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2013年6月 1日 (土)

武寧王陵出土の環頭太刀、コウヤマキの柩、そしてそれから連句的。

武寧王陵の墓誌石の中の「癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到」についてですが、最後から2文字目が「崩」であることに古代史関係者の関心が集まったのだそうです。
孔子は四書の礼記に『天子死曰崩、諸侯曰薨、大夫曰卒、士曰不録、庶人曰死』と定め、崩は天王の崩に限定使用(崩曰天王崩)だそうです。「秦始皇崩、周王薨、孔子卒」と、地位と身分による表記の差別化は韓中日の伝統とのこと。
ところが、「日本書紀」では武寧王の死は「百済25代斯麻王 (諡号武寧)薨去」と記述されており、武寧王の地位と身分が史実より低く捏造されている、と。
磐井の頃、武寧王という王は、朝鮮半島・日本列島において、とんでもなく偉い存在だったようです。しかし、ヤマトはその証拠を歴史から抹消しようとした。
武寧王陵出土の環頭大刀とそっくりのものが岩戸山歴史資料館にありますが、他のX線解析調査が行われた環頭大刀には「不畏也□令此刀主富貴高遷財物多也(この大刀を所持する者は何も畏れることはなく高い地位と富が保証される)」という銘文が刻まれていたものがあります
岩戸山と今城塚は、とんでもなく偉いお方のために磐井と継体が競って生前に建造した祭場であるが、二人の死後、その事実を隠蔽するため、あえてそれぞれが磐井と継体の墓だと誤解されて後世に伝わるよう、記録を捏造したのではないか。そう考えると、いろんな共通点があるのが納得できる。武寧王の崩の後、磐井と継体が相次いで亡くなったのも歴史的抹殺の一環かも。磐井の乱も捏造かも。

投稿: インディー乙 | 2013年6月 1日 (土) 01時36分

1971年忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、王墓が特定された。墓誌には

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」

と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。
古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキと判明したことも大きな話題となった。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。

ファイル:Cypress cyperoides inukugu01.jpg

▲かささぎの連句的

下に引用したウィキからの説明文中、「王妃を合葬した磚室墳」の読めない漢字磚室墳
を読もうとして調べるも、出てこないため、一文字ピンポイント解読。てんちゃのてん、

いぬくぐ(磚)の画像
いぬくぐはカヤツリグサの一種、カヤツリグサは乙骨太郎乙の先祖に連なるなあ。
たしか、ご先祖は武勲をたてたとき、家康にこの紋をもらったんじゃなかったかな。
確認したいが、本をさがすのには発掘作業がひつようだ。ごちゃごちゃしているから。
なお、この植物を研究した人に、北村四郎という人がいた。北山四郎なら知ってるが。

蚊帳釣草と雨の川

これは、蚊帳吊草と雨の六五郎橋でアップしていた自前の写真。
カヤツリグサは、くさとしては、根が張っていて、これが生えているところは地盤が硬い。
あまり役には立たないみたいだけど、ね。

武寧王陵 [編集]

1971年忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、王墓が特定された。墓誌には

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」

と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキと判明したことも大きな話題となった。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。

人物画像鏡 [編集]

和歌山県隅田(すだ)八幡神社所蔵[1]国宝人物画像鏡」の銘文に、

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」

(癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る) とあり、「癸未年」(503年)、「男弟王」(武烈継体か)が「意柴沙加宮」(忍坂宮,石坂宮)にいたとき、鏡を作らせて男弟王の長寿を祈って鏡を献上した「斯麻」が知られる。これは武寧王のことであるとの見方が強い。(ウィキより)

▼七支刀と環頭太刀について、2ちゃんねるhttp://blog.livedoor.jp/dazai3/archives/51992782.html
▼画像

検索では加茂神社のがさいしょにでますよ。

賀茂神社とは違うみたい。いろいろありますねえ。

http://www.city.kiryu.gunma.jp/web/home.nsf/5eab0faad6473e1e49256a0600230630/fec0becf9dc8d6294925705400239f88?OpenDocument

乙先生が一昨日ご紹介のブログ、開けなかったのですが、ことばを拾って検索してたら開けた。
それにはすごいきれいな写真まであって、えっと驚きました。
岩戸山古墳ってこんなにすごいもんが出ていたの。
なんでわたしたち地元民は何も知らんとじゃろ。

どっかから拾ってこよう。ちょいまって。(ひろえませんでした)

さっきの2ちゃん、ニュース動画をはりつけたいが、形式をかえなきゃできないので、韓国語をそのまま引用してみる。

たからさん、わかりますか。デザインみたいで綺麗ですね。

<앵커 멘트>

칠지도와  환두대도 같은 백제의 칼들이 전통 그대로의 기술로  복원됐습니다.

