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2012年4月18日 (水)

病院組織・スタッフ論 ~ 医師 (2)

保健医療経営大学学長

橋爪 章

2012 年 4 月 18 日 医師とは(2)

医師については、法的に、なってはならない人(絶対的欠格)があります。

医師法第三条に「未成年、成年被後見人又は被保佐人には、免許を与えない」とあり、第七条一項に「医師が、第三条に該当するときは、厚生労働大臣は、その免許を取り消す」とあります。

未成年が医師になるということは考え難いのですが、大幅な飛び級が認められる天才少年が仮に出現したとしても、現行法では、未成年である限りは医師にはなれないということです。

森鴎外は東京大学医学部を19歳で卒業しています。)

また、後見人や保佐人が必要なほど責任判断能力がない人には医師免許が与えられないし、責任判断能力を失った人は医師免許が取り消されます。

人の命を預かる職種である以上、当然のことでしょう。

医師法には、上記以外に、免許を与えないことがある、あるいは取り消すことがある人(相対的欠格)についても規定があります。

医師法第四条によると、次のいずれかに該当する者には、免許を与えないことがあります。

一 心身の障害により医師の業務を適正に行うことができない者として厚生労働省令で定めるもの

二 麻薬、大麻又はあへんの中毒者

三 罰金以上の刑に処せられた者

四 前号に該当する者を除くほか、医事に関し犯罪又は不正の行為のあつた者

また、医師法第七条により、医師がこれらのいずれかに該当するか、医師としての品位を損するような行為のあつたときは、厚生労働大臣は、医道審議会の意見を聴いて、次の処分をすることができます。

一 戒告

二 三年以内の医業の停止

三 免許の取消し

なお、免許が取り消された場合も、その取消しの理由となつた事項に該当しなくなつたときなどは、再教育研修を経て再免許の可能性があります。

再教育研修は、戒告処分や医業停止処分を受けた者に対しても、厚生労働大臣は受講を命じることができます。

再教育研修というのは、医療法施行規則第七条により、倫理研修(医師としての倫理の保持に関する研修)と技術研修(医師として具有すべき知識及び技能に関する研修)です。

医師は、国民が医師の資格を確認できるよう、医師の氏名などが公表されていますが、公表事項は、医師の氏名や医籍の登録年月日だけではなく、処分(再教育研修を修了していないものに係るものに限る)についても公表されます。

なお、相対的欠格事由のうち心身の障害により医師の業務を適正に行うことができない者とは、医師法施行令第一条により、「視覚、聴覚、音声機能若しくは言語機能又は精神の機能の障害により医師の業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者とする」となっています。

障害の種別や程度にかかわらず、欠格事由は、「認知、判断及び意思疎通」が適切に行えるか否かがポイントとされています。

障害を補う手段や治療等によって障害が補われ、障害の程度が軽減している状況を考慮しなければならないとも明記してあります

(保健医療経営大学学長ブログ転載)

▽かささぎの偏狭なひとりごと

森鴎外は頭がよかったというより、成績がずばぬけていた。
五六歳で中国古典籍を学ぶ、早期教育がよかったんだろう。
それを鼻にかけていたから、あんなことになってしまった。
決して自分の見立てが間違ってるとは金輪際思わなかった。
だからたくさんの兵隊さんたちを脚気で死なせてしまった。
にんげんよくできすぎるということはろくなもんじゃねえ。
おめでたすぎるきらいはあれど、かささぎ程度で丁度いい。

▽ウィキペディアからかっさらってきました。

軍服姿の

上記にもあるように、外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であった。医学先進国のドイツに4年間留学し、帰国した1889年(明治22年)8月–12月には陸軍兵食試験の主任をつとめた。その試験は、当時の栄養学の最先端に位置していた。日清戦争日露戦争に出征した外は、小倉時代をのぞくと、つねに東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍医総監中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長にまで上りつめた。

ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について、医学界の主流を占めた伝染病説に同調した。また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、海軍の多くと陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達を出したこともあった。

日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日第2軍の戦闘序列(指揮系統下)にあった鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎日露戦役従軍日誌」)との記録が残されている(ちなみに第2軍で脚気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」はいろいろな解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6合」を遵守した。結果的に、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となった。

なお、脚気問題について外は、陸軍省医務局長に就任した直後から、臨時脚気病調査会の創設(1908年・明治41年)に動いた[62]

脚気の原因解明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)がつぎ込まれた。予算に制約がある中、脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定して廃止(1924年・大正13年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。外が創設に動いた臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づける見解がある[63]

反面、「その十六年間の活動は、脚気栄養障害説ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある[64]

なお、晩年の外は、同調査会で調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかった[65]

脚気惨害をめぐる議論

陸軍の脚気惨害をめぐって、外の責任に関しての議論はたえない。そのうち外への批判として、(副食物が貧弱な)米食を麦食に変えると脚気が激減する現象が多く見られたにもかかわらず、麦食を排除しつづけた姿勢について激しい非難がある。[66]。実際に日露戦争で陸軍兵士の3万人近くが脚気で苦しみ戦死でなく病死した事実、同じ時期に海軍兵士の脚気患者がほぼ皆無であったにも拘らず海軍の食事を取り入れずに通達や要望などを握りつぶしたことが近年ようやく明らかになり、著名な小説家としての名誉もかなり低くなっている。

逆に外を擁護するものとして、以下の見解がある[67]

  • 陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任をおう大本営陸軍部野戦衛生長官日清戦争石黒忠悳日露戦争小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問。
  • 外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)[68]にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとの指摘である。その別のものとは、白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情とされる[69]
  • 外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判については、兵食試験の内容(当時の栄養学にもとづく栄養試験であり、脚気問題と無関係の試験)を上官の石黒にゆがめられたためとの見解を示した[70]

以上を端的にいえば、外が脚気問題で批判される多くは筋違いとの見解である。つづけて外への批判が起こった理由として、

  • 海軍の兵食改良を批判しすぎたこと。
  • 論理にこだわりすぎて学術的権威に依拠しすぎたこと。
  • 日清戦争時に上官の石黒に同調したこと[71]

が挙げられた。

ただし、外が岡崎桂一郎著「日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考」(1912)に寄せた序文で「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、外は脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、敢えてそれを排除、細菌原因説に固執して、調査会の結論を遅らせていたとの指摘もある[72]

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