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2012年10月11日 (木)

眞鍋呉夫  「おそろしい人」  その1

おそろしい人

   眞鍋呉夫

 昭和十四年十月、われわれは同人誌「こをろ」を福岡から刊行した。その年の春、九州帝大の農学部に入学した矢山哲治を中心に、阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎などがおもなメンバーであったが、同人の平均年齢は二十歳、後年、「大東亜戦争」に従軍してもっとも多くの戦死者を出した世代でもあった。

 矢山はその前年、まだ旧姓福高在学中に詩集『くんしやう』を刊行し、檀一雄、立原道造など、一部活眼の先達からその大成を嘱望されていた。特に立原からは、彼が新しく創刊を夢見ていた詩誌「午前」への参加を慫慂され、長崎への旅の途中、福岡に立ち寄った立原を柳川に案内したりしたが、翌年の三月ーつまり「こをろ」創刊のほぼ半年前には、長崎での喀血、帰京、入院後わずか三ヶ月余の他界という、急坂をころげおちるような立原の死に際会しなければならなかった。
 矢山はその霹靂のような死に動顛しながらも、約三千字余にも及ぶ立原の最後の書簡を、「詩人の手紙」として「こをろ」の創刊号の巻頭に掲載している。それが立原の遺志を継ごうという矢山の当為の一つであったことは明らかであるが、それでは「午前」の創刊に象徴される立原の新しい志向の契機はいったいなんだったのか。
 それは「保田與重郎への急激な傾倒」であり、「そのための右傾化」であるというのが、これまでの文学史家の大半を支配してきた通念であった。なるほど、立原が「堀辰雄を超克しなければならぬ」と言ったのは事実であったろう。戦争祝賀の提灯行列に参加したのも事実であったかもしれぬが、立原の矢山宛の書簡の中には、より高次な次のような記述がある。

 「僕らの歴史の中で仮名の生まれた日のリリシズムの開花をおもひださなくてはならない」(昭和十三年七月十九日付)
 「だが、君はやはり『愛の詩集』(※室生犀星の、眞鍋註)を何よりも愛してくれたら!愛するといふよりも更に、人間の生きることの根源で、詩が在る在り方を奪ひとつてくれたら(ーこれを逆にいへばいかに君の心が奪はれるかだ)!」(昭和十三年九月六日付)

 立原の晩年の言行を教条的なイデオロギーで裁断することを以て足れりとするのではなく、今こそ初心にかえって「人間の生きることの根源」に新しい詩の源泉をみいだそうと真率に呼びかけているこれらの記述を虚心に読めば、むしろ当時の立原の内部には「所謂立原風の世界を超えて、新しい人間が誕生」(中村眞一郎「優しい歌」)しつつあり、たとえば鶴見俊輔が言う「立原のその熱烈な打込みぶり」(保田への、眞鍋註)は、その実、立原の内部に誕生しつつあった「新しい人間」からの「過去のいかなる文壇的ギルド系統にも所属しないところの、全く新しい別種の文学精神」(萩原朔太郎「詩人の文学」)としての保田與重郎に対する一種切迫したやむにやまれぬ呼応であったように、私には思われる。
 いずれにせよ、矢山が自分はもう読んだからと言って、芝書店版の『日本の橋』を私にくれたのは、その年の末のことであったろう。おかげで、私ははじめて保田與重郎の最初の著書を手にすることができただけではない。たちまち、私がこれまでに出会ったことのない異様な文体が蛇行し、屈曲し、旋回しつつ、われわれの深部に眠っている未生以前の初々しい記憶を喚び覚ましていく。すると、その魂の隠国(こもりく)とでもいうべき漆黒の闇の中から、「石がちなるなかより湧きかへりゆく」(『蜻蛉あきつ日記』)と古人が書き留めたような水の音が漱々と高まってくる。いつのまにか喉もとまで近代の毒を嚥んで衰弱していた未熟な心身が、思いがけなくそういう清らかなみずみずしさに共振しはじめているのを自覚してにわかに蘇るようなめざましい思いをしたことを、私は今も忘れることができない。

以来、私はさながら眷恋の相手を追い求めてでもいるように『英雄と詩人』を読み、『ヱルテルは何故死んだか』を読んだ。『近代の終焉』を読み、『詩人の生理』を読み、格別『和泉式部私抄』を愛読した。   (つづく)

保田與重郎文庫11「芭蕉」解説文、2001年10月8日第一刷、新学社

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コメント

眞鍋呉夫

検索6位

私がこの文章を探し出してきた理由は、真実が知りたかったからです。
あの後鳥羽院の霜も置きあへず一首と、眞鍋呉夫の白靴はきあへず一句の響き合いは偶然かどうかをどうしても知りたかった。まったく同じ抽象世界に思えた。
で、どうだったのか。
ーこれだけではわかりませんでした。
眞鍋呉夫はたくさん保田の本を読んでいるということだけはわかった。

前田先生を怒らせてしまった理由の一つであると思われる、九州俳句誌転載の前田圭衛子師さばき追悼歌仙の脇句、雲ひとひらを残し逝く夏ですが、これが雪ひとひらをと誤植されていたことについて。
あれからだいぶかんがえてみましたが、わたしは雪のほうが眞鍋呉夫らしくていいように思う。
あれをみたとき、ハッとしつつも、まるで雪のことづてのように、これは恋の歌仙をまいたときの高木一恵の巳之吉さまへ雪のことづてという短句なんですが、雪女の世界がぼうっとまなうらにうかんだ。
雪女が好きだったクレオは、その若き日、文芸誌をおこした矢山哲治に大きな影響をうけていて、彼は雪女が好きだったという。
ここは譲れないというおもいがあって、それを失礼は承知なながらも、まっすぐ書いた、書いてしまったら、掲載させてはくださいませんでした。

おそろしい人、。
それは、だれ。

よむたいみんぐというのはある。
やすだよじゅうろう、よみづらくてよみづらくて、かってはいたけど、ちらみだけでなかなか、はいれなかった。
それが昨夜、はじめてなかにはいれた。
ほんきだして、ばしょう、よんでいる。
ごとばいんへちかづかんと、との一心。

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