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2013年5月19日 (日)

明治の”赤ちゃんポスト” 〈後編〉 澤田謙照

明治の”赤ちゃんポスト” 〈後編〉 

  澤田謙照  京都文教学園学園長
ローマ棄児院の記述
行誡師は、維新の諸問題で内外多忙の中でも、外国に眼を向け、情報を得るため、相当本を読まれていたようです。資料をご覧下さい。
「兼ネテ聞ク、西洋ニハ棄児院トイフモノアリテ、棄児ヲソダツル所アリト。今我国ニテコレラノ所アリシナラバ、マタコレヲ救フ一端ナラント、西洋諸国ノ歴史ヲ略(ほ)ボソノ成立セシモト末ヨリソノ方法ナドヲ考カウルニ、西洋ニテモ古ハ羅馬(ローマ)トイフ国ヲハジメトシテ、ソノ他ノ国々ニテモ貧シキ人ヤ無慈悲ナモノハ、ソノ子ヲ棄テ、日ニサラシ雨ニウタシメ、ソノ生命ヲ失ワシムル悪イ風俗アリシカド、誰アリテコレヲ問ウ者ナカリシガ、ワレンチャンワレンスタラチャンナドイウ天子ガアリテ厳クコレヲ禁ジタレドモ、ソノ悪シキ風俗ハ尚止マズ、ワガ国ノ建久9年(1198、法然や親鸞が生きておられた頃)」「コノ頃、シントフプリットトイフ所ノ施濟館(せさいかん)トイフ貧窮人ヲ救ウトコロヲ再興シテヨリ、インノセント三世(ローマ法王、1198~1216)トイフ王ノ時、チベル河トイフ川ノ辺ニ棄児スルモノ多キヲ憂エ、施濟館ノ出張ヲコシラエ、初メテ棄児院トイフモノヲ建テラレタリ。ソノ後ノ帝王追々ノコレヲ大イニシ、カツソノ入費ヲ寄進セラレシヨリ次第ニ他ノ都府ニテモ、コノ例ニ倣イテ棄児院ヲ建ツルコトナレリ」
とあります。
この次が赤ちゃんポストです。
「サテ、ソノ棄児院ノ方法トイフハ、コノ院ノ裏ノ塀ニ一ツノ穴ヲ開ケ、ソノ中ニ一ツノ箱ヲ置キ、夜ノウチニ来テ児ヲ箱ニ入レテ、ソコニ掛ケテアル鈴ヲ鳴ラシテ去レバ」

