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2013年5月 5日 (日)

明治の”赤ちゃんポスト”(中編)

明治の”赤ちゃんポスト”(中編)

澤田謙照 京都文教学園学園長

福田会育児院開設

資料「福田会育児院開設」をご覧ください。明治五年に「福田会」創設への思いが膨らみ、明治十二年には、日本橋茅場町29番地に「育児院」という東京で随一の赤ちゃんを大切にしていく施設が発足しました。同年十月、その「説教録」(すなわち趣意書)が出版され、協力者を求めたとあります。その時の設置願いは多田孝泉の文に収録されており、「府下日本橋茅場町29番地天台宗智泉院を借受け」、「4月1日付で各宗有志総代として行誡以下、新潟真言宗国上寺大崎行智、静岡臨済宗臨済寺今川貞山、千葉日蓮宗藻原寺神保日淳、群馬天台宗長楽寺石泉信如および先の智泉院矢吹亮信などの連名で申請し」となっており、皆さん方は若いお母さん方が始めたのですが、当時はそういうお寺のお坊さんたちが呼びかけました。しかし、お坊さんだけでなく、(これは別の資料ですが)在家の名士も名を連ね、旧幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)、高橋精一(泥舟)そして米穀問屋の川井文蔵の名も見えます。旧幕臣の渋沢栄一、福地源一郎、野村利助、大倉喜八郎等の名も見えます。

「寄付金は、第一国立銀行と三井銀行に積み立て、基金とするという大規模なものであった」とあります。設立の目的を記した同院規則第一条には「コノ育児院ハ幼稚ニシテ、父母ヲ失イアルイハ貧窮ニ困セラレ養育シ能ワザル者ヲ入院教育シテ、ソノ己有ノ厚徳深智(こゆうのこうとくじんち)ヲ発達セシメンコトヲ冀望(きぼう)シ、以ツテ設立スルモノナリ」とあるように、かわいそうな幼児達を入院させて、その子の智徳を伸ばしてやって、厚徳深智の立派な子どもに成長させることを願って設置されたのです。その資金集めとしては、「永続会友、随喜会友、捐助者(援助者)の別を設け、全国国立銀行窓口に申し込み用紙を置いた」とあります。これは、維新でごった返した明治時代に、素晴らしくて、頭の下がる事業として永遠に称えられるものだといえます。

赤子の井におち入らんとす

資料『育児院説教録』の最初をご覧ください。読んでみます。
「赤子ノ匍匐(ほふく)シテ井ニ入ラントスルヲ見ルモノ、誰カ怵惕惻隠(じゅつてきそくいん)以テ之ヲ救ワサル者ナカラン、此レ人ノ人タル道ニシテ、人情ノ至実止ムコトヲエサルヨリ出ル者ニ非スヤ、儒ニハ此ヲ名テ仁ト云、孟子ノ曰ク、惻隠ノ心ハ仁ノ端也、又曰ク、惻隠ノ心無キハ人ニ非ルナリ、論語ニ曰ク、君子ハ終食ノ間モ仁ニ違ウコトナシト、サレバ仁トハ人ナリト註シテ、此仁心アルモノヲ以テ豺狼(さいろう)ノ心トス、豺狼ハ惻隠ヲ知ラズ、残暴ヲ以テ物ニ忍バザルノ凶悪ナルモノナリ、故ニ曰ウ、惻隠ノ心無キハ人ニ非ル也ト、仏説ニハ此ノ仁心ヲ指シテ慈悲ト名ク、観無量寿経ニ曰ク、仏心トハ大慈悲是ナリ、無縁ノ慈ヲ以テ衆生ヲ摂取ス・・・」

この文はまだまだ続きますが、あまりに格調の高い素晴らしい文章なので読ませていただきました。赤子が井戸におちそうになっているたとえとして、「今天下の貧児窮孫(ひんじきゅうそん)殆ど井におち入るの困厄に臨む」とも表現されています。この”赤子の井におち入らんとす”る危機一髪の状況を見て、惻隠の情があるなら、果たして放って置く人はない。もし惻隠の情が起こらないとしたら、それはもはや人間ではないことを、儒教の仁心や仏教の慈悲心から訴えているのです。

〈そこに井戸があっても、わけのわからない赤ん坊は、その緯度の傍までゴソゴソと這っていって、今にも落ちそうになっている。人間ならば、どうしてそれを放って置くことができようか、そんなことはできるはずはない〉と。非常にわかりやすい。この例えを使って、今、我が国に、多くの胎児が消されようとしている。多くの赤ん坊が捨てられる危険な状況にある、これを放って置いてよいのか、どうするのか、ということをしきりに訴えかけているのです。

