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2013年1月16日 (水)

久留米学、喧々諤々、(久しぶりの)ろいり節。談義。

コメント

あれ、ここも?20分ぐらい前にコメント入れたはずなのに入ってない??確認だけ押して送信ボタン押さなかったのか???
すみません、たいへんご無沙汰しているのに、いきなり慌てて失敗!!

べら安のおっちゃん、有名でした。店が最初に比べれば立地条件の悪いところに移転されたので、「店が傾いて」という風評が流れたのを、私もつい真に受けて、お孫さん、どうもごめんなさい。でもお宝ものを相続されたのですね。

私が35年以上前に家庭教師に行っていたのは、今のべら安=エメさんが発見されたところで、約1年前にこの店に行きました!!昔の店主がまだご健在で、ご夫婦と息子さんで店を切り盛りされているようでした。ただ残念だったのは、両親とも私のことを覚えてくれていなかったことです。私が教えていたのは上2人の女の子(といっても今はともに40代後期のはず)は、その時店にはいなかったし。

べら安のおっちゃんのお孫さんが書いている、櫛原の久留米ラーメンというのは、よくわからないですね。私の家があけぼの商店街の近くから櫛原1丁目に引っ越したのが40年前だけど、その頃もその前後も、名の知れたラーメン屋なんてなかったので、「久留米ラーメン」という店名ではなく、たまたまラーメン屋があったということではないでしょうか。

「久留米ラーメン」は今や知る人ぞ知るラーメン・ブランドで、カップ麺も出ているし、奈良駅前など全国何ヶ所かに「虎と龍」という、博多ラーメン&久留米ラーメンの店があります。また新横浜のラーメン博物館には大砲ラーメンが出店しています。

かささぎさんの言ってるのは、マルタイの棒ラーメンのことではないでしょうか??

やれやれ見つかった、「久留米の記憶」のほうに書き込まれてました。ややこし。

ついでに宣伝を1つ、私の同窓生で、今は東京に住んでるけど数年後には久留米に帰って町の再活性化に助力したいと思ってる友人が、筑後地域文化誌として「Agena Dogena」という雑誌を発行しました。帚木蓬生さんの文章や、久留米水の祭典の歴史などが掲載されています。六ツ門の金文堂などに置いてあるので、ぜひ1度御覧になってください。近々第2号を出す予定だそうです。

五木ってのは、正式にはなんという社名か、を調べました。ご苦労様です。でもさがしきらんじゃった。

「Agena Dogena」という雑誌

ご紹介ありがとうございます。さがしてみますね。

きのう、マルキョウの横の積文館にいったら、今月15日で店をたたむと出ていた。そこまで不景気だったのかと思ったら、そうじゃなくて、新道のとこに移転する計画だというはなしです。ことしはあたらしい道が走る予定なので。

樽美酒さんのプロフィールにも

>出身校:この前なくなった

とありましたね。
浮羽高校と浮羽東高校が統廃合されています。

うん。
さびしいだろうねえ。

句集って、古書店で買う以外の読み方ないのか。
図書館にはまずありません。
あの有名な金子兜太でさえ、八女の図書館全部、八女本館|上陽分館|黒木分館|立花分館|星野分館|矢部分館|

になかった。兜太先生のご本はたくさんおいてある!のに、句集はなぜないんだろう。俳人なのにねえ。
わからん。この世の七不思議じゃろう。

浮羽東では、1カ月だけ倫理・社会の時間講師をしたことがあります。始めたと思ったら、突然東京からお呼びがかかってしまいました。そうか、浮羽東高校ってもうないわけですね。

東京でも、廃校や改名する学校が多いです。

そうだったんですか。
まあいろんなことがぐるぐるとつながっていきますね。

呂伊利先生はもうすぐ定年なのですね。
そのあとの身の振り方、どげんさっしゃるとでしょね。

投稿: 鵲のはた | 2013年1月14日 (月) 07時29分

かささぎさん、メールありがとさん。おかげで久々にこのブログ開きました。

通称「べら安」のおっちゃん、有名人でした。おっちゃんのお孫さん、私設応援団の活動やり過ぎて店が傾いたなんて、噂話を真に受けて書き込みをし、すみませんでした。今よりずっと立地条件のいいところから店が移転したので、あらぬ噂が流れたんでしょうね。

