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2012年8月15日 (水)

眞鍋呉夫先生からの手紙、そしてかささぎのきわどい手紙

手紙を整理していたら、面白いものを発見した。
平成十二年十二月三十一日付、眞鍋呉夫先生から。
中には私が先生にその年の六月ころにお送りしていた古句の読みが入っています。
呉夫先生は付箋にこう書かれていた。

冠省
今年も最後の日になりました
同封の御稿コピー面白いと思います
もしまだ発表していられなければ タイトルをつけ 何かに発表されたら如何ですか
夏の終りに御書簡を頂いてからいつのまにか半年もたってしまいましたが この件ずっと気になっていたので 取り急ぎ一筆しました

ではお大切に好いお年をお迎え下さい

平成庚辰師走○(一文字よめない)

   眞鍋呉夫

姫野恭子様

以下が、同封の私の原稿です。

平成十二年六月二十三日
陰暦五月二十二日 金曜
みずのえ ね

前略、初めてお便りいたします。
わたしは、連句と俳句をやっている者ですが、最近あっと驚くような芭蕉句の読みをする文章に出合い、そしてそれが直感的に私には正しい読みだと思えましたので、もしも、そうなら、なにか、確証のようなモノが欲しい。と探しているところでございます。
まず、その問題の句をここに書きます。

行春や鳥啼魚の目は泪    おくの細道 ほとんど冒頭の句
  句のできた年は不明ながら、おそらく元禄四年から六年

この句の解釈は、どの本でも、まんなかで切れて、「春がゆく、(行く春を惜しんで)鳥はかなしげに鳴き、魚の目も涙で濡れていることよ」というふうになっております。
しかし、福岡市の筑網耕平という俳人が、芭蕉の句として見た場合、そんなにブチブチと切れる筈がない、これはキレは上五にあるのみ、中七の漢字三文字は一つの名詞なのだ。「鳥啼魚」という名前の魚がいたに違いない、そしてそれは、自分が子供のころに川で捕まえて遊んだ、ぎぎ、あるいは、ぎぎゅうという名の魚ではないか。との読みを展開しています。~不問(とはず)六号より~

わたしがこの文章を読んでどんなにわくわくしたか、おみせできないのが残念でなりません。といいますのも、このところ、ずっと「ぎぎゅたん」という方言の憎まれ口について、その語源を考えていたからです。わたしは筑後地方の八女の人間ですが、方言でギギュタンという悪口があります。憎々しい奴、変わり者のうるさいやつというような意味でして、わたしなどその代表的なぎぎゅたんかもしれません。しかし、これまで一度もその語源を考えたこともありませんでした。さて、ここからが面白いところです。
先日博多で連句をまいていいるときに、どうしても秋の水辺の季語がいるという場面にさしかかりました。
山本健吉の季寄せをめくっていますと、「ぎぎゅう」という難しい漢字を持つ魚に出会ったではありませんか。ちょうど、前田圭衛子宗匠が見えて捌かれている座でございました。
ああ、もしかしたら、これがぎぎゅたんの語源だろうか。と思いました。
父がそのようなことを言っていたのを思い出しましたし、八女の古老に尋ねると、たしかに昔、川で捕まえたことがあったといいます。
健吉の歳時記にしかないので、もしかしたら健吉も昔、川で捕まえたことがあったのかもしれません、健吉の父は石橋忍月といって、明治の批評家ですが、その生家は八女にあります。ちなみに、山本健吉とその最初の妻で俳人だった石橋秀野の墓も、八女にございます。(私は大分の俳句誌「樹(たちき)」に石橋秀野ノートを連載して三年になります・・・※当時)

さて、もしも「鳥啼魚」が「義義」ならば、今ひとつ、おなじ魚ではないかと思える芭蕉捌きの歌仙の付け句がございます。貞享元年秋、尾張の連衆と巻いた「冬の日」五歌仙のうち、第三歌仙「つつみかねて」 の巻です。その名残おもての折端句から引きます。

