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2013年1月 9日 (水)

久留米にべら安があった頃~四年がけの思い出のパッチワーク

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光華楼のボーリングじょうは、私もいったことがあります。上の姉が高校生で、男子から誘われたけど、あんまり行きたくない。あんたもついておいで・・という感じでつき合わされました。小学校の頃です。広又材木店も、覚えています。一番街が寂れていくのとは裏腹に、広又は発展し、ホテルや高級焼肉店などできております。このホテルは「じゃらんを見た。」といって予約すると割引が効くという事です。青森からのお客さまはここをいつも利用してます。長崎の妹たちも。西鉄から近いし、さんきゅっぱでとまれるということです。いえ、ホテルの回し者ではありません。

 「久留米にロイリーがあった頃」の続きです。またまたぼんさん、小頭町3丁目に「べら安」という食堂があるのは知らないでしょうか。ぼんさんが子どもの頃は別のところにあったかも知れないけど、ここの先代か先々代は西鉄ライオンズの私設応援団長で、それで経営が傾いて今の所に移ったという噂も聞きました。私は24~25歳の頃、ここの子どもの家庭教師をやってたことがあります~その子たちももう40代なんだろうな、今度久留米に帰ったら行ってみようかな。
 「すいこうえん」は「翠香苑」で、ホテル・宴会場・結婚式場など?うちの弟も、そして藤井フミヤもここで結婚式&披露宴をやってます。その頃テレビでフミヤが言ってたのと弟の場合と同じ感想~披露宴のビデオがまるで翠香苑のコマーシャル・ビデオみたいだった!
 光華楼は私の中華料理屋の原点?考えてみれば経営者翁さんも、中華料理、映画館(ロイリー・文化会堂など)、ボーリング場と多角経営してたんですね。そしてお嬢さん(と言ってももう50代後半)は久留米の「フォークソング界」で活躍していました。1970年前後の久留米フォークソング事情についてはまたいずれ。広又の今昔についても言いたいこといろいろあるけど、また今度。

はいな。

おや、夕べここに書いた記憶があるのに残ってない。送信せずに消してしまったようだ。
自分ひとりの記憶ではあやふやが多くなってきている。兄(s 20年生)姉(S23年、25年生)たちに聞いて詳しい事をリポートしてきます。

うわ。ぼん。そんなにぎょうさん兄姉がいたの。そりゃ、すごい。

く、く、く、妹と弟も一人ずついる。6人きょうだい。
私には、兄、姉、妹、弟全てそろっている。だから円いのかもしれない。

 うちの姉もS25年生まれなんで、ひょっとしたら諏訪中で同級生だったかも~でもそん頃は1学年14クラスだったらしいからその確率は…計算しきらん。私にはあとS30年生まれの弟がいます。

ろいりーさん。一学年14クラス。団塊の世代は何年生まれまでを指すのでしょうか。
私たちの小中は、3クラスでした。
一クラス、33~35人くらい。

でも、ぼん。うちの母は十人近いきょうだいの真ん中あたりですが、丸くありません。きょうだいの真ん中というのは、やさしいか、根性がうんとわるいかの両極端みたいです。

「団塊世代」とは確か堺屋太一が名付けた言葉で、ウィキペディアによると狭義では1947年から49年までの3年間に、最も広い定義としては、45年から53年までに生まれた人々だそうです。私の感覚ではうちの姉(1950年生)までが下限かな?諏訪中のもう一つ上は15クラス、私の時は12クラスでした。それが中学としては当たり前だのクラッカーと思っていた。兄弟の真ん中はやさしいか根性が悪いかの両極端、当事者の私に言わせれば、その両方を併せ持っているのでは。

ろいりさん。
宗ですね、其の通りです。パチパチパチ。
どうも書かれていることから推察しますと、ろいりさんは二歳年上でいらして、ということは広義の団塊世代に入る。では又お聞きしますよ。
その一学年14クラスや12クラスが、一気にがたっと半分くらいに減ったとき、あまった教室はどうなったでしょうね?あまった先生たちはどうなさったでしょうね?きになります。

23年生まれの姉の時は、16クラスだったように思います。29年生まれの私たちは11クラスでした。
100番以内にはいっておれば頭のいい子でした。1クラス45人ぐらいかな。広川に転校して、成績が50番ぐらい上がったけど、広川は7クラス。昔は成績、廊下に張り出してあったんだよね。出来がいいときはなんとも思わなかったけど、下がったときは嫌だったね。
プチ自慢。転校していった時、クラスの男の子の半分から年賀状が来た。一生の中で、一番持てたひとときでした。