우리 선조들의  뛰어난 철강과  무기 제작기술을 돌아보는 계기가 되고 있습니다.

양민오 기자가  보도합니다. 

    <리포트>

한일 고대사의 비밀을 간직한 칠지도는 제작기법도 수수께끼였습니다. 

칼 몸통에 '백 번 단련한 철로 만들었다'고 새겨져 있지만, 이같은 단조법으로는 일곱 갈래 가지 모양이 온전히 나오지 않았기 때문입니다.

충남 백제역사관이  전통 제철 전문가와 금속공예 전문가의 고증을 통해 고대의 제작기법으로 칠지도의 모습을 원형 그대로 재현했습니다.

    <인터뷰>이해문 (학예연구팀장/충남 백제역사문화관) : "백제가 가진 제철기술. 당시의  최첨단 하이테크 기술을 오늘날  다시  복원했다는 데 큰 의의를 둘 수 있습니다."

무령왕릉에서 출토된 환두대도와 함께 백제 고분인 공주 수촌리와  천안 용원리의 환두대도 역시 전통기법으로 복원됐습니다.

칼 두께는 3mm에 불과하지만 철을 15번 접고 두드려 3만 2천 겹으로 만들었습니다.

원료 철은 소나무 숯으로 천5백 도까지 가열한 전통 '백제로'를 이용해 바닷가 모래의 사철에서  뽑아냈습니다. 

<인터뷰>명완호(충남 백제역사문화관장) : "일본에 이러한 우수한 기술이 전파되었다는 것도 이번 계기를 통해서 입증하는, 또 다시 한 번 확인하는 계기가 됐다고 봅니다."

일제강점기 명맥이 끊겨 신비로 남았던  백제의 무기제작 기술이 후손들의 손끝에서 부활하고 있습니다.

KBS 뉴스 양민오입니다.

<リポート>韓日古代史の秘密をうちに秘めた七支刀は製作技法もなぞでした。刀身に「百回鍛え
た鉄で作った」と彫られていますが、このような鋳造法では七分岐の枝形が完全にできないからで
す。忠南(チュンナム)百済歴史館が伝統製鉄専門家と金属工芸専門家の考証を通じて古代の製
作技法で七支刀の姿を原形そのまま再現しました。

<インタビュー>イ・ヘムン(学芸研究チーム長/忠南百済歴史文化館):「百済が持つ製鉄技術。当時
の最先端ハイテク技術を今日また復元したことに大きな意義があります。」

武寧王陵から出土した環頭大刀と一緒に百済古墳の公州水村里と天安龍院里の環頭大刀もや
はり伝統技法で復元されました。刃の厚さは3ミリに過ぎませんが鉄を15度たたんでたたいて3
万2千重ねて作りました。原料の鉄は松炭で千五百度まで加熱した伝統'百済法'を利用して海辺
砂の砂鉄から作りました。

<インタビュー>ミョン・ワンホ(忠南百済歴史文化館長):「日本にこのような優秀な技術が伝播したこ
とも今回の契機を通じて立証する、また再確認する契機になったと思います。」

日帝強制占領期に命脈が絶たれて幻になった百済の武器製作技術が子孫の指先で復活してい
ます。 」引用おわり。

そうそう。いつか、しらべうたまるさんが貸してくださいました。
七支刀の製造はとても難しいということは、よくわかりました。

また、武寧王陵墓に戻ります。

コウヤマキのひつぎが使われていた。高貴な人のもがりに使う。
日本にしか自生しない木なんですね。へえ~。
ってことで関係ないが連想。
かささぎは結婚直前に一人旅で京都をめぐったとき中宮寺に行ったことがあって阿弥陀如来半跏思惟像を見てきた。中宮寺のと広隆寺のとおなじポーズの像で、まちがっていったんだけど。

広隆寺のは赤松。以下、ポイント。(日本人と木の文化、小原二郎をかささぎは読んでいたが)