ナオ12      秋湖かすかに琴かへす者   野水
ナウ1 烹(に)る事をゆるしてはせを放ける   杜国
   2       聲よき念佛(ねぶつ)藪をへだつる  荷兮

杜国の句の「はぜ」には注意書がついており(岩波文庫)、京大本では「はげ」と誤記という風に書かれております。
わたしは連句誌「れぎおん」(編集発行・西宮市の前田圭衛子氏・・※当時)の同人でして、その巻頭論文を光田和伸先生(国際日本文化センター助教授)が書かれているのを毎号楽しみによんでいます。冬の日の歌仙を読み解いておられます。で、26号で、このくだりが解説されまして、「はぜ」とは何か、中国の文献まで引かれて論考されたことを忘れておりませんでした。特に転載されたはぜの絵のなまずのようなペーソスある顔が印象的で、ずっと気になっていました。
ですから、それとこのギギが一瞬にして結びついたのは、聞き込み調査をしているときに、「なまずによく似ていた」ということを聞いたときでありました。

もしかしたら・・・!

図書館で図鑑をあるだけ引っ張り出してきました。ありましたありました!
ギギには三種類あり、食用になる、琵琶湖に棲む、啼く、というのは「ぎぎ」のみです。
そして別の辞書で調べますと、義義、別名、ハゲギギと出ているではありませんか!

やはり杜国ははげを放ったのです。
前句とあわせてよめば、「湖のほうからかすかに琴が聞こえる。琴をおさらいする人がいるようだ」「ぎぎを調理しようとすると、かみついて泣く。その痛さといったら、三年うずきがするほどだ。もうあったまにきて、煮ることは許して、ハゲギギをまた水にもどした」「聲のいい念佛が藪の奥からきこえる」となります。
連句式目からいえば、打越が音の出るにぎやかな付でやや観音開きではないかと思うものですが、それでも、優雅な琴の音を杜国が俗に転じ、それをまたハゲ=僧と転じた荷兮はのりすぎながらもおかしい。このような和気藹々の三句がらみに近い付け合いを許した芭蕉、楽しかっただろうなあ。と思わずに居られません。

元禄三年三月、杜国はなくなります。
芭蕉は虫の知らせでそれを知っていたようです。

ならば翌四年より「おくの細道」の想を練る芭蕉の脳裏には、まず、可哀想な杜国のことが浮かんだに違いありません。

行く春句は三句あるようです。

1行春にわかの浦にて追付たり    貞享五年春三月 (45歳)
                  おいのこぶみの旅、杜国同行

2行春を近江の人と惜しみける    元禄三年三月(47歳) 猿蓑

3行春や鳥啼魚の目は泪       元禄二年三月 おくのほそみち

1の句を芭蕉がよむ直前に置かれた杜国の、じつにエロティックな句がこれです。

散る花にたぶさはづかし奥の院   万菊丸
行春に和歌の浦にて追付たり    はせを

すみません。ここからはわたしが勝手に想像するのですが。
芭蕉は、和歌の浦ではじめて杜国と寝たんじゃないでしょうか。
それがずっと芭蕉の心にあって、「行春」の句は、どれも杜国への想いが秘められたものだったのではないかと、思われてなりません。
勿論、杜国は尾張の人で、のち悪いことをして、保美に追放されたのですが、「近江」と配合せざるを得なかった芭蕉の胸には、きっと尾張で「冬の日」を巻いたときの、楽しかった思い出が濃く残っていたのではないでしょうか。

ということで、わたしの邪推はオハリです。
琵琶湖にギギは今もいるのでしょうか。
いるとすれば、はげという名の文献が残っているのでしょうか。
もしや先生、なにかご存知であれば、わたしにお教えください。

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コメント

あらまあ。

こげなことば書いていたとは。


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