4年近く前の書き込みでは、今のところにある、エメさんの見たべら安のこと書いてますが、1年ぐらい前にこのお店に入りました!なんと30年以上ぶり。
私が家庭教師をしていた時の店主が、まだご夫婦とも健在で店を切り盛りし、当時小学生だった男の子が成長してご両親と一緒に働いていました。ただ残念だったのは、ご両親とも私のことを覚えてなかったこと…2年も行って、一番上の子をちゃんと県立高校に受かるまでにしたんですけどね。私が教えた上2人の子はいずれも女の子だったから、その時店にいなくて残念でした。

ぼんさんのいう「六つ門の新世界入口」にあったのは、新世界なき今でもしぶとく残っている「播陽軒」でしょう。
櫛原にあった久留米ラーメンというのは知らないですね、私の家、今は櫛原だけど昔はあけぼの商店街の近くだったので。「久留米ラーメン」という店の名前なのか、それとも一般的な意味での久留米ラーメンなのか?櫛原に名の知れたラーメン屋はなかったと思うので、おそらく後者でしょう。
「久留米ラーメン」というのは、カップ麺になったり、奈良駅前など全国数ヶ所に「虎と龍」という久留米ラーメン&博多ラーメンの店があったりして、そこそこのブランド商品になってます。
かささぎさんが言ってるのはマルタイ棒ラーメンのこと??

ろ伊利先生、返信かたじけないです。

三木市に凝っていらっしゃるとのこと、mixiの経験がないのでわからないのですが、ふぇいすぶっくみたいなのでしょうか。お元気そうで何よりです。

呂伊利さんが書かれると話が俄然具体味を帯びます。ありがとうございました。
べら安、きのうタウンページで偶然みかけました。
小頭町になっておった。
えめさんが通りかかったというのはここですね。
もっともこがしらまちがどこかわからんばってん。

と。
呂伊利先生のご実家、あの古い病院の通りひとつ隔てたところ、あそこも櫛原ですか。へえ~。
じぶんの母の姉が昔すんでいたとこの地名が櫛原、でも、ずっと西鉄電車の路線寄りでした。緯度はほぼ同じだけど。

久留米ラーメン、五木の棒ラーメンにはありませんでした。きのう、マルキョウで確認してきた。
あったのは、熊本ラーメン、鹿児島ラーメン、博多ラーメンです。そもそもなぜ五木製麺にこだわりだしたかというと、最近新製品が増えているから。まい注目ブランドなわけ。熊本の会社だろうか。
おいしくて、やすければ、確実に売れる。
逆にいえばよ、ブランド名にあぐらかいていたら、だめよね。シャープさんとかね。オリンパスさんとかね。関係ないか。
いまやラーメンは韓国ブランドのもあって、競争が激しい。
で、五木のは、あんかけ太麺やきそば。というのがあって、これがいますきです。うちのどらたちは野菜嫌いなので助かります。
また、マルタイ棒ラーメンみたいなかんじの熊本ラーメンが88円。安い。二人前の麺がわけられてない簡易包装。
マルキョウはラーメンとお菓子類が安いので、そっち買う時は行く。

久留米ラーメンって呼称は、呂伊利先生がおっしゃるごとく、全国のなかでの久留米地域でのラーメンという意味じゃなかろうか。長浜ラーメンというのも、久留米のに入るだろうか、それとも博多、わからんなあ。
久留米ラーメンという名前のお店は、210号線ぞい、合川町をもっと東にいったとこらへんにあります。テーブル席が多い。一度入ったことがある、母たちと。ちなみに、お年寄りはラーメンをあまり好みませぬ。

昔、私の実家があるところと、第一病院の間の道は、幅が今の半分ぐらいしかありませんでした。バイパス作るために道路拡張したわけですね。

ちなみに実家は、もともと祖父の弟が店開いていたところで、その人が亡くなって数年後にうちが買い取り、あけぼのから引っ越してきたわけです。

小学生の頃の私にとって櫛原というのは、今の実家あたりから急に道が狭くなり、ひょっとしたら舗装もされてなかったかも?日吉校区の田舎という感じでした。特に5丁目あたりまでいくと、なにやら不気味な空き地はあるし、蓮根堀で行き止まりだったような。でも友達いたからよく遊びに行ったな。