ここで確認したいのは、私は、何かで読んだことを思い出したのですが、孟子・荀子思想には、それぞれ性善説と性悪説との対立がありまして、性善説の場合は、そこに赤ちゃんが落ちようとしているのだから、人間は皆善なのだから、当然救わなくてはならない、救うだろうという考え方。ところが、性悪説は赤ちゃんがいても他人のことだから放って置こうと思いつつ、でも、何とかしてあげよう、と善に向かう努力をする、性悪の中に性善をしていこうという生き方が性悪説であると知りました。ともすれば、人間は自分の都合の良い方向に向かおうとするけれども、けれども、どこかで思い止まって、善いことをしよう、せめて赤ちゃん一人を救おうではないか、という心が動く、これが性悪説として説かれているそうです。性善説、性悪説それぞれ言い分はあるでしょうが、いずれにしても、他人のため・善の方に向かう努力が必要だと思います。これが、人間らしい生き方と云えるのではないでしょうか。

ところで、行誡師は、儒教で言う「仁心」を、「仏説ニハコノ仁心ヲ指シテ慈悲ト名ク、観無量寿経ニ曰ク、(仏心トハ大慈悲是レナリ、無縁ノ慈ヲ以テ衆生ヲ摂取ス)」という経文を引用されます。この『観無量寿経』は「浄土経典」の一経として有名な経典ですが、仏心というのは大きな慈悲を意味し、この慈悲は「無縁の慈悲である」と説くのです。自分に縁がある相手だから優しく助けて、縁がなかったら助けないというのではなく、無縁の、縁がない方であっても救いの手を差し伸べるのが一番大きな慈悲だと説かれています。

行誡師は、わが国各地方の厳しい社会状況下の人びとの生活を表現して、「ソノ中貴キハ少ナクシテ賎シキガ多ク、富メル者ハ寡クシテ貧シキガ多シ、ソノ貧賎ノ中ニ於ケル亦上中下アリ、ソノ下等ノ極下ニ至シテハ、衣質(かたち)ヲ覆ウニ足ラズ、食腹ニ充ツルニ及バズ」といい、そういう厳しい貧しい生活にあっても、そういう時代だから沢山家族があり子供がいるけれど、「コノ中ニアッテ父母アリ、養ワザルベカラズ」、父母は一生懸命子供を養おうとした。「シカシテ其ノ一日ノ得ル所ワズカニ十銭二十銭ニスギザルモノアリト云ウ」と描出しています。さらに師は言った。「今無心ノ赤子ノ井ニ落チ入ラントス、コレヲ他人ノ子ナリ、我ガ子ニ非ズトイイテ、傍観シテ可ナリトセンカ、必ズシカナラザルナリ。今天下ノ貧児窮孫殆ド井ニ落チ入ルノ困厄ニ臨ム。コレヲ他人ノ子ナリ、我ガ子ニ非ズト云イテ、傍観シテ可ナリトセンカ、未ダカラナズシカルベカラズ」と訴えられる。

私はこの数行を読みながら、明治と現代の大きな格差、物質的に恵まれていながら、さらに言えば、その故に、胎児や赤子のいのちを大切にしない傾向が見られる。これは、大変なことです。今こそ、人間は、自分の心のありかたを振り返らなければならないと思うのです。(次号につづく)

(生命尊重ニュース3月号より全文引用)

三瀦の八山呆夢さんより貸してもらった小冊子から引用しております。

参照)

多田孝泉:http://takeone0124.at.webry.info/200610/article_4.html
      http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772352
      http://www.amazon.co.jp/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E4%BC%9A%E8%82%B2%E5%85%90%E9%99%A2%E8%AA%AC%E6%95%99%E9%8C%B2-%E5%A4%9A%E7%94%B0%E5%AD%9D%E6%B3%89%E7%AD%89/dp/B008XE8XIG 

▼かささぎの一人ごと

赤子の井におちいらんとす。との例え話に、芭蕉の紀行文(野ざらし紀行)を思い出しました。赤ん坊ではないが、幼い子供が大きな川の横でないている。ほうっていたら、やがて落ちて死ぬだろう。芭蕉は憐れみますが、しかしそのまま通り過ぎるのです。恨むな、親を恨めといって。http://www.intweb.co.jp/basyou/9izumo_itiburi.htm
このブログ、つい引き込まれて時間を費やしてしまいました。
一つ家に遊女も寝たり萩と月(奥の細道)
そのとおり、遊女と連れ立っても、また、捨て子と連れ立っても、まっとうではありませぬ。そういうものではない。それがこの厳しい世の中なんだよと。

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赤ちゃんポスト

45位です。

実際に熊本へ行ってみてきた記事をご覧ください。↓

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