お母さんが箱の中に赤ん坊を入れ、鈴をチャリンチャリンと鳴らして、
「去レバ、コノ院ニ居ル人ガソノ鈴ノ音ヲ合図ニ、箱ノ中ノ子ヲ取リ上ゲテ之ヲ養イ育テ、成長スレバ皆ソレゾレノ職ヲ持タセテ生業ヲサセ、又ソノ親タルモノガソノ児ガ成長セシ後ニ、我ガ子トイフコトノ知レルヨウニ、子ヲ箱ニ入レル時、一ツノ記号ヲツケオカシメ、モシ他日ソノ求ムル時、ソノ証拠サヘ確乎(かっこ)ナレバ」
これは、何年何月にこの箱に来たということがはっきりわかれば、
「養育中ノ入費ヲ払ワセ、ソノ子ヲ渡スコトヲ許セリ」
とあるんです。これはまさに今の赤ちゃんポストと一緒ではないかと、私は驚きました。
これはローマですが、
「英国ニテハ、日本ノ元文四年(1740)ノ頃ニ、「龍動(ロンドン)ト云ウ都府ニテ初メテ棄児院ヲ建ツル免許ヲ出シ、次ノ年ノ十二月二六日ニ一ツノ棄児院ヲハットンガーデントイウ所ニ建テ、生マレテ二ヶ月ニスギザル者二○人ヲ限リテ養ウ事ト定メタル、コノ院ノ方法ハ、児ヲモッテクルコトニツイテハ、何モ詮議セヌコトト極(き)メタル故、入院ヲ願ウ者次第ニ多くナリテ、ナカナカソノ資本ニモ乏シクナリユケレバ、日本寳暦(ほうれき)六年ノ頃ニ議事院トイウ役所ヨリ一万ポンド金ヲ寄進スルコトニナリ」
という記述があります。
「また仏国ニテハ百六十年程前ニビンセントデブラツトト云ウ慈悲ブカキ人アリテ会社ヲ結ビ、各々金ヲダシオウテ一ツノ棄児院ヲ建テテ養育シタリシガ、ソノ後、政府ヨリソノ入費ヲ賜ルコトトナリ、盛ンニ棄児ヲ救ウコトヲ得ル由ナリ。・・・
頼ム所ノナキ赤子等ヲ救イ養ウ手段ニハ、棄児院ヨリ外ニ仕方モナケレバ、モシカノ仏国のビンセントデプオールトイウ人ノ貴キ跡ヲ踏ミ倣イ、会社モ結ビテ元手ニテモ募ル人ノアランニハ、タトエ我々ノ如キ貧シキ暮ラシノ身ナリトテ、如何デカ多少ノ寄進ヲナサザランヤ。カカル人ヲ得ルコトサエニ是非教法ノ力ナラデハ調イガタキコトナレハ、何ニシテモ宗師方ノ力ヨリ外ニ頼ムベキミノアラズ」
と言い、会社の社長が一生懸命お金を儲けて、寄付をしてくれる人が段々出てきた。だから我々も頑張ろうじゃないか。やはりお坊さん方が頑張ってくれないと、としきりに言っておられます。
母に添い寝の夢や見るらん
行誡師は、『説教録』の最後に、「よく棄てらるる赤子の情は」と慈鎮和尚(小倉百人首の慈円大僧正、1155~1225)の和歌を紹介しておられます。
 さ夜ふけて  一人棄児の泣きやむは
 母に添い寝の  夢や見るらん
これは非常にすごい歌ですね。
夜中になって子供がわーっと泣いているが、突然、スっと泣きやんだ。それはお母さんが横にいてオッパイを飲ましてくれたのではなく、棄てたお母さんがお乳を飲ませながら添い寝をしてくれている夢を見て泣きやんだのだろう、という意味です。本当に悲しい歌ですね。
徳永進さんという鳥取大学教授で癌専門の病院を建てられ、多くの癌患者さんを見送られたお医者さんが、『こんな時どうする?』という本を著されて、こんな話を紹介されていました。
「沼野尚美さんの『癒されて旅立ちたい』という本に、妊娠中に癌になり、赤ちゃんがお腹にいるが、癌でいつ自分の方が先に亡くなるかわからない宿命にあるお母さんの話があります。「癌の進行で痛みが生じても胎児への影響を思い、鎮痛剤を我慢し、耐える母親、自分の身体の中に育っていく命を守りながら自分自身は死へと向かう。無事に元気な赤ちゃんを出産したあと、末期状態になった女性に聞いた。〈後悔していないかい?〉そうすると、彼女は〈後悔していません。ただ育ててあげられない悔しさ悲しさ。体力ないので抱きしめてあげられない申し訳なさがあります〉と、もう瀕死の状態だったんですね。命の象徴的な場面に教えられるのは、この母親の精神が新しい命に支えられていると想像できる、また同時にこの子の精神が母に代わるもうひとりの母親の存在(社会的な存在)によって守られていかなければならないと思う」と。
