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2011年10月 8日 (土)

意地わるご隠居とむかっぱらバトル、の、コメント集成。

▽かなり時系列はいいかげんに編集。ぬけてるかも・・・すみません。

あらためて,
【“立花町の大内氏”について】

「戦国時代の大内文化と密接な関係があり」

というのは,具体的にどのようなことを指して言っているのですか。

この発言と,

「私はまだ一度もこの旧大内邸をたずねたことがなく,目下何もたしかなことはわかりませんので,かけません。」

という発言は,大変矛盾しているのですが,訪ねたことがなくても,
“密接”な関係があると主張するのは,何かより確かな情報を持っているからでしょう。

それを是非とも,教えて欲しいものです。どこに研究の材料が転がっているかもしれないのです。

その新しい情報を,“自分”の目で確かめてみたいと思っています。

>少なくとも,大内氏の勢力は筑前域まで。
>筑後域の立花町に,室町時代大内氏の勢力が広がっていたなどという事は考えられません。

豊饒氏を調べていた時に、大内氏の筑後侵略(永正~大永)についての記事を見たことがあります。
   ↓

http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/jojima/murata/page2.htm

【大内氏の筑後侵略】

永正〜大永年間(1504〜1520)の大内氏の筑後侵攻はたしかでしょう。

それは所謂“勢力”拡大のためであって,そのことを以て,大内氏の勢力が筑後域に及んでいたなどという事は言えません。

筑後は大内氏が支配している筑前と境を接していますから,勢力拡大のための境目争いのようなことは,それこそ日常茶飯事のようにあったことと思われます。

しかし,最終的には地域(在地勢力)を掌握する必要があるわけで,足利幕府から筑後の守護に補任されなければ支配力は及ぼせません。

結局,筑後一円平定は不可能だったという事です。したがって,筑後域に大内氏の勢力が及んでいるなどという事はないのです。

筑後と周防(山口)の何らかの関係が考えられるとすれば,それは大内氏滅亡(天文21年,1555)後の毛利・小早川氏の時代になって,大内氏に仕えた遺臣(武将)を彼らが召し抱えた結果でしょうか。

その時多少なりとも大内氏縁故の人々は,以後時期や事情は不明ながら“大内”を名乗ることがあったかもしれません。

大内氏が筑前の守護でもあった永正期は大内氏の最盛期で,当主義興は六ヶ国守護,さらには山城の管領代として10年間在京。

義興が京を離れると京の政情が不安定になるというので,将軍から慰留され,結局彼は10年間一度も帰山しなかったというのです。

当主が留守状態の山口には当然のことながら,それぞれの国から守護代ほかが山口の政庁に輪番で詰め,政権を維持していたのです。

「有名な『筑後将士軍談』の著で、久留米藩士の矢野一貞翁は、夜明の清浄寺・江上の九品寺・城島の市ノ恵比須・土甲呂の住吉社・楢林の七社権現などの由緒書に、
『豊後大友義隆の家老 豊饒美作入道永源 大永六丙戊年
などと書いてあるのをみて、義隆は義鎮(宗麟)の誤りではないかと、疑っていられるが、これは周防の大内義隆の誤りとするのが、正しい.永正から大永にかけての大内氏の筑後侵略の時、豊饒氏は早くも大内氏の軍門に降つていたが、なにさま、大友氏の筑後督軍の家だから、表面は大内氏に従いながら、内実は大友氏えの節義を変えず、折があつたら、大内氏の圧力を跳返して、叩き伏せようというのが、永源入道の心境であつたろう.豊饒氏の上妻郡兼松城への移住は、その年代が明らかではない.永禄七年、大友宗麟が下田城主堤越前守貞元を攻めたとき、大友氏に協力した三瀦郡の土豪のうちに、城島氏と並んで豊饒氏の名前が見えるから、この時までは城島に居たと思われる.大内氏滅亡の後、その勢力を一手に攻めた毛利元就も、筑後にまでは進出できなかったから、豊饒氏のごときは、先頭第一に大友氏に復帰したに違いない.
 豊饒氏の時代になっても、城島の一角に居住していた城島氏は、天正八年の頃は、西牟田氏と共に、早くも竜造寺の幕下に降つていた.その二年前、天正六年三月に調製された『大友幕下筑後領主附』には、すでに豊饒氏は上妻郡兼松城主として記録されているから、豊饒氏が城島を去つたのは、永禄七年から天正六年にいたる間のことである.」 ↓

