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2013年6月24日 (月)

「いはそそく」と「いはばしる」 万葉集名歌の訓みの考察 大谷雅夫

名歌を読み直すー「いはそそく」補説

    大谷雅夫

一首の歌が人の生のささえとなることがあった。
ある作家の従軍の思い出に言う、

みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。
ただ軍服時代二年間のあいだに、岩波文庫の『万葉集』
をくりかえし読みました。「いはばしる たるみのうへの
さわらびの もえいずるはるに なりにけるかも」。
この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、
死に直面したその時期に、心をつねに拭きとる役目をし
てくれました。
(司馬遼太郎「学生時代の私の読書」『以下、無用のことながら』
文春文庫)。


志貴皇子「
懽(よろこ)びの御歌」。その歌の調べの明るさ、清らか
さに心を洗われた思い出をもつのは、おそらくこの人だけでは
ないだろう。

ところで、司馬氏のこの回想にはやや不審な点があった。
岩波文庫の『万葉集』とは佐佐木信綱編『新訓万葉集』(昭和
二年刊)上下二冊。その上冊、巻八の巻頭歌(1418)は
石(いは)そそく垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春に
なりにけるかも」である。兵舎の薄明かりの中で彼が手にしていた
岩波文庫には、その歌は、「いはばしる」ではなく、「いはそそく」と
あったはずなのである。

万葉集とはもともと漢字だけで記された歌集である。万葉集を読むとは、
本来その原文の漢字列を訓読することであった。そして司馬氏の思い出
の歌の初句は「
石激」の二文字。平安時代から江戸時代まで、それは
一貫して「いはそそく」と訓まれてきた。「いはばしる」とは、江戸時代中期、
賀茂真淵がそう改めて、以後のほとんどの万葉集注釈書が支持し、踏襲
した訓であった。『新訓万葉集』は数少ない例外であった。

司馬氏は、当時にあって珍しかった「いはそそく」の歌を岩波文庫で読みながら、
「いはばしる」と後に記憶を変形させてしまったのである。「いはばしる」の「みごと
なリズム」の印象がそれほどきわ立つからだろうか。あるいは、「いはばしる」の形
でその名歌が語られる機会が多かったせいでもあろうか。

(つづく)

引用は岩波書店の『文学』です。

あんまり慌てたので、何号かわかりません。
著作権を問われるのだろうか。
研究者たちは、どういうところに心をとめて、原典にあたられるのかが
わかり、勉強になります。

八女戦国百首を訓読したとき、たくさんの疑問を感じつつも、
だれに尋ねることもできず、手探りのよみをしたものでした。
ちょうど大分へ行く機会があったので、図書館でその時代の
土地の連ね歌、あるいは和歌の作品集など残っていないか
調べようと思ったのですが、時間があまりなくて、とりあえず、
目についた政治の歴史の本、400年も大分を統治した大友氏
関連の、を借りてきました。さすがに本場、詳しく調べた本が
ありました。
気長に少しずつ、やります。


ところで、ネットで文学編集者の声が拾えました。
あら。ことしは創刊80年目だそうで。おめでとうございます。
はりつけます。

本年は、岩波書店創業百年ですが、雑誌『文学』も、1933年4月の創刊から数えて80年目を迎えます。創刊号の巻頭には島崎藤村の題言があげられていました。
 「古い言葉に、この世にめずらしく思われるものが三つある。いや、四つある。空に飛ぶ鷲の路、磐の上にはう蛇の路、海に走る舟の路、男の女に逢う路がそれである、と。わたしたちの辿って行く文学にも路と名のついたものがない。路と名のついたものは最早わたしたちの路ではない。」(表記は新字新かなとしました)
 私たちは先人の積み重ねてきた歩みをふり返りつつ、また新しい路を一歩一歩進んで行きたいと考えております。
 インターネットに携帯電話など、メディアは急速な変化を続けていますが、人間が思考を展開し、他者と交流をはかるうえで、文字による営みの重要性はまったく変わっておりません。広い意味の文学研究がゆるぎのない存在意義を主張する場として、小誌はよりいっそう努力してまいります。
 今後ともご愛読たまわりますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

(『文学』編集長  倉持 豊)

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コメント

大谷雅夫氏のこの論文のおかげでいろいろと学びつつあります。
手元にある斎藤茂吉の万葉集、下巻。
これ、いつの発刊かというと、1988年第64刷です。初版は戦前、1938年11月20日。
ということは司馬さんは佐々木版ではなく、斎藤茂吉のこれを読んでいたに違いありません。そんな気がします。
司馬遼太郎は大正12年生まれ。
以下、ウィキからの丸写しです。

1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になったが、これが生死を分けた。卒業後、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌45年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。その時にある若い将校が、アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃に来た場合に、栃木から東京に移動して攻撃を行うという作戦に「市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか。」と、大本営からきた東北人の少佐参謀に聞いたところ、参謀は「轢き殺してゆく」といい[2](ただし、この問答の存在自体に当事者から疑念が呈されている[3])、22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。復員後は直ちに図書館通いを再開する。

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