私はこの文章に胸が痛くなりました。中絶をしたり、捨て子をしたり、虐待する母親がたくさんある中で、明日の命さえ保障されない病気のお母さんが、何とか子供だけは元気に育つよう、良くない薬が胎児に入らないよう、鎮痛剤を避けながら亡くなっていかれたというのです。そういう方がいらっしゃるわけです。こういうことを思うと、明治時代から福田行誡さんのような温かい救済の心を持った方がたや、このお母さんの存在を忘れないようにし、この資料を読みながら、やはり人間というものは、人のために頑張れば頑張るだけ素晴らしいな、と思わせて頂きました。そして、生命尊重の会の皆さんの御苦労を思い浮かべています。自分の生活も大変だけれども、胎児や赤子達の命が奪われていく厳しい状況の中で、頑張ってくださっている皆さんに畏敬の念をささげます。
この講演の資料は、ほとんど『平成新修 福田行誡上人全集 第三巻』(USS出版)及び、解説文を依用指せて頂きました。ご了承ください
  ー引用おわりー
『生命尊重ニュース』2013・4月号より転載
▽資料メモ
「西洋の棄児院」
で検索しましたら、真っ先にでてきたのは、福沢諭吉の西洋事情でした。
原文がトップですが、問答形式のを貼り付けます。
簡潔です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14105963644
貧院に、老院と幼院あり。
また、孤院と棄児院あり。
〇貧院の内、孤院と称する院あり。貧児の父母なき者のみを集めて養う所なり。又棄児院なるものあり。貧人の子を養うこと能(あた)わざるもの、或は貧人にあらずと雖ども密通して子を生み之を公にすべからざる者は、皆その子を棄児院に棄(す)つ。西洋にて密通は固(もと)より厳禁なれども、薬を用て脱胎する者は、その罪、密通より重し。且(かつ)子を棄(すつ)るときも固より公にはせざれども、子を棄るを見て之を咎(とがむ)る者なし。院の戸外に鈴ありて、子を棄る者、戸外に子を置き鈴を鳴らして去れば、院より出(いで)てその子を拾(ひろい)て、之を棄る者を問わず。既(すで)に院に入れば衣服を与え乳母を附け丁寧に養育して、次第に成長すればその才に応じて学術技芸を教え、活計の方を知るに及で之を出だす。棄児院は魯西亜(ロシア)にて最も之を重んじ、院の費用全く政府より出て、棄児養育の法、甚(はなはだ)厚し。蓋(けだ)し魯西亜は土地広く人口少きが故なり。
------------------------------------------------------------
福沢諭吉の「西洋事情.」  初編. 一 - 83~84ページ :
http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=3&PAGE=83
以上、上記ブログより引用。(多謝)
▼福田行誡師について
1 歌人として
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gyoukai.html
2僧侶として
http://blog.goo.ne.jp/oonokatu21/e/b2bdd08914d4987a650f4493554dd0ce?fm=rss
上記ブログをまるごと転載、福井の人、どうも失礼いたします。
そして、ありがとうございます。
七大経⑪-34(阿弥陀経 福田行誡)