西鉄の櫛原駅付近は、正確に言うと東櫛原町だと思います。

ラーメン大好きですよ。 中学頃親戚が始めたので毎日遊びに行ってよばれてました。 少年マガジンとサンデーも目的だったんだけど。
スープの仕込みも覚えてるからたぶん作れるかも。

えめ男は小学は荘島、中学は牟田山、 7クラスあったらしくお正月の同窓会に参加してました。
今日は高校の同窓会へ行ってます。  なので、のんびり・・

くるめ談義となれば語らざるを得まい。
櫛原はとても思い出深いところです。
福岡銀行東町支店の横から入って行ったと思います。
櫛原はいつも夜の風景、暗い駅舎、駅舎といっても誰もいない木の改札口だけだったような記憶。
通りからちょこっと入った路地に古い染物やさんがあり、床の上にはいつも反物が山積みされていた。
そこのお嬢さんが可愛くてお人形さんのような顔して日本舞踊をやっていて、私のお師匠さんになってもらった。
そのお師匠さんと知り合ったのはなんとダンスホール。それも櫛原。
その櫛原にあったダンスホールの情報を求めているんだけど不明です。経営者は山田先生という人だったんだけど。

べら安さんの場所、だいたいわかりました。いつも遊びに行っていたまさこちゃんちの前でした。たぶん貸し本屋をしてあったところではないかと思います。
昭和41年ごろ引っ越したので、その後にできたのかもしれません。

櫛原の久留米ラーメン>>もしかしたら、護国神社のところの大砲ラーメンでは?あの辺は櫛原とは言わないのかな。

ダンスホールのことはまったくわかりません。

同じ櫛原でも、私のイメージする、第一病院のあたりから今のバイパスに沿ったあたりと、櫛原駅のあるあたりでは、だいぶん違いがありますね。第一病院あたりはそこそこ店舗が並んでいたし。

久留米の老舗のダンスホールといえばダイナしか知らないけど、これは櫛原からちょっと離れてますよね。通り町と明治通りが交わるあたり?

大砲ラーメンは、明治通り沿いの屋台から始まったらしく、現在の店舗はそんなに古くないし、五穀神社(五穀豊穣を祈る神社)の近くだから櫛原でもないですね。

すみません。間違えていました。
伯母が住んでいたのは、櫛原ではなくて、南薫町でした。櫛原町の東隣です。
大砲ラーメン本店は通外町とあります。マルナガアイスの近くですよね。以前ろいり先生が、護国神社にある胸像に、不適切ではないかと思えるのがひとつある、と書かれていた、その像はだれだったかな。たしかせいじかでしたね。みなあまりしらないような。・・・気になったから、みつけてきました。

そうかそうか、通外町(とうりほかまち)でしたね。

従妹が南薫小学校前に住んでいました。3号線が整備されてから、場所がどこだったのか全然わからなくなりました。

楢橋渡です。汚職事件で有罪判決を受けてます。
人それぞれ毀誉褒貶はあるだろうし、同時期に同選挙区で同じ自民党のライバルだった石井光次郎が立派な政治家だったかはさておいて、石井ではなく楢橋の胸像があるというところに、変な意図を感じますね。

それから護国神社ではなく五穀神社です。私も最初は、戦後意図的に改名したのかと思ったけど、戦前から穀物の神様を祭る神社だったのです。

ろいりさん

確かにそうでした。五穀神社。バス停に覚えあり。

ぼんちゃん。
通外町(とうりほかまち)?
ずっと、とおりそとまち、と読んでいました。

五穀神社は護国神社ではない。んですね。
どっちでもいいのかと思っていました。
呂伊利さんはやはりどこか教育者的権威が濃厚にあって、それはこのようなものの見方ひとつとってもそうで、胸像の件、なるほどねえと納得しました。石井寅次郎はないの?とらじろうじゃなかった。石井好子パパ。光次郎さんでした。評判のいい政治家だったみたいで、噂を幾人かから聞きました。