コメント

【困った人たち】

“謎”などではありません。

単に“基本的”な知識が欠けているだけです。

もっと自分の頭を使って真剣に考えて下さい。これらのことは,

高校程度の漢文の力と,
日本文化についてのきちんとした知識,

があれば簡単に理解されることです。

もしそれがない,解らないというのであれば,いったい高校で何を学んだのかとお尋ねしたいです。

ああでもない,こうでもないと言っているのは,結局は“日本人力”がない。

つまり,日本人としての“アイデンティティ”を喪失してしまっているという事を意味します。

「同」という文字について,一番分かり易いのは

【新年同詠船出應制歌】

だと思います。

引用の「ふなびとは」の詠は,昭和28年(1953)の宮中の歌会始の“お題”が「船出」であり,召人(メシウド)の歌人会津八一が制に応じて詠進したものです。

ちなみに読み下すと,

「新年,同じく制に應じて“船出”を詠む歌。」

となります。

意味は,改めて言うまでもなく,
この年のお題(天皇から出される)が“船出”であり,それに同じて(和して),制(天皇の求め)に応じて詠進した歌であるということです。

俗に“新年應制歌”というのです。

つまり,“同”という文字があれば,その前に(もう一つ)それの元になるものがあるという事です。

ちなみに,この年は

日本学士院会員・新村出,
歌人・会津八一,

の二名が召されています。

彼らが,制に応じた和歌が天皇に詠進され,その懐紙の冒頭に

「新年同詠船出應制歌」

二行目に“肩書き,氏名”が署されるのです。

したがって,この場合,当然ながら天皇も歌を詠まれますが,
“御製(ギョセイ)”に同じた訳ではなく,天皇の出されれた
“お題”に同じたという事です。

“季節”云々は,単にそれらの歌が“いつ”詠まれたものであるかを示すだけで,季節と“同”という文字が特別な関係にあるという事ではありません。

したがって,
【季節に同じている】
訳ではないのです。

インターネットで沢山の用例を集められるのは結構ですが,それらを通して“何か”理解出来ないものでしょうか。

本当に泣きたくなります。

人間って,こんなにも思考力がないものでしょうか。

まあ,日本の学校教育は,明治の学校教育発足以来,“考える”人間を育てるためのものでなかったのですから仕方ありませんが,橋爪氏は学長職にあるのです。あなたは,このご自分を取り巻く今の状況をどのようにお考えになりますか。

貴男が学長をなさっている【保健医療経営大学】では“考える”人間を育てるような教育が行われていると胸を張って言えますか。

弁当食べつつ携帯端末を開きました ご隠居に臥してお願い申しあげます
有り難いご教授なのですが どうか それだけにとどめて頂けませんか
素人が一生懸命片手間にやっていること
確かに話にならないのかもしれません
ですが
だからといって
そこまでおっしゃらずとも
私の美学としては
匿名希望であれば批判は一切慎みます
こうでありますよという助言だけにとどめる
ああ
だけど
そんなにむきになるのはやめましょう

こどもを叱りつけた記憶
先輩方から叱り飛ばされた記憶
どちらもどちらも忘れ難い
ひとつ言えるのは
支配と服従の関係にはならないでいましょうと言うことだけです
あまりご隠居のお言葉が辛辣すぎましたので
かささぎの喉に塩鯖と大根葉が引っかかってしまいました
それで
一筆計上致しました

>インターネットで沢山の用例を集められるのは結構ですが,それらを通して“何か”理解出来ないものでしょうか。

本当に泣きたくなります。

人間って,こんなにも思考力がないものでしょうか。

・・・むかーっ!!
お言葉ですが、おかげでたくさんわかったことがあります。

わたしは「五更」についてもう少し知りたかった。

辞書にはこうあります。

五更とは。

1 一夜を初更(甲夜)・二更(乙夜(いつや))・三更(丙夜)・四更(丁夜)・五更(戊夜(ぼや))に五等分した称。
2 五更の第五。およそ現在の午前3時から午前5時、または午前4時から午前6時ころにあたる。寅(とら)の刻。戊夜。

しかし、これ以外にも呼び名がそれぞれあったのではないか、ということを、古歌が教えてくれます。
明更という呼び名が八女戦国百首に出ていますし、昨日は竹橋乙四郎先生ご紹介の古歌に

