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2012年4月16日 (月)

雲の墓標 

雲の墓標

 

 綿貫 吉計

 昭和二十年八月九日
  焼け付くような閃光。何だろう?頭上を時たま動くクレーンのスパークの光か?
 いやそうではなさそうだ!すぐ近くの窓際でネジ切りの作業をしていた長崎県立高女の生徒達が両手をあげ、のけぞるように倒れてゆく姿が見えました。シルエットとなって。

 これはただごとではない。そうだ空襲だ!爆弾が落ちたんだ!危ない!無意識に両手で頭を抱えるようにして、傍の機械のかげにしゃがみこみました。両手にヌラ~~と流れ出てきます。駄目だ!これで死ぬのかも知れぬと思った瞬間、幼い頃からつい最近のことが、走馬灯のように脳裏をかすめてゆきました。だんだん意識が薄れてゆくのが自分にも分かりました。一体どうしたことだろう?何が起こったんだろう?深い井戸か海にゆっくりと吸い込まれてゆくような気分・・・・・。

 それから何秒、いや何分、何十分経過したのでしょうか?ふと正気に戻りました。自分が何処にいるのか分からない。目にいるのは濛々とした煙か塵みたいなものばかりで、方角も分からない。さっきまであった工場の建物もありません。
  
 死ななかった!生きていた!そう思いました。逃げよう!また爆弾が落ちるかも知れない。起きあがって走ろうとしました。ふと見ると傍に人が倒れています。コンクリートや木の破片が体を蔽っています。つい先程まで中食のことを話していた島原出身の少年徴用工の人です。ぐったりしています。声をかけると微かな返事が返ってきました。瓦礫をはねのけ両手で身体を引き上げ、肩をかして歩き出しました。たしか工場の東側の丘の上に防空壕があると聞いていました。ついさっきまで履いていた下駄はどうなったのだろう。歩くたびに足の裏にガラスの破片か何かがヅクヅク突きささってきます。足の裏は真赤です。不思議に痛くありません。相手は肩からずり落ちそうになります。殆ど力がないようです。私の頭から腕から血がしたたり落ちます。しかし相手の傷はもっとひどいようです。全身血まみれです。ノロノロと歩いていると、下を向いたまま、「綿貫さん、水が欲しい」と微かな声で言いました。どうしようもありません。「此処には水は無い。上の防空壕まで行けばあるだろう。それまで我慢しよう」 相手はコックリ首肯いたようでした。それから何歩歩いたでしょうか。「おろしてくれ」と言います。ゆっくり瓦礫の上におろし、横にしてやりました。その時すでにこと切れていました。

 あれから今年で三十四年経ちます。あの日のことはいまだに脳裏に焼き付いています。閃光、そしてしゃがみこむまでの時間は一秒、いやもっと短かったのではないかと思います。
 昭和十九年十二月もおし迫った頃、私達旧制佐賀高校文科一年のクラス三十五名は突然文部省の命令で、長崎浦上にある三菱兵器工場で航空魚雷の製造に動員されました。
 昭和二十年になると、戦局はますます悪化していったようでした。新聞では報道されませんが、何となく肌で感ずるようになりました。工場の魚雷の製造も日を追って低下していたようです。

 工場の西郷寮は浦上の西側の山麓にあり、私達は朝早くから夜遅くまでよく働きました。どんなに遅く工場から帰って来ても、空腹を抱えながら、蚕棚式の寝室の暗い裸電球の下で読書し、議論していました。小学校時代から、日本は神の国だ、敗けることはないと教えられて来たことが、私達を支えていたのでしょう。
 
時々、空襲警報がなります。私達は工場から駆け足で寮の傍にある防空壕に避難することになっていましたが、壕には行かず寮の寝室にいって眠るのが常でした。仕事に疲れ眠たいのです。空襲警報のサイレンが鳴り止んで暫くすると爆音が聞えて来ます。見上げると紺青の夏空を白魚のようなB-29の機体がキラキラと輝きながら通過して行きます。いつも浦上付近には爆弾を投下せず造船所付近に落としていました。
 広島に新型爆弾が投下され、多数の死傷者が出たとの記事は、たしか七日のタブロイド版の新聞で見ていましたが、それが原子爆弾だとは報道されていませんでしたし、まして二日後それが我が身に降り掛かろうとは夢にも思いませんでした。

 
 

