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2013年5月 6日 (月)

かささぎの旗(16)~重信と兜太と鱒太、そして重信の天才論

 かささぎの旗(16)

              姫野恭子

 

 

 白い人影はるばる田をゆく消えぬために

 

      金子兜太 昭和三十年

     (円錐2012・秋号より)

 

 前回引用した金子先生の一句、はるばる

を落としておりました。どなたか存じませ
 
ぬが、ご指摘ありがとうございました。

 もう一点、故中島偉夫氏のお名前の読み

をえらおさんと書いておりましたが、これ
 
はヒデオと読むのが正しいのです。しかし

私は内心えらおさんと呼びかけるのでした。

実際にお会いしたことなどないのです。思
 
えば、同人誌に作品を発表するという事は、

赤の他人から、同人というえにしを戴く事

でありました。そういうことに気づかせて

いただき、ありがとうございました。

 新年を迎え、大河ドラマは元気のよい女

性が主役の文明開化期のものが始まった。

初回を見ていて、はっとする。宮部鼎蔵が

ちらっと出てきたからである。宮部鼎蔵は

宮部鱒太氏のご先祖でありました。先生
 
の自選句集に併録されている随筆に、その

件が書かれています。私はつい嬉しくなり

句集を開きました。随分久しぶりです。す

ると、「重信と兜太の間で」と題する文章に

目が止まりました。読んでいませんでした。

 重信とは高柳重信のことで、今なお非常
に人気も影響力もある俳人です。わたしは

そういう俳句論について、大牟田の谷口慎
 
也先生の連衆誌で学ばせてもらったのが最

初だったと記憶します。去年、れぎおんの

前田圭衛子師のお世話で上京したとき、同

座した、俳文学者の浅沼璞氏や伊藤眠氏も昔

連衆誌に学んでいた事があると言われました。

 それから石橋秀野と山本健吉ばかり追って

いたのですが、ここ数年、円錐誌を通じて再

び、高柳重信に触れることが多くなりました。

それで、鱒太翁のその随想に立ち止まった訳

です。鱒太先生は、こう書かれていました。

「ことばの啓示的な導きにより超時的な絶対

詩を期待してゆくという態度・・これが重信。

 兜太は日常に立ち、日常のなかの物の質感に

 迫ることを基盤にする。」

 さらにもっと詳しく両者の違いを両者に語
 
らせておられましたが、結局鱒太先生は、
 
自分はこのまぶしい二人の俳人のどちらに
 
傾くか、だんだんと兜太の方向へ歩いてき

たようだ。という言葉に収斂されています。

   ◆

 前川弘明第句集「月光」から、心に残った
 
句たちを引きます。

僧玄奘渋柿三個袖に入れ
 
牛の背に揺れ玄奘と石榴籠

葡萄汁喉に尊き読経かな

寒の星ぴちぴちはねる母郷かな
 
猪眠るときおり花の息をして

若き王射抜きし大猪を担ぎ

酔うて舞う壮士が被く花衣

泉飲む諸手つき膝ふかく折り

女来る真昼の蜈蚣踏みつぶし

行く春の皿割る遊び妻はする

皿割る遊びの妻を詠んだ句、これだけが生ログ風

に読めました。うまい作家だと思います。それと

土地柄ゆえか、キリストに関する句が多く、その

どれもが秀逸です。

大分の吉賀三徳氏が亡くなられている!
とてもいい句を書かれる人でしたのに。
惜しいです。三徳さん一回こっきりの出会いでし
たね。三徳さん追悼句

 初東風にきみが檣(ほばしら)ただ白き

(九州俳句誌169号より転載)

高柳重信の天才論

「天才論・失敗」

 編集者の注文は、俳壇の、それも現俳壇の天才を発掘せよ、ということであつた。
実は、僕は、此の題目に就いては、もう書けそうもない。今までに既に何枚も書いては破り書いては破りしてみたが、到底、ものになりそうもない。しまいには、天才というこのたつた二文字の言葉を、原稿用紙の上に書くことさへ、たまらなく羞ずかしくなつて来てしまつた。

はじめから、僕にとつて、此の題目は興醒めしたものではあつた。しかし、もう少し何とか書けるつもりではいたのだが、こう、妙に白けきつてしまつては、どおにもなりそうにない。かえつて腹が立つて来る。
一体、天才などと言う言葉は、そんなに軽々しく、口にしたり、書いたりしてはいけないものなのだと思う。殊に、俳壇で、それを口にするなど、もつての他のような気がする。「俳壇と天才」と「猫と小判」と、どこにちがいがあるのだろうか。

 勿論、此処では、編集者の意図は尊重されねばならない。編集者の意図は、俳壇沈滞の打開を念願する処にあり、そこから天才を待望しているのだが、僕は、いま、そうした念願それ自体に対しても、ぢりぢりした腹だたしさを感じてしまう。

