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2011年11月10日 (木)

『あかときくらく』  山中智恵子の歌論 その1

著作権の事を思うと、やってはいけないことか。
わたしは、山中智恵子の歌論『あかときくらく』を、かささぎの旗にとりこみたい衝動を抑えることができない。

写経するように、少しずつ転載したい。
それがたとい、犯罪であったとしても。

最近とあるサイトをみていたら、山中智恵子の歌は、思わせぶりで、なにも実体などないものである、長年付き合ってきて、それに気づいた。と決めつけている声にぶつかった。

わたしの思いはそれとは真逆である。

実体などない。だからいいのである。
山中智恵子の歌は、なにか具象としての影を結びそうで結ばない。
だが古風なかそけさ、得も言われぬ典雅な雰囲気を確かに心に転写していってくれる。
まるで流れる水の上を紫の雲がよぎっていくように。
稀有な才能であり、これこそが今の自分が憧れる唯一無二の歌の力だと思うから。

 あかときくらく

  -梁塵秘抄覚書

   山中智恵子

 人の音せぬ暁に 人の音せぬ暁に

  ふと無心のとき、私は今でもつぶやくことがある。
  京阪を中書島から宇治線に乗り換えると、間もなく青田の中に小さな屋根がみえ、胡瓜や茄子に抽きんでて、四五本の向日葵が高々と咲いていた。向日葵は好きな花ではないのに、空がはりつめた硝子のようにかがやいていた終戦の夏の朝々の思いは、梁塵秘抄の一句と、向日葵の蒼いひとみとでみたされ、あとはただ青空に落ちこんでしまう。
 この没落の感じは、思い出の欠落感なのか、歴史そのものの底のしれない陥穽なのだろうか。
 黄檗にある勤労動員先の休み時間に、私たちは誰かが借りてくる本をせかされながら読み、ファブリスやムイシュキンや西鶴のことなどを、幼い口つきで話しあっていた。けれど、寮に帰ってから管制下の暗い灯のもとで、ひとり読む梁塵秘抄の歌については、友だちの誰にも私は話さなかった。何となく話す機会を失っていたというのが本当なのだが、一夜一夜が敗戦前夜であり、朝空がまだ私に在ったと仰ぐ日々のなかで、いきいきとした存在のかなしみにふれ、こころを鎮めるひとつのものを、ひそかにまもりたい思いがあったのだろう。

 仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあはれなる
 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ。
                                二六 法文歌

 これは、人の心の最も弱い部分に書かれ、歌われたのだろうか。
 梁塵秘抄は、後白河天皇の手で、嘉応元年(1169)あたりから撰のことがこころざされ、治承三年(1179)頃までに、歌詞十巻口伝十巻の全部が成立したとおもわれる。嘉応元年といえば、法王出家の年であり、治承三年十一月には、清盛による鳥羽殿に幽閉のことがあった。保元・平治の乱をすぎ、ふたたび源平合戦が始まるまでの、内乱の谷間に成ったものである。

    (続く) 

※長さから、十回ほどに分けての転載になると思います。
それが終わった後、俳人高柳重信の山中智恵子論『はじめに月と』を転載したいと考えています。

引用元は、現代歌人文庫11『山中智恵子歌集』(国文社)

▽歌人山中智恵子

1925年5月4日名古屋生まれ。1945年京都女子専門学校国文科卒業。
1946年秋「日本歌人」入会、前川佐美雄に師事。
三重県鈴鹿市に居住し、深い古典への教養をにじませた幻想的な作品を数多くうみだし、現代の巫女と呼ばれた。数々の賞を受賞している。
2006年3月9日逝去。河野裕子は大学の後輩にあたる。
     

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