 こと切れた工員をそのままにして、丘をめがけてまた歩き始めました。周囲に数知れぬ人達が叫びながら走りまた黙々歩いているようです。塵か煙か濛々と立ち篭めて見通しがききません。ふと前方に同じ職場の少年工が歩いています。どこを負傷しているのかわかりませんが血だらけです。肩を互いに貸し合いながらやっとの思いで防空壕に辿りつきました。
中はもう満員です。すべての人々は何とも表現しようのない形相をしています。恐怖にひきつった蒼白な顔、血だらけの顔、顔。無惨に打ち砕かれた体。壕の中のうづまく呻き、叫び、泣き声。壕の中に身を横たえ、座っていますが、どれ程の数でしょうか。

  入れない人は付近の地面に座り、横になり或いは呆然とつっ立っていました。全ての人々が茫然自失の状態です。

 壕の入口近くに中学生ー上級生と下級生らしい二人がいました。下級生が上級生を抱きかかえて介抱しています。薬、いや水一滴さえないのです。そのうち上級生は呟くように自分の住所を告げ、父母に遭うことがあったら伝えて呉れと言って、やがて息をひきとってゆきました。うそみたいに、何の感動もありませんでした。

 私は丘の端に立って周囲を見渡しました。朝から雲一つないカンカン照りの夏空だったのに、どうしたことか夕暮のように薄暗いのです。目の届く範囲は火、そして火。すべてが火です。足元の唐芋の葉がシャリシャリに焦げていました。近くの松も燃えていたようです。

  数百、数千の人々が、火と煙と粉塵をくぐりぬけ、本当に蜘蛛の子をちらしたように丘にはい登ってきます。恐怖でゆがんだ顔、蒼白な顔にべっとりと血糊でこびりついている髪、背中の肉が裂け白い背骨がむき出しになっている人。

  空からポツポツと黒い雨が降ってきます。ボロボロに引き裂かれ血に染まったシャツにその雨を受けながら、私は眼前の光景を凝視していました。

  阿鼻叫喚の地獄とはこういうものを言うのでしょう。
  どんなに激しい戦闘が行われた戦場でも、これ程凄惨な状況というものはなかったのではないでしょうか。もし、地球の最後の日というものがあるとすれば、こんな状況ではないかと思いましたし、そしてまた、生まれてこのかた、私が見てきたもの、考えてきたもの一切がガラスの器が地面に叩きつけられ、粉々に砕け散っていくような感じに襲われたのを、今なお忘れることができません。私の十七歳の年でした。

  ちょうどその時刻、郷里の母は家の前に出ていて、西南に見える雲仙岳の近くから突然雲が湧き起こり、七色に輝きながらふくれあがり、ゆっくりと舞い昇ってゆくのを見とれていたそうです。私の墓標にこそならなかったその雲は、長崎の七万の人々の墓標であったのです。

     二

 駅前の生地獄絵にみいっていた私は「また爆弾が落ちるぞ」という叫び声で我にかえり、途中で一緒になった少年工の家が道の尾付近だというので、その方角に向かって山道をあるいていった。
 その道でどれ程の人々に出会ったことだろう。
衣類は引きちぎられ鮮血に染まりトボトボ歩く人。襤褸のようになって倒れている人。皮膚が溶けダラリとさがっている。肩をよせあってくさむらで震えている人々。

 その中で今も鮮明に残っている場面があります。道の前方左側の木の下に二人の女性が見えました。白のブラウス、絣のモンペも真っ赤に染まっています。肩を寄せあってしゃがみこんでいます。右の女性の胸あたりのブラウスがちぎれ、何かがぶら下っている。近づいてみると、それは乳房であった。一瞬息をのんだ。右側の乳房が恰も剃刀か何か鋭利な刃物で切ったように、つけねの所から切り下げられ、残った下部でぶら下がっているのです。私はしばらく躊躇したが、傷の手当てに使っていた手拭を差し出した。私の声に蒼白な顔をあげ、わずかのほほえみをうかべて、「ありがとうございます」とお礼を言って受け取った。しかし、すぐ「私の傷はどうしようもありません。貴方の傷の手当てに使ってください」と返してきた。私は受け取り、他になす術もなくその場を立ち去った。挺身隊に駆り出されたであろう二十歳前後の女性でした。

  少年工を道の尾付近の自宅まで送り、地下工場に向かった。
空襲を避けるため近くの山にトンネルを掘り、その中で操業していたのでそう呼んでいました。級友の大部分はそこで働いていた。入口付近は爆風で被害をうけていたが、内部はそれ程の被害は受けていないようでしたが、級友の姿は見当たりませんでした。