秋日同詠鹿歌 道麻呂 

さおしかの声きこゆなりさよ中と
盛更ぬらし声所聞也

この中の『盛更』、せいこうとよんで、うしみつどきのことではないだろうか。
辞書には出ていません。
隠居じじい。あなたはよまれなかったのですか。
わたしはわざわざ函館まででむいて、プロの国文学の権威にたずねたのですよ、けれども、知らないと
いわれてしまったのです。明更。
学者のくせに、そんなのもしらんとはなさけない、とおっしゃるのですか。
ではご存知なら、お説を開陳なさったらどうですか。

かささぎは自分の目を信じる。
たまにどつぼにはまることもあるけど、でも、人が気にならないことが気になるというのはすごいことだと思っている。竹橋乙四郎という学者は、八女学にとって、不可欠の、インスパイアしてくれる視点を提供してくれる人です。たとえ畑違いでも、才能がある。

杉山洋先生のブログをごらんになればお分かりのように、八女に住んでいなければわからないものってのが厳としてある。はたからみれば、なんという無智なことをやっているとしかみえなくとも、それ以外の方法がなかったりもするんです。
わたしはこれまで一度も書きませんでしたが、世の中ではえらいと思われている俳人や学者が、草書が読めなかったり、それを認めたくなくて、わたしはこういうのはやりませんからといって逃げたり、あるいは、かささぎのおちょくりに逆上して、じつに大人気ない、赤色文字の罵詈雑言だらけのへたくそな字のはがきを下さった「上品なおかた」もいらっしゃいました。
よほど人にみせて、こんなことをなさるなんて、なんという幼稚なおとこだろうと笑おうかと思いましたが、いくらなんでもそのお方、いまごろは恥じて後悔しておられるに違いないと思えて、すぐゴミ箱に捨てました。
よかった、もっていたら、忘れなかったし、じぶんもみじめだった。こんなひと相手にけんかを売ってしまったかと。
とはいえ、いわれっぱなしはしゃくなのですよねえ。
これ、かささぎの性格。
はい。
わが長男はこの大学の生徒なんですが、どうよ、こんなこといわれて、なにか言い返したくない、って伝えたところ、いいよいいよ、勝手にいわせてたらいいじゃない。新設大学だし、エフランクの偏差値ってだけでもなんかいいたいのだろうし、そんなの、放っとくに限るよ。
・・・だそうですよ、ご隠居。のんきなものですね。

かささぎの旗に永年お世話になっているものです。

あきれる隠居さま
空気の読めない高飛車目線はどこへ行っても嫌われますよ。
かささぎさんは怒っているんだから一度誤ってから
お説を述べられたらどうです?

いえ、さくらさん、いいんです。
高飛車なのは自分でした。
なにも基礎的な知識もなく、想像でしかものをいってませんから、お叱りはごもっとも。

ここにありました。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-3313.html#comment-85936006

大内軍の筑後攻撃。

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コメント

【何か勘違いをしているのでは】

貴女の発言は,少なくとも,
下記の

(1)「(立花町は)戦国時代の大内文化と密接な関係があり」

という自らの発言に対する小生の疑問に答えてから発すべきものではありませんか

貴女の発言は,(1)のように言いながら,

(2)「私はまだ一度もこの旧大内邸をたずねたことがなく,目下何も確かなことはわかりませんので,かけません。」

という大変に矛盾したものです。

しかしながら,“密接”な関係があると主張するからには,何かより確かな情報をお持ちなのでしょう。

それを是非とも,教えて欲しいものです。どこに研究の材料が転がっているかもしれないのです。

その新しい情報を,“自分”の目で確かめてみたいと思っています。

なまえがよぎったそれだけのこと。
なにもたしかなことはないなり。

逆にそう指摘されたことで、調べなければいけないような気分に追い込まれてしまいました。

【流言飛語】

千田三津子殿


その程度で,“密接”な関係があると言うのですか
つまり,単なる“思いつき”だったということですね。

しかし,小生は“学び”の機会を与えて頂きましたので,感謝致します。おかげ様で,新しいことを知りました。

あなたの,いざ核心を問われれば,自らのことは棚に上げて,

小生のことを
“意地悪”だと誹謗中傷して,みんな(仲間内)の同情を買うという,実に“子どもじみた”態度はいただけません。

貴女,もし立場が逆だったらどうしますか。

いやあ,驚きました。
“話半分”でなく,“千三つ”とでも言えばいいのでしょうかそのようなことでは,
人間“信用”を無くしますよ。

これからは,“千田三津子”とでも名乗りますか。

人間,二十歳を過ぎると,自らの発言に責任を持たねばなりません。

小生は,

「有るものを有ると言い,無いものを無いと言う。」だけなのです。

したがって,自分の納得のいかないものについては,人も含め“信用”しないことにしているのです。

昨日,或るブログに[2件]コメントを寄せたところ,どちらも掲載しないのです。一件は,本人の求めに対する情報の提供。もう一件の中には,記事の間違いについての指摘もあったのですが,後で見ると,こっそり訂正をしているのです。