あれ?今朝ここに投稿したと思ったけど載っとらん。改めて…諏訪中は7年間で、16クラスから11クラスまで減ったということか。でもその後はそんなに急減してないと思います。100番以内云々というのはその通りで、私の時が県立M高に100人以上合格した最後の年だった。K大学F高校だって男子だけなのに、補欠も含めて40人以上受かったし~当時は両方受かったらM高に行く人のほうが多かったんじゃなかろか。
かささぎさんの気になること~教室は急増期に特別教室潰したり改築・増築したらしく、体育館・講堂の類さえなくて、卒業式・入学式もよその会場を借りていた。減少期にはそれが元に戻ったということではないでしょうか?教員は、その頃高校進学者が急増しており、こっちのほうが待遇が良いし高校に変わった人が多かったいうのが私の推測です。ちなみに私は団塊の世代という自覚はなく、それを仰ぎ見たり真似したり、冷ややかに見たり批判したり、そんなポスト団塊世代と思ってます。

ロイリさん。ぼんとおなじことをおっしゃいましたね。かいたのに載っていない。って。
消しゴムウイルスがいるのかもしれません。
炉入り呂伊利さん。一学年17クラスで一クラス四十五人。では計算したら、えーと・・七百人近い、一学年が!!うじゃうじゃーっといるんですね。活気がありすぎる。大運動会は大大大うんどうかい。先生はどなりまくり。トイレには行列。給食はぱんと牛乳だけ。とか。そりゃないですか。
ろいりさんも、三無主義世代でしたか。でも学生運動にかろうじて間に合った世代でしょう?

諏訪中は弁当でした。兄の弁当は毎日四角いてんぷら2枚だったと思います。3年間ほとんど毎日。漬物や梅干ははいっていたかもしれませんが。それでも毎日弁当が持っていけるのは、いいほうじゃなかったかと思います。高校にいけない人もたくさんいたし。父から一度だけ『あそこに遊びに行ってはならん」といわれたことあり。大人になって意味が解りました。
当時、花畑駅からゴム3社まで、小頭町~ロータリーを経由して歩いていく人が多かった。その時間は水天宮さんのお祭の時みたいで、子供心にうれしくて、ながめていました。

弁当のところと給食のところとあったなんて不公平ね。今も私立は自腹でお昼ごはんをたべますが、公立は給食、いいよね。
ゴム三社って何の神社ですか。
ぼん。
求人案内という若者向け情報誌に求人したところ、毎週四五人の若者が面接に来ました。ところが、通過してゆくだけ。入っても長続きしません。
いつぞや、ホームレスの若い子を拾ってきて、教育してうまくいくやに思えた矢先、一ヵ月後、やっぱり行方不明になりました。投資してもだめ。根性がないから。いまごろどうしているかしら。この寒いのに。

ゴム三社ってブリジストン・日本ゴム・月星ゴムじゃろもん。

ちょいと、ゴム3社を知らんとはナンタルチア。朝日靴(日本ゴム)、月星ゴム、ブリジストンのことです。
覚えといてね。

私は昔、西鉄久留米駅一番街にあった「べら安」の孫です。
「べら安」はおじいちゃんの一代で築いた食堂です。
うどんもお蕎麦も地下で手打ち、カレーもカレー粉から作る本格的なものでした。
おじいちゃんは西鉄ライオンズ私設応援団長、久留米商業の応援団もボランティアでしていたらしいのですが、それで経営が傾いたわけではなく、後継ぎがいなくて「べら安」で働いていた人にのれん分けし、その方が今の場所で食堂をされているだと思います。
西鉄応援団長時代の久留米絣のハッピと3連覇した時のペナントを形見分けで大事に持っています。
昨年、たまたま久留米に20年ぶりに行きましたが、新幹線が通り、ずいぶん変わっていました。
櫛原町にあった昔懐かしい久留米ラーメンが恋しいです。

べら安のお孫さんですか。
ってったって、私はべら安を知らないので、ほんとうにごめんなさい。すみませぬ。
カレー粉まで手作りしてた、というのは、すごいですね。うどんやそばを手打ちにするってのは聞きますが。
二十年ぶりの久留米。新幹線が通り変わっていた。。。。そうですね、一番街二番街などの商店街が廃れ、ゆめタウンに中心が移ってしまいましたね。
櫛原に久留米ラーメンがあったんですか。
久留米ラーメンという銘柄、いま、かささぎの連想で出てくるのは、五木の棒ラーメンですが。すみませぬすみませぬ。
ぼんちゃん、何かコメントを。どなたか元久留米人の方よろしくお願いします。

べら安>>小頭町ということでしたが、3丁目には有りませんでした。4丁目にもなかったような気がしますが。ろいりさんがご存知ということは広又にあったのでしょうか。

久留米を離れて早46年たっています。記憶はあやふやです。
久留米ラーメンも屋台の経験は無く、花畑大龍か、六つ門の新世界入り口付近にあったところぐらいしか解りません。櫛原も、当時の交通手段は自転車しかなく、行ったことがないのでほとんど記憶無し。お役に立てなくてごめんなさい。
ろいりさんの登場をお待ちしましょう。