 あてもなく歩いていると、道の尾駅から負傷者を輸送するとの話を耳にして駅に向いました。駅前の南側の木の下に数人の級友の顔がありました。彼等は引率者である渡辺教授の介抱をしていました。上半身を起こしておられる先生は全身傷だらけです。付近の民家から提供されたのであろう赤チンキとピンセット類がある。初めて見る薬でした。級友と一緒に先生の肉にくい込んだワイシャツの布やガラスの破片をピンセットで抜き取り、赤チンキをそのあとに塗っていった。その時の級友達が誰々であったか思い出せない。

  そのうち、駅の説明で重傷者から列車で送るということで、次々と運びこまれ、動ける者は自力で乗り込み、デッキまで超満員になった。出血は多いがたいした傷でもなさそうなので乗車を諦めていた私に、駅員が乗車をすすめてくれました。最後尾の車両のデッキのステップにようやく足をのせ、両手で左右の把手(とって)をつかんだ。列車が動きだすとその揺れでデッキにすし詰めの人々の圧力が私の全身にかかってくる。必死になって把手を摑みその都度圧力に耐えねばならなかった。トンネルに入る足袋に煤煙で息苦しい。そんな状態にもすごしずつ慣れてきた。すると先程から列車の揺れにつれ私の顔に当たるものがある。
 それは子供の頭であった。若い母に背負われた一歳くらいの男の子らしい。急な列車の揺れで母親の身体が揺らぎ、今まで見えなかった子供の顔が一瞬目に入った。
これが人間の顔か。
皮膚は溶けドロリとたれ下がり、顔の輪郭が残っているだけです。息は絶えていました。
母親はしっかり帯紐で背負っていました。

 確か長与駅に着いた時だったと思う。列車がホームに着くと駅員の人々がバケツ、桶に水を用意していてくれた。ホームに降りてみると窓という窓から身をのり出して水を求めていました。水を飲んだ多くの人々が列車内で息を引きとったことを後で聞かされました。道の尾駅を何時ごろ出たのか記憶に残っていません。諌早を過ぎる頃から日が暮れ始めたようでした。大村湾の岸を走っている時振り返ったら、長崎の方角の夜空が炎々と燃えていました。

  大村駅に着くと軍の病院に収容するとのことで殆どの人々が列車を出ていった。私はガランとなった車内に入ろうとしたが、入れなかった。緑の座席は血のりでベットリ。通路も血の海で歩いたら滑りそうでした。終点の早岐駅に着いたのは何時だったのか。駅前で婦人会の人々が炊き出しをされていました。朝食をとっただけなのに、空腹感はありませんでした。にぎりめしも断り、お茶をもらった。連絡する列車がないので、一夜を駅前で過ごすことにした。仰ぎ見る星の輝きと、砂利のひんやりとした感触が心地よかった。

 翌朝一番の列車で佐賀に向かった。混雑している列車の中で新聞を読んでいる人がいたので、肩ごしに覗き見たら、大きな見出しで、ソ連の宣戦布告を報じていた。

 佐賀線に乗り換え三橋駅で下り、切符のない理由を告げると駅長さんは妙な面持ちで「どうぞどうぞ」と改札口を通してくれた。カンカン照りの田圃道を約二キロ歩く。稲の緑が異常に鮮やかに見えた。今まで気にもとめなかった自分の姿を見なおした。ズボン、シャツはひきちぎれ、共に生地の色も分からぬほどどす黒い血に染まり、頭、腕、背中の傷の血は止まっているが、流れたままの状態でこびり付いていた。やがて私の家が見えてきた。家の前の橋の上で母が近くの小母さん達と立ち話をしていたが、近づく私の姿に気づくとそそくさと引き上げていった。一人残った母の前にたった。母は無言でじっと私を見つめていた。「おっ母さん、今帰った」と告げたら母の顔が途端にゆがんだ。

  帰宅後足の裏が疼きだした。逃げる時につきささった鉄屑、ガラス破片の所が化膿し始めたのである。近くの医者にいって抜いてもらった。両方で百箇近くもあったろうか。その帰途、Bー29の美しい編隊がいくつも飛んでいく。遠雷のような轟きを共に、久留米の方角と思われる所から黒煙が舞い上がってゆく。上空から無数の紙片がヒラヒラと舞い降りてくる。一枚拾ってみたら日本国民に降伏を呼び掛けるビラでした。