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コメント

過去に仕事で五穀神社の前を行ったり来たりしてたのに気になりながら一度もお参りしたことがありませんでした。今度ちゃんとお参りします。
「ソシアルダンスアカデミーダイナ」さんはHPがあったのでのぞいてみました。場所はろいりさんがおっしゃってたあたり。
さくらさんの記憶のダンスホールの場所は昔「クインビー」というダンスホールがあった場所かも。高校生の頃は生ロックバンドで踊るライブハウスでした。ミラーボールがあったのでもっと前はソシアルダンス場だったのかもしれませんが・・
知人が40年ほど前ソシアルダンスに励んでいて、久留米のダンス場に通い詰めてました(男性)
場所と山田先生という方の事をいつか聞いてみますね(いつかですみませんが)

えめさん、おはようございます。
コメントありがとうございました。

金爆人気を見ていると、みんな、踊りたいのだな。
と感じます。誰でも歌って踊れる感じがしますよね、彼らを見ていると。独特です。
ピンクレディーの頃、近所のむすめっこたちは、あのフリして歌って踊っていたものだけど、。男のってなかったよねえ。ヒップホップはむずかしいし。
じゃいってきます。

エメさん、ありがとうございます。
そうです、狭くて暗くて古くて・・・という場所でしたがミラーボールが1個燦然と輝いていました。

かささぎさん
身体を動かす、声を出す、リズムに乗る・・・というのは人間誰しも共通に楽しいことだと思います。
むっつりおじさんでもやってみると自然と笑みがこぼれるはず、身体の隅々まで動かせば、頭の働きや発声は自然とついてくる。
これはジャニーズ研究家の私が得たこと。

そうですね、1970年前後の「クインビー」は、今で言うクラブ、当時だとゴーゴー・クラブと言ったのかな?ディスコという言葉はまだなかったと思います。

ダンスはうまく踊れない(これ、井上陽水の曲名)けど、2回ほど行ったことあります。西南に現役で入った友人がバンドで出ていた、ということは私が浪人していた1971年のことか。

場所ははっきり覚えてないな~でもダイナよりは櫛原、というより東櫛原に近かったような気が…

石井光次郎は衆議院の議長にもなってるし、自民党総裁選にも出てるし、久留米市名誉市民にもなってるから、どうみても政治家としては格が上だと思うのだけれど。それが解せないわけですたい。

石井の1回目の総裁選出馬の時には、岸信介が1位だったけど、2位の石橋湛山と3位の石井が手を結んで、決選投票で石橋湛山が総裁→首相になったというエピソードがあります。結局その石橋は急病のため2ヶ月で退陣し、A級戦犯容疑者だった岸が首相になり60年安保改定を迎えたわけですが。

戦前は日本の膨張政策を批判するジャーナリストだった、リベラル派の石橋が首相を続投していたら、また違った日本社会になっていたかもしれませんね。

呂伊利先生。
石井光次郎に世話になった人がここ↓にいます。
それと、あれを言ってたのは誰だったかなあ。
石井光次郎は普通の政治家とはぜんぜんレベルが違っていた、と。以前つとめていた警備会社の女ボスだったかな、それともロビイストの顧問だったか。

きょう、久留米の石橋ぶんかせんたーで雅楽を鑑賞してきました。らんさんのご主人が仕事になって行けず、そのぶんの券をいただきました。
東儀秀樹、十年くらい前、本も買って読んだくらいのファンでして、嬉しかったです。
とってもスタイルのいい人です。
すぐ傍をナースシューズみたいな先のとんがった白いへんな靴に皇族みたいな平安時代の格好で、篳篥を吹きながら入場してみえました。その音色が、まるで赤ん坊の声みたい、細胞のあらゆるところ、あらゆる隙間に入り込み、起きよ、起きよと揺すぶられるような感覚に襲われました。

追伸。
で、わたしは途中ねむっていたんだって。笑。
いや、たいくつだったからではありませぬ。とってもいい音色だったし、元気になれる音楽だった。だからです。笑

らんさんが、呂伊利さんを覚えているかと聞いたら、
うん、目がギロりとした、まるで服部先生みたいな、余分なことはなにも言われない、余分な肉もついてない、人だったよね。との返事でした。一度しかあってないのに、的確な描写ではござらぬか。
はっとり先生ていうのは、高校時代の数学の先生で、ホネの服部というあだ名でした。彫りの深い顔で痩せておられた。そういえばそっくりです。くくく。

東儀秀樹、1度聴いてみたいですね。
ところで、余分な肉は、ついていないようでついているんですよ。脇腹の肉、これがいちばん取れにくい!