 それは、現在の僕にとつて、俳壇の沈滞打破などと言う言葉は、何の意味もない言葉としか思えないからだ。言いかえるならば、僕には、沈滞していない俳壇、乃至、生気あふれた俳壇などというものは、もはや考えられないからだ。

 僕に関する限り、俳句は、敗北の詩であり、汚辱の詩であり、人間失格の挽歌でしかない。沈滞は、その当然の相であり、それ以外の相は、思いもよらないと言える。

 だが、そう言つてしまつては、とりつく島もない。編集者も困るだろうし僕も面白くない。内緒で、編集者に打ちあけるならば、此の原稿は、依頼期日が遅すぎたのである。若しも、僕が、まだ十八歳であつた頃、この原稿を頼まれたならば、僕は少しも臆するところなく何十枚でも書きとばしたにちがいない。

 その頃、僕は、はるかに晴朗で、健康であつた。ランボオにも、ラディゲにも、少しも驚かなかつた。明日にでも、直ぐに、それをしのぐ傑作を、正気で書けるつもりでいた。毎夜、「スネイク・ヒツプ」という喫茶店に陣取つて聲をはりあげて、文学上の論争を楽しんだ。酒を飲み、恋をし、そして売られた喧嘩は、躊躇なく買つた。いまも僕の眉間には、かすかにその痕を残しているが、その頃、僕の眉間の傷痕は美事な三日月形をしていた。
本当は、幼年時代友達に石を投げられた。くだらぬ傷痕であつたが、それが、酒を飲むと、赤く異様に浮きあがつて、刀痕のように鋭く見えた。僕は、それを、廃された王子のしるしと信ずることも出来た。何ごとも出来ると信じていたので、何ごともしなかつた。

 天才に関することを、正気で書くには、どうしても此のような陶酔が必要だ。十八歳はまさしく、その絶好の時期だつた。僕は、自ら、猫であることを忘れて、虎のように吠えることが出来た。劣等感など、どこにも無かつたその頃、僕は、此の世で会った女の中で、一番美しい女に、恋をした。

 その頃ならば、論理のアクロバツトを、何の含羞もなく、僕はやれたに違いない。例えば、「傑れた魂は、文明を指導する興味を有せぬ時、文明の埒外に生きる」と言う、レミイ・ド・グウルモンの言葉を、あれこれと、こねまわして、「俳句こそは天才の文学」という十八歳の結論を開花させることも容易であつたろう。そして、若しも、僕の恋人の晴れやかな微笑を真近かにした日には、芭蕉を継ぐ唯一の天才として僕の名を、その隣りに書き添えることも出来たであろう。

 更に、僕の恋人が、もの憂しげに見えた日や、僕につれない仕打ちをした日などは、天才の不遇について、長文を草することを辞さなかつたにちがいない。

「天才を定むる標準は何であろうか。先づ第一に、現在の才能ある作家に対する天才評価は(流行)に依つて定まる。第二に過去の天才に対する評価は(習慣)に拠つて定まる。」とアナトオル・フランスの閑談を抽きながら、(流行)と(習慣)という衆愚の武器を呪い、涙を流しながら、論理のアクロバツトを敢行し、悲憤の文を綴り、俳壇を罵倒したことであろう。
そして、
「天才とは、偏見を打破する勇気、真情、寛恕、憐憫などを指すのではあろう。」と言う結語に、半ば自ら慰められながら、更にその半ばを自ら慰めようとして「スネイク・ヒツプ」へと夜霧の中を急いだことであろう。思えば、こんな夜、僕は、些少なことから喧嘩をし、大抵は打ち負かされて、無残な気持で酒を飲んだようである。

 しかしながら、僕は、もはや十八歳ではない。僕は、もはや、さうした論理のアクロバツトを敢行出来るほど稚くはない。僕の眉間の傷痕は、いつの間にか薄れてしまい、僕はもはや、廃された王子ではなくなつた。

 晴朗で、輝くように美しかつた僕の恋人が遠い国に移り住んだとき、そして、彼女へ長い長い手紙を書いたとき、僕の恋は終つた。彼女の美しい崩し文字を、僕は読み損ない、白島町を白糸町と書いた宛名を、その手紙を投函し終つた瞬間、僕は十八歳ではなくなつてしまつたのである。折り返しに、彼女から届いた葉書に、今度は男文字のように明瞭な字体で、白島町という字が書かれてあつたとき、僕は全くみじめな男になつてしまつた。