 敗戦の数日後急に高熱が出た。四十~四十一度の熱が一週間ほど続き血尿をしていたという。この間の記憶はほとんどない。ただ私の足をさすってくれていた、父の手の感触だけは覚えている。薬もなく、治療の方法もわからず、思い余っての介抱でしたのでしょう。この時は息子の死を覚悟したとあとで聞きました。

 九月になって学校が再開されましたが、悲しい知らせが来ました。寮で内務の仕事をしていた山下憲之助さんが亡くなったとのことである。全身被曝し大村病院に収容されていると聞いていた。見舞いにも行けなかった。級友のただ一人の犠牲者です。満洲におられる両親を恋しがり、「国境の町」をよく一人で歌っていた。身体の具合が悪いということで、内務班をしていた私と交替したのは七月に入ってからのことである。交替してなかったら私がおなじことになっていただろうと思います。

 三菱兵器に動員中、級友は次々と入隊していった。私達文科は理科と違い徴兵延期がなかった。浦上駅、道ノ尾駅で級友を涙ながらに見送った。被爆当時は十数名になっていた。私もあと一年で入隊しなければならぬ年齢になっていた。工場で昼休みには軍歌が流され、「学徒出陣の歌」が印象に残っています。長崎県立高女三年生がそれに合わせてよく歌っていた。被曝の瞬間彼女たちは私の目の前で歌詞にある「紅の血」に染まって斃れてゆきました。

  九州龍谷短期大学『いのち』第22号
  (平成十六年三月発行)より引用。

※此の文は昭和五十四年、五十九年福岡県被曝教職員の会の依頼で寄稿したものに、加筆、修正したものです。(と書かれています・・・引用者ひめの)。

参照:

「国境の町」:東海林太郎の歌http://www.youtube.com/watch?v=e-wGk-qmhoQ

長崎県立高女:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E9%95%B7%E5%B4%8E%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%A5%B3%E5%AD%A6%E6%A0%A1

上記資料の中に、以下の記述あり。

1945年(昭和20年)

旧制佐賀高校文科理科:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)#.E8.91.97.E5.90.8D.E3.81.AA.E5.87.BA.E8.BA.AB.E8.80.85

上記資料の中に、以下の記述あり。

  • 1944年(昭和19年)- 生徒動員が開始。
    • 5月 - 3年生 川南造船へ。
    • 7月 - 2年生 長崎造船へ。
    • 12月 - 1年文科 三菱兵器へ。
  • 1945年(昭和20年)8月 - 1年文科生、動員先の長崎にて原爆に被爆
  • ∇旧国鉄の駅名

    三橋駅(佐賀線)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%A9%8B%E9%A7%85

    道ノ尾駅:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E3%83%8E%E5%B0%BE%E9%A7%85

    長与駅:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%B8%8E%E9%A7%85

    大村駅:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E9%A7%85_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)

    浦上駅:旧長崎駅。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E9%A7%85

    三菱兵器:これが一番に出ます。http://oshiete.goo.ne.jp/qa/565300.html
      二番目にこれ。http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa9.html
      三番目は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E9%87%8D%E5%B7%A5%E6%A5%AD

    ※かささぎ、初の被爆手記の引用となります。
    これは、わが母が姉の法事があったときに久留米の寺から戴いて帰ったものです。
    読みました私は引用したくなったので、そうさせていただきます。
    無断引用でありますが、ご勘弁ください。

    連休後半の今日、残りの四分の三を写経し終えました。(五月五日)
    この文章を書かれた方はご健在でいらっしゃるでしょうか。
    文章を打ち込んでいますと、その瞬間しゅんかんが自分の中に入ってくるような感覚に襲われました。
    ガラスの破片がぎっしりと身につきささるような感覚であった。

     
     

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    コメント

    ただいま、写し終えました。
    読者はさほどいらっしゃらないかもしれませんが、。じつに重たいですね。

    重たい文章の転載、お疲れ様でした。

    あの戦争はいったいなんだったのだろうと思います。今も戦っている国がありますよね。大きな国の正義は本当に正義なのでしょうか。
    解りません。恐いですね。

    ぼん、読んでくれてありがとう。
    これを読んで、杉山のおんじいを思ったのです。
    杉山のおんじいの悪口をいっぱい書いてきたのです、私は。でもよく考えると嫌いではないのです。
    嘘がないから。ただただ激しくて、その激しさがどこから来るのかっていつも思っていた。それが、おんじいが自らブログを書くようになられたので、謎がだんだん解けてきました。
    被爆者であったから、なんですね。いや、ほかにもいろいろあるにしろ、これが最大だと私は思う。

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    5位

    同じタイトルで阿川弘之のがあるようだ。

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