いい年をしてこの態度,いただけません。こんな年寄りにだけはなりたくないものです。


『城島歴史探訪』の記事については,現時点で記事の信憑性,また解釈(主張)の妥当性について,判断出来るだけの材料を持ちません。

ただ,めずらしい史料の存在をお教え下さった方には感謝致します。有難うございました。

改めて矢野一貞の『筑後将士軍談』を読み,よく考えたいと思います。

サバでなく白身魚を15人分一口大に切り 付け合わせのじゃがいも にんじん オクラ も 大根 にんじん オクラに差し替え これでよしと思ったら あれまあ 白身魚にサバを差し替えなきゃいけないのは 糖尿の重症者と高脂血症 透析と腎臓の人だけでした 他の減塩の病気の 心臓 高血圧肝臓さんなどはサバのまま、じゃがいものままで良かった!ああ
今日もしくじってがっかりして帰ると
ここでまた撃たれてる
どちらも我が身の不徳の致すところ です

【憶測や思いつきでものを言う“オバチャン”相手のブログ】

サバかオクラか存じませんが,この人,こんないい加減なやり方で,これまでの[50余年]の人生を歩んできたのですね。

そしてまた,“連句”的にこれからの人生を歩んでいかれるのですね。

そして,あなたに歩調を合わせるかのような“取り巻き”の,さくらサンとやらが,小生にあなたに“あやまれ”とか言っていますが,

この方(あえて女とかは申しません)事態の推移がお分かりなのでしょうか。

彼女もまた,みのもんたの“朝ずばっ”の情報にだまされるオバチャンの一人のようです。

私に関しては、おっしゃるとおりですが、なぜ
友人たちにまで斬りつけられる。
匿名で、仮面をつけたままで人をぶんなぐって、たのしいのですか。

ああ、だけど、わたしもあなたのような時期があった。だから今とても慙愧の念にとらわれている。
かささぎがこのようないやなおもいをさせたひとたちみんなへ、ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。

こんどいらっしゃるときは、どうか本名でおいでください。

ご隠居へ
貴方は時間をもてあましているとても、とても寂しい人だろうと思います。だれも相手にしてくれない。

あなたは、最初に「不思議な魅力あるブログに行きあたりました」と書かれていましたよね。
魅力があったんでしょ。
じゃ~気持ちのよい意見を述べてこのブログを良きほうに導くべきだと思います。

かささぎさんは、とても多忙な方で寸暇を惜しんであなたのお相手をされているのです。

もし、ここが自分のレベルに合わないとおしゃるなら今すぐ自分のレベルに合ったところへお引越しされたらどうですか?

ご隠居。
わたしはあなたに出会ったおかげで、目がさめました。ほんとうに「おかげ」なんです。
見直しもしていなかった戦国百首の元歌に十年ぶりで目を通したんです。そうしたら、いろんな間違いが目にとまりました。
原文をひきだしてきて訂正する時間が今はないのでここに取り急ぎ書いておきます。
まず、仮名遣いの間違い。
これは乙四郎先生が気づいてくださったので、自分の恣意的なミスに気づけました。
植えるは、植ゑるが正しいらしいのですが、天文時代の当時の表記は、植へる、です。そう書かれている。漢字をあてて仮名をかくことを万葉仮名といいますか、それです。だから、かささぎはあれをやったとき、もちろん初めてでしたんで、一挙に自分のなかの「日本語」と対面した気がして、問いかけるかんじで「字を移し」ました。写したのではなく。
うへるのほかに、うき世も、憂き世と表記しましたが、じっさいはうき世です。漢字ではないのです。
意味は通じさせたい、けれども原文も尊重したい。
こんなとき、どうするのがいいやり方なのかを国文学者は学んでご存知であろうと思います。
けれども、わたしはなにもしらないのです。
しかし、それを恥じても仕方のないことで、今から学べばいいことです。
それに気づかせてくださったご隠居には感謝いたします。
で、。
ご隠居。(ほんとはおわかいんでしょ?)

ともさんへ。
ありがとうございます。
ほのぼのとうれしき友のなさけかな。

乱入失礼。

>>ご隠居。(ほんとはおわかいんでしょ?)

傍若無人で精一杯の背伸びと強がりが特徴的だったので中学生くらいかな、と観察していました。

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