ホール、満員だった。
一人5500円、いくらの上がりだったろうか?
なんて、ちっともみやびじやない、現金なことを話しあいました。

ちょいとおねいさん。
俳句のほうはどうなっとるね。
もう忘れよるばい。半年かかるのはもう嫌だ。

クインビーは歩道橋を渡り降りたところを北に入った所右側にあり、1階入り口で券を買い細い外階段を上がるとまた入り口があり入り口にもぎりの人がいて入場。 一番奥に低目のバンドステージがあり、この生演奏でゴーゴーを踊る若者でいっぱい。 高校生は入場禁止なんだけどたぶん高校生が半分だったかも。
私のお気に入りバンドはバッカス(名・記憶が正しければ) このバンドはツェッペリンのコピーが本物そっくりにうまく、「移民の歌」の時は聞き惚れていました。 
でもゴーゴークラブ時代って2、3年で終わったのでしょうね。

エメさん、ピンポン、ピンポンです。
私が知っているのは昭和37~40年代、それ以降ゴーゴークラブになったことは大いに予想できます。
中年のおじさん先生(当時はおじさんに見えたけど40歳くらい)がふたりと、あとは久留米高専の生徒が数人アルバイトで講師をしていました。
その講師たちがハンサムでこれ目当てにみんな行ってたふしがあります。

す、すごか。
えめさん、どんな女子高生だったんや。
いまでいうヤンキーかい。
記憶が当時のまま。そのままを再現できる。
あたしは前回のエメさんのコメントに出てくる、ミラーボール一個が燦然と輝いていたってのにいたく心動かされて、だれかこれでいっちょう歌をかかんかな。とおもったくらいです。題、ミラーボール。

さくらさん、時期は ずれるけど、同じ場所で踊ってたんですね! すご~い偶然で、うれしい~~

かささん、私は普通の高校生でしたよ。 下宿人の食事まかないとかは普通じゃないけど・笑 
ゴーゴーは流行なので、数年で時代がどんどん変化していってたのよね。

ミラーボールの経験は貴重な思い出です。 激しい曲になると回りながらストロボみたいにフラッシュが続くのよ。 で、バンドも客もテンションがup その後メリージェーンに変わるとカップルだけが中央で照らし出されて・・私は壁に張り付くわけ・・@@ 

うわうわうわ!メリージェーンだって。つのだひろ。
名曲。壁に張りつく、、、、もダンスの種類は違ってもいっしょ。

クインビーに行くって、今のヤンキーレベルからすると、たいしたことないですよ。どうやら私の2つ上の姉も高校時代から行ってたみたいです。
「メリー・ジェーン」、今日の朝日新聞別刷「be」の、「うたの旅人」に載ってました。私はこの歌が最初にシングルで出た1971年に、つのだひろと成毛滋のバンドを生で聴いてます。なんちゅう浪人生活してたんや!
おかげで「メリー・ジェーン」は、ディスコで知られるようになる前から、私の愛唱歌の1つになり、今でもたまにカラオケで歌います
ちなみに成毛滋という、当時エレキギター弾かせればNo.1のギタリストは石橋正二郎の孫、鳩山由紀夫・邦夫兄弟の従兄弟に当たるという人です。

>今日の朝日新聞別刷「be」の、「うたの旅人」

えっ!よりによって今日の新聞ですか?
そんなこと全く知らず、ここでメリージェーンが出てくるなんてなんたる偶然でしょ。

朝日新聞の特集「うたの旅人」はよく知っています。
「メリージェーン」歌ったつのだひろさんは田原俊彦の「騎士道」を作曲し大ヒット、田原と聖子ができているんじゃないかと(おっと下品な)大騒ぎされていたあの頃の二人だけしか知らないCM撮影時の裏話が、30年たった昨年詳しく取材され記事になったのが2011.11.26の「be」「うたの旅人」なんです。
さて、これからコンビニに雑誌フライデー買いに行きますか。
田原俊彦と芸能界デビューしている娘のみかちゃんとのツーショットがフライデーされてるらしい。

