こないだ、土橋のお店で”女々しくて”を歌いました。
なんとなくノリで歌えそうな曲でした。
”World is mine” は難しい。

おっと。乙さんもカラオケでしたか。
土橋界隈、昔からのお店が残っていますか?
もう長いこと足を運んでいません。

そのもうひとつ先のひょっとこがあるあたりに、高校時代の同級生(野郎ばかり)がよく利用するスナックがあると聞きました。
呑むのでなく、ひたすら、歌うんですって。

せいこさんのいうその歌うスナックって、とても狭いあのお店。数年前の同窓会で、二次会でそこにみんなで行きました。そういえば男性たちは歌っていましたカラオケを。わかかりしころの歌謡曲とかポップスとかフォークソングとか。安くて安心なお店ということでした。

幼馴染が今、同窓会コンサートに行くんだって。
西城秀樹とか微糖いさおとか、あべ静江とか、。
ひできさんは足が不自由になられたのですね。
でもお元気でよかった。

乙四郎先生が女々しくてを歌う。へえ~。
ちゃんとふりつけつきでしたか。
発散できて、楽しかったでしょうね。

むかし、家族が若かった頃、お盆かクリスマスにカラオケにいったことがあります。夫がサザンの歌でとってもアップテンポの言葉が余ってしまうような歌を歌ったら、こどもたちがしら~っとして。こどもながらに、こころのなかで点数つけてるんだなあと思ったら、なんだか妙におかしかった。あれは何という歌だったろう。最近、夫のことがとても懐かしい。


朝刊にきたやまおさむさんがエッセイを書いていて、三角関係に強くなろうという題、人生はこれとどう付き合うかであると精神分析医の見方を書かれていました。そういやそうだなあ。
アクセス解析をやってると、「はしだのりひこ確執」でかささぎの旗へどなたかがお見えです。フォークル、そういえば、まだだれかいるように思っていたけど、この二人しか、いないのですね。が~~ん。
あの白いテンガロンハッとの影の薄い人。
それから、ひょうひょうとして、あたまひとつ突き抜けていた、インテリ風の人。
そのどちらもこの世にはいないんだねえ。

ん。テンガロンハッとの人はシューベルツの人だったか。


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