今日親和BKの帰り、金丸小信号付近でふいと左を見たら「べら安」さんの看板が目に入りました。
偶然のチャンスに感謝しながら広又からぐるっと回ってお店の前を通過してきました。 丼物とかメニューにあっておいしい雰囲気。いつか入ってみますね^^☆

ぼんさん、えめさん、コメントありがとうございました。おかげでつながりました。よかったよかった。
あと、ここに神津呂伊利先生が一文投げ入れてくだされば、めでたしめでたしなんですが。

ここまとめたら、寝ます。

そういえば、そらんさん。

そらんさんのブログで大変感動するエッセイを拝見しました。

ここです。思い出のパッチワークhttp://musinandanikki.at.webry.info/201301/article_7.html

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コメント

あれ、ここも?20分ぐらい前にコメント入れたはずなのに入ってない??確認だけ押して送信ボタン押さなかったのか???
すみません、たいへんご無沙汰しているのに、いきなり慌てて失敗!!

べら安のおっちゃん、有名でした。店が最初に比べれば立地条件の悪いところに移転されたので、「店が傾いて」という風評が流れたのを、私もつい真に受けて、お孫さん、どうもごめんなさい。でもお宝ものを相続されたのですね。

私が35年以上前に家庭教師に行っていたのは、今のべら安=エメさんが発見されたところで、約1年前にこの店に行きました!!昔の店主がまだご健在で、ご夫婦と息子さんで店を切り盛りされているようでした。ただ残念だったのは、両親とも私のことを覚えてくれていなかったことです。私が教えていたのは上2人の女の子(といっても今はともに40代後期のはず)は、その時店にはいなかったし。

べら安のおっちゃんのお孫さんが書いている、櫛原の久留米ラーメンというのは、よくわからないですね。私の家があけぼの商店街の近くから櫛原1丁目に引っ越したのが40年前だけど、その頃もその前後も、名の知れたラーメン屋なんてなかったので、「久留米ラーメン」という店名ではなく、たまたまラーメン屋があったということではないでしょうか。

「久留米ラーメン」は今や知る人ぞ知るラーメン・ブランドで、カップ麺も出ているし、奈良駅前など全国何ヶ所かに「虎と龍」という、博多ラーメン&久留米ラーメンの店があります。また新横浜のラーメン博物館には大砲ラーメンが出店しています。

かささぎさんの言ってるのは、マルタイの棒ラーメンのことではないでしょうか??

やれやれ見つかった、「久留米の記憶」のほうに書き込まれてました。ややこし。

ついでに宣伝を1つ、私の同窓生で、今は東京に住んでるけど数年後には久留米に帰って町の再活性化に助力したいと思ってる友人が、筑後地域文化誌として「Agena Dogena」という雑誌を発行しました。帚木蓬生さんの文章や、久留米水の祭典の歴史などが掲載されています。六ツ門の金文堂などに置いてあるので、ぜひ1度御覧になってください。近々第2号を出す予定だそうです。

五木ってのは、正式にはなんという社名か、を調べました。ご苦労様です。でもさがしきらんじゃった。

「Agena Dogena」という雑誌

ご紹介ありがとうございます。さがしてみますね。

きのう、マルキョウの横の積文館にいったら、今月15日で店をたたむと出ていた。そこまで不景気だったのかと思ったら、そうじゃなくて、新道のとこに移転する計画だというはなしです。ことしはあたらしい道が走る予定なので。

樽美酒さんのプロフィールにも

>出身校:この前なくなった

とありましたね。
浮羽高校と浮羽東高校が統廃合されています。

うん。
さびしいだろうねえ。

句集って、古書店で買う以外の読み方ないのか。
図書館にはまずありません。
あの有名な金子兜太でさえ、八女の図書館全部、八女本館|上陽分館|黒木分館|立花分館|星野分館|矢部分館|

になかった。兜太先生のご本はたくさんおいてある!のに、句集がなぜないんだろう。俳人なのにねえ。
わからん。この世の七不思議じゃろう。

浮羽東では、1カ月だけ倫理・社会の時間講師をしたことがあります。始めたと思ったら、突然東京からお呼びがかかってしまいました。そうか、浮羽東高校ってもうないわけですね。

東京でも、廃校や改名する学校が多いです。

そうだったんですか。
まあいろんなことがぐるぐるとつながっていきますね。


呂伊利先生はもうすぐ定年なのですね。
そのあとの身の振り方、どげんさっしゃるとでしょね。

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