 それ以後、僕には、この世の中で一番美しい女に恋をする勇気はなくなつてしまつた。僕には、もはや、よく晴れた日は、やつて来なくなつた。とき折、晴がましい舞台に立たされるときがあつても、僕はその度毎に、彼女が書いた楷書の白島町という字を思い浮べて、べつとりと汗ばんでしまい、すぐに其処にいたたまれなくなつてしまうのであつた。おそらくは、この原稿を書きながら、天才という文字を書く度毎に無性に腹が立つてくるのも、この天才という文字の下に呪うべき白島町という文字を思い浮べる為だろうと思われる。

 どう、ひねくつてみても、僕には、俳句から天才を連想することは出来そうもない。率直に言つて、天才という言葉は、僕には死語であつた。それはあまりにも唐突だ。現在の僕が、俳句から抽き出し得る連想は、もつともつと無残で淋しいものばかりである。

 中学生時代、どうしても飛び越すことの出来なかつた鞍馬や、どうしても上ることの出来なかつた鉄棒、かならず皆んなより一周は遅れてしまう二千米競争、そして、徴兵検査の時、丁種不合格者として受けなければならなかつた激しい屈辱の数々、ーーーどれ一つとして晴がましいものはない。病んで後は、誰もが予期し、その予後の適中という面目にかけて懸命に念願している僕の夭折。その結果、僕は贋造紙幣のような待遇を至る処で受け、ついには僕自身、自らそれを信じてしまわなければならない破目にさえ陥つた。誰もが僕の明日の死を予期し、それによつて現に生きている今日をさえ信じようとはしないのである。それは狸の木の葉の小判が受ける評価と少しも変らない。
現在の僕が、俳句に与える評価も、この狸の詐術による木の葉の小判と変るところはない。醒めた眼で、よくよく見れば、俳句は全くこのように白けきつて馬鹿馬鹿しいものである。それは文学圏を旅行するための贋造旅券でしかない。一体、ここで天才を考えることが出来ようか。

 もし、あえて、天才を指名しなければならないとするならば、数多くの贋造旅券を発行し、しかも、それが贋造であることを依然として見破られないでいる稀代の詐術師、俳壇唯一の知能犯山口誓子を指名しよう。

 思うに、山口誓子は偉大である。彼の詐術の巧妙さは、或いは天才の名に充分価するものがあると言えるかもしれない。僕を、敏速に、しかも正確に、贋造紙幣であると見破つたのは処世術という慧眼であつた。それなのに、この処世術という慧眼を最も完全に具備していると思われる俳壇人を、このように欺きつづけている山口誓子は、確かに偉大な天才と呼ばれてもよいだろう。

 ーーー読みかえしてみて、どうやら僕は、かなり馬鹿らしいことを書いてしまつたような気がする。はじめから、与えられたこの題目がいけなかつたのである、それに、繰り返して言うようだが、原稿依頼の時期が悪かつたのである。

 僕は最近、新しい失恋をしてしまつたのである。僕が選んだ恋人は、十八歳の時のように、この世の中で一番美しい女ではなかつた。むしろその正反対であつた。その女が僕を蒐きつけた第一の理由は、僕の記憶の中に、運動会の走競争で彼女が飛び抜けて無残な走者であつた古い一つの光景が焼きつけられていたからであつた。その他には、何のとりえもなかつた。しかも、彼女は、僕が贋造紙幣であることを見抜いたのである。僕の狼狽は此処に始まる。一番すばらしいものに賭けて失敗したときには、まだ希望が残る。しかし一番みじめなものに賭けて、美事にそれに失敗したときには、もう希望は残らない、僕はその危険な賭をやり、それに失敗してしまつた。僕の狼狽ぶりは、おおうべくもない。僕が「俳句と天才」という、まさにこの最もみじめな賭の一つに、手を染めたくないと思つたのも無理はないであろう。

 結局、この種の原稿は、いまだに十八歳のままでいる俳人の手によつて書かれなければいけない。そして、十八歳の俳人は俳壇に充ちている。火渡周平、永田耕衣、等々。数えれば、きりもない程ある。これ等、俳壇のコメディヤンたちこそ、編集者の意にかなつた文章を書き得る人たちだと思う。
 コメディヤンという言葉で思い出したが、もしかすると、編集者の指示した天才という言葉は、或ひは、コメディヤンという意味を指していたのかもしれない。「俳句とコメディヤン」、これなら面白い題目だつた。僕は不覚にも、このコメディヤンの一人、火渡周平の「天才か狂人か」という自己讃美の言葉を忘れていたのである。

「俳句春秋」第二号、昭和24年1月 

 

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コメント

きみ嫁けり遠きひとつの訃に似たり

だったと記憶します。
高柳重信(たかやなぎじゅうしん)の失恋の句。
俳句は敗北の文学だと書いた人らしい。
いい句だなあ。実感がこもっています。
いろんな人がこれを選んでいました。

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