第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。
1960年8月18日、京都大学の20歳の学生が弥勒菩薩像に触れ、像の右手薬指が折れるという事件が起こった。この事件の動機についてよく言われるのが「弥勒菩薩像が余りに美しかったので、つい触ってしまった」というものだが、当の学生は直後の取材に対し「実物を見た時"これが本物なのか"と感じた。期待外れだった。金箔が貼ってあると聞いていたが、貼っておらず、木目が出ており、埃もたまっていた。監視人がいなかったので、いたずら心で触れてしまったが、あの時の心理は今でも説明できない」旨述べている。なお、京都地方検察庁はこの学生を文化財保護法違反の容疑で取り調べたが、起訴猶予処分としている。また、折れた指は拾い集めた断片をつないで復元されており、肉眼では折損箇所を判別することは不可能である。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

こちら中宮寺の。とても優美。しなやか。
思いのほか小さな仏像で黒光りしている。

(関係ないよねえ。)いや、ある。
日本と朝鮮半島との文化交流について。

▼環頭太刀の出土品の研究

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/27686/1/063.pdf#search='%E7%92%B0%E9%A0%AD+%E5%A4%A7%E5%88%80'

早稲田ですね。早稲田といえば、大学付属の中高一貫校が大分かどこかにできたみたい。きょう、新聞で宣伝をみた。

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コメント

武寧王陵と出雲大社と伊勢神宮・内宮は一直線上に並ぶらしい。
また、武寧王陵と難波宮跡と石上神宮も一直線上に並ぶらしい。
(↓)

コウヤマキは秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さまの「お印」です。
皇室医務主管を兼ねておられたK・国立精神神経センター総長にお仕えしていた頃、悠仁さまがお生まれになられました。その際、センター敷地にコウヤマキを記念植樹しました。枯らすようなことがあってはいけませんので、コウヤマキについてはかなり勉強しました。

乙四郎先生。
前から気になっているのですが、一直線上に並ぶとは、それはどういう意味があるのでしょう。
はじめてそういうのをみたのは、吉野裕子の隠された神々という題の本で、三十代半ばころでした。
たしか、熱田神宮とお伊勢さんと出雲大社がおなじ高さにあるというのでした。・・いやそんなはずはないよね。そうじゃなくて、同じ緯度で一番の東の端にある熱田神宮と一番西にある出雲大社がどうのとあったと記憶していて、あの本はわたしにとって大きな影響をもった本だったので、ボロボロになるまで何度も眼を通したのですが、とくに北斗七星のところ、芭蕉の有明の主水に酒屋作らせて。を深く考えるのに。
もう一度久しぶりに読もうと探せど、これまた発掘しなければ見つからず、あきらめて、ネットで探していると、思いもかけぬ吉野先生の批判記事を見たりしまして。だけど、その逆もたくさん。たとえば、ここ☟。

上記引用ブログ、面白いです。
幽霊のはなしもですが、吉野裕子先生とじっさいにお会いになられて、江戸弁というかとってもきれいな東京弁を聞かれている話。
それと、雅楽の話も面白かった。東儀家のこととか楽屋話とか。

じつは、この一直線にならぶ神宮であちこち検索かけていたら、色々であったのです。これと。必読かもしれんなあ。と思い、貼り付けておきます。☟

ほかに、このブログを推奨いたします。
すごいです。☟
まったく、おっしゃるとおり。
かがなべて。
かがり火をたくさん並べたように感じます、それが背景にすーっと浮かぶのです。
かささぎは、このみひたきの翁とヤマトタケルの唱和(はじめての連歌とされる)を知ったのは、石橋秀野の俳句からでした。
かがなへて、で始まる句を秀野が詠んでいたのですよね。ヤマトは天理出身の俳人です、やまとことばがたくさん使われていて、わたしは石橋秀野と石橋貞吉(山本健吉)によって豊穣な日本語の世界を開かれたようにおもう。
もちろん、そのおなじころに、連句や前田圭衛子師とあったこともあります。安西均先生へ詩の投稿をしていた、そして先生が亡くなられる直前に、連句なさっていることを知ったのでした。幾重にも偶然が重なっていて、これは、書くのもめんどうなくらいで。

連句的に書いておきたい。
吉野裕子本で、こういうことを知りました。
古代、カカというのは、へびのことであった。
かがみはへびの目。瞬きをしないへびの目。
み火焼のおきなは火の番をする人。
(問ひ) 新治筑波(にひばり・つくば)を過ぎて
 幾夜(いくよ)か寝つる
(返し) かがなべて夜(よ)には九夜(ここのよ)
日には十日(とをか)を

原爆忌の俳句を考えているのですが、このはるかな昔と、いまのウランのあかりの世と、裏と表がひっくり返ったのかなあ。

滞在時間 5分12秒 閲覧ページ数 3ページ 参照元 武寧王 環頭太刀

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