生涯、念仏を称え続けていった僧に
福田行誡(1809~1888)がいる。
彼は明治初期の浄土宗の僧。

文化3年、東京都台東区に生まれる。

6歳で小石川伝通院で出家する。
研究心旺盛で,その学問,人徳が
優れていることで,
仏教界で知られるようになる。

嘉永5(1852)年伝通院の学頭になり,
その後,僧侶の自律反省を促して
仏教復興に努めた。

伝通寺,増上寺を歴住し,
嘉永10(1862)年に浄土宗管長となったのだ。

彼の、念仏行は凄かった。
一日7万遍~8万遍の念仏を
称えていた。

その彼に臨終が近づいていた。

弟子の一つが行誡に尋ねた。

「お師匠様、これだけお念仏を称えているのですから
 死んだら、極楽浄土は間違いないでしょうね」

すると福田行誡は

「臨終に阿弥陀如来のお迎えが来るまでは
 分からん。
 化土にでも生まれることができれば
 いいがな」

と答えたという。

念仏三昧の生活を送っておった彼でさえ、
極楽へ往けるか、どうかは
死んで見なければ、
分からないのである。

彼は84歳で亡くなったが、

「釈迦は80の涅槃まで
 隠居なさらず、
 法然上人も85まで
 隠居なされなかった。
 どうして私だけが隠居できようか」

と言って晩年まで隠居せず、
法の教化につとめた。

その臨終の前日、
法弟の福田循誘を呼び、

「明日は法然上人の御忌の日じゃな」

「さようでございます」

「それではわしも、
 明日あたり往生しようと思うから、
 掛け物を代えてくれ」

と言った。

浄土宗で臨終の時の掛け物といえば、
来迎仏に決まっているが、
弟子の循誘、うろたえたのか、
来迎仏ではなく、
閻魔大王の掛け物をかけてしまった。

これを見た上人、一笑して、

「閻魔殿もお迎えか、どれどれ」

と言いながら、一枚の送り状をしたためた。

「閻浮提大日本国  行誡  八十四
 右老病臨終の趣に付き、
 点検申候処、御本願相応の行者と断定候間、
 御都合次第、御来迎の用意可然、
 此段宜敷執奏可有之候
 閻魔王府
 西方世界二十五菩薩御庁」


そして、翌25日に死んだのである。
3 僧侶として つづき
http://www.mituzoin.jp/therapy_bukkyou_015.html
これも又、まるうつしをしておきたいと思います。
ありがとうございます。

4. 戒律復古運動


 明治5年に肉食妻帯に関する太政官布告が出され、国法として僧侶の肉食妻帯が処罰されることはなくなりました。明治8年に『明教新誌』という大教院(教部省所管の宗教管理団体)が出版していた仏教系雑誌(新聞)では、現在の岡山県において僧侶の妻帯が進んでいるという記事を掲載し、明治9年の論説では、「これからの時代、僧侶も一般の人民として生きるべきであり、僧侶という職業に従事しながら、一般の国民として法を遵守しなければならない」と説いています。
 明治5年の太政官布告により、僧侶に仏教における戒律からの解放が政府お墨付きという形で与えられ、法の下において自由奔放に行動するようになったかのように思えるかもしれませんが、これまでに論じてきたように、近代以前の近世から真宗以外の多くの寺院においても、僧侶に妻がいたという複数の記載があります。これらは明治に入り新聞という全国一律の新たなメディアが出来た結果、僧侶の行動が表面化したもので、前世代から引き続いていたものである。
 また、この時期に浄土宗大教院(浄土宗を管理監督する機関)で働いてた福田行誡氏らが戒律復興を唱え、活動していました。しかし、大教院発行である『明教新誌』には全く触れられていません。
 次の肉食妻帯から始まる建言は年代不詳ではありますが、「僧風釐整(そうふうりせい)の建言」が出される明治10年までに提出されたと伝えられます。

「肉食妻帯蓄髪勝手次第 右御布告の趣、恭承仕り驚駭に堪えす、謹て言上仕候、・・・以下省略」 總黌教頭 福田行誡」
 (望月信道『行誡上人全集』平文社、昭和17年、451~454)

 これは浄土宗の總黌教頭(学門の分野での長)である福田氏が明治5年の太政官布告に対して、理解することが出来ず、政府に対して一言申し上げたものです。福田氏は僧侶が戒律を守ることが、仏教を護り、発展させるものだと信じていたようです。この建言を発した後、明治10年9月に福田行誡氏は各宗管長連署の建言書を内務省に提出しています。

「僧風釐整の建言(明治10年9月) 明治5年4月肉妻蓄髪俗服公布有之候以來、放逸無慚の僧徒此を堯倖として無妻の僧徒遽かに閨房を設け、清淨の道場忽ち瞰肉の屠所と相成、見るに耐へる醜態を顯はし候より、有信の檀越も各歸向を失し、・・・以下省略」 淨土宗 福田行誡  内務省御中  以下各宗管長連署」
 (望月信道『行誡上人全集』平文社、昭和17年、456~457)

 先の建言から数年は経っていたと思われますが、各宗派管長連名にて建言を発しています。仏教各宗派にとっても太政官布告は理解しがたいものだったようです。その間に末端では僧侶の妻帯が進んでいました。
 その他、戒律復古運動を行っていた先徳に仁和寺座主(管長)の釈雲照(渡辺雲照)がおります。妻帯に関して直接的な関連はないようですが、明治時代の僧侶に多大なる影響を与えた清僧です。名前だけですが紹介しておきます。

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