かささぎさん、すみませんねぇ、ここで思い切り吐かせてもらって。


なんのなんの。勉強になります。
きょうは、ゆうつべで野村義男ギターごまかし講座(みたいな題名だった)を見ていたら、じゃんじゃんじゃん。じゃじゃっじゃじゃん。っていうメロディーが飛び出てきて、あ、なつかし!ディープパープルの水の上の煙だ。
じつは↑曲名今日しりました。曲のリフは誰でも知っている、でも題名は知らなかった。すもうくおんざうをおら。移民の歌とおなじころのでしょ。おなじグループかと思った。蛇メタ関連は全部同じに思える。でもさ。いま乙四郎さんが追っかけしている金爆でも、遠い影響を受けているよね。
やっぱ、ろいりさんはなんといいますか、えめさんもですが、さくらさんもですが、おたくだとおもいます。はい。
石橋正二郎がこんなとこででるなんて。
木曜夜のコンサートは石橋文化ホールだったんですが、適度に狭くて、音響もよかった。東儀さんが話すときのマイクの調子はイマイチだったけど。

それでと。きづいたこと。あらたなる発見。
ろいりさん、えめさん、古賀音彦さんがみな、同い年なの。同い年の同じ二月生まれみたい。三人揃ってゴレンジャー。

すごいびっくりした。

ろいりさんのコメント成毛さんという名前に反応して
日本マイクロソフト社の前社長が成毛さんでしたね。

と書き、でも話題がとっちらかることを懸念して削除して送信しました。
その直後コンビに行きました。
そして目当てのフライデーを手にとって、ぱらっとめくったところに、その日本マイクロソフト前社長成毛さんが車のすきな著名人の一人として紹介されていました。ぎょえー!ですよ。

メリージェーン、名曲ですよね。
つのだひろさん担当のnhk・fm月曜日毎週聞いてます。 昭和の歌謡曲がたくさんかかり、その合間トークに当時のアイドル裏話とか聞けて楽しいです。
フライデー、私も気になってコンビニ行ったけど売切れてました。 本屋にならあるかな・・

クインビー>>18歳以下は入場禁止と書かれていたけど中で踊っていたのはほとんど高校生でした。 たまにしか行かなかったけどライブと踊るのがすべての楽しみでした。 19歳になるころ出かけたらやっぱり高校生ばっかりで「ああ・・もう卒業しよう・・」と。17、18だったから楽しかったのかもね。この時代の1才2才の感覚って敏感に変化していきますね。

さくらさん、昨夕↑のダンス知人にバッタリ会いましたよ。 空き地に車を止めたら前の畑で麦踏みの最中で、ラッキーに感謝☆
でもね、大きなダンスパーティの時だけ久留米のダンス場に行ってたらしくて、場所も分からないとの事でした。 普段は八女でサークルを作って公民館で先生を呼んで練習していたとか。 先生の名前の記憶もないからごめんね と。
でもダンスの話は久しぶりだったらしく顔が輝いてうれしそうでした。

ろいりさん、つのださんと成毛さんを「生」でですか! それはすばらしい思い出ですね! よかったですね~~!!
成毛さん、すでに亡くなられていたのですね。知りませんでした。 たくさんのミュージシャンに影響を与えられた方でしたね。 ご冥福をお祈り致します。

二つしか違わないけど、えめさんと呂伊利さんは青春をエンジョイしてましたね。キラキラ光ってて、眩しいばかりです。

高校1年の時は、3年生がすごく大人に見えていました。自由人といったらいいでしょうか、しっかりとした考えを持って行動しているし、政治経済にも強く、デモに参加する・・・などということはとても立派な事のように思えていました。
また、授業をサボるということもすごいなと思っていました。自分が3年生になったら、ここまで崩しても、先生から叱られないというのが解ってきて、制服も少し違うのを着て行ったり、授業をサボったりしました。
イチゴ白書をもう一度が流行ったのはそのころですか?

うん、えめさんとろいりさんとどこか似ていますね。
えめさんの最初にであったころ、みせてくれたノート、高校時代の。あれはすごかったものねえ。


きょうの詩壇で、ファンの溝田愛子さんの詩が読めた。
やっぱり彼女はすごいなあ。よんで感動しますからね。
それ引用したいが時間がない・・・
ぼん、ごめんね。連句。ちょとまって。
いってきます。

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