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2011年10月 5日 (水)

立花町の盛弘鍛冶工場の包丁

立花町の盛弘鍛冶工場の包丁

普段使いの包丁が、かぼちゃを切ろうとしてぐにゃり。
鋼よりかたいかぼちゃだったのです。笑

ざりがにおっちゃんが母を連れて行ってくれた包丁やさん。
動画入りの紹介記事発見。ゆうめいだったんですね。

http://watashi.blogcoara.jp/cross/2009/10/post-42ce.html

はい、よく切れます。

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コメント

この記事にも,“真剣”身がたりない。

いったい,何が言いたいのだろうか?

橘=立花町は戦国時代の大内文化と密接な関係があり、旧大内邸が保存されている土地柄。
丹波地方から刀鍛冶を召したと何かで読みました。
ここの主は,平姓のお方みたいです。
ご隠居。携帯での閲覧だと、貼り付けたブログが開けませんよね?残念です。
パソコンで、ここをごらんください。
なにがいいたいか、かささぎはご隠居が指摘された大内氏と橘町は密接な関係があると連句的にいいたくて。天文24年は1555年です。

ここです。

上の記事のあるじも書いておられるのですが、いわとやま古墳。天皇にそむいたの、逆賊のという割には、なんで天皇陵墓と並ぶくらいに大きいのを黙認してたんだろうね?
それと。
これは香川よしこ先生もシュネラーに書かれていましたが、なぜ西暦600年以前の歴史がわからないのでしょう。こんなばかなはなしはありません。

【立花町の大内氏】

少なくとも,大内氏の勢力は筑前域まで。

筑後域の立花町に,室町時代大内氏の勢力が広がっていたなどという事は考えられません。

この屋敷は明治初期のもの。山口の大内氏とは直接的な関係は見出せません。

始祖は大内義隆の弟の義信だというのですが,小生そのような人物の存在を知りません。

第一,義隆に弟がいたなどという事も,これまで報告されておりません。

ネットで検索すると,“大内義信”という人物は確かに出てまいりますが,それは鎌倉時代の人で,新羅三郎義光の孫とのこと。

この人物は甲斐の武田氏につながる“甲斐源氏”です。山口の大内氏は“多々良(タタラ)氏”ですから,彼らとはまったく関係ありません。

表面上の見せかけの一致に騙されてはいけません。

そうなのですか。
私は一度もこの旧大内邸をたずねたことがなく、
目下なにも確かなことはわかりませんので、かけません。

あらためて,
【“立花町の大内氏”について】

「戦国時代の大内文化と密接な関係があり」

というのは,具体的にどのようなことを指して言っているのですか。

この発言と,

「私はまだ一度もこの旧大内邸をたずねたことがなく,目下何もたしかなことはわかりませんので,かけません。」

という発言は,大変矛盾しているのですが,訪ねたことがなくても,
“密接”な関係があると主張するのは,何かより確かな情報を持っているからでしょう。

それを是非とも,教えて欲しいものです。どこに研究の材料が転がっているかもしれないのです。

その新しい情報を,“自分”の目で確かめてみたいと思っています。

>少なくとも,大内氏の勢力は筑前域まで。
>筑後域の立花町に,室町時代大内氏の勢力が広がっていたなどという事は考えられません。

豊饒氏を調べていた時に、大内氏の筑後侵略(永正~大永)についての記事を見たことがあります。
   ↓

【大内氏の筑後侵略】

永正〜大永年間(1504〜1520)の大内氏の筑後侵攻はたしかでしょう。

それは所謂“勢力”拡大のためであって,そのことを以て,大内氏の勢力が筑後域に及んでいたなどという事は言えません。

筑後は大内氏が支配している筑前と境を接していますから,勢力拡大のための境目争いのようなことは,それこそ日常茶飯事のようにあったことと思われます。

しかし,最終的には地域(在地勢力)を掌握する必要があるわけで,足利幕府から筑後の守護に補任されなければ支配力は及ぼせません。

結局,筑後一円平定は不可能だったという事です。したがって,筑後域に大内氏の勢力が及んでいるなどという事はないのです。

筑後と周防(山口)の何らかの関係が考えられるとすれば,それは大内氏滅亡(天文21年,1555)後の毛利・小早川氏の時代になって,大内氏に仕えた遺臣(武将)を彼らが召し抱えた結果でしょうか。

その時多少なりとも大内氏縁故の人々は,以後時期や事情は不明ながら“大内”を名乗ることがあったかもしれません。

大内氏が筑前の守護でもあった永正期は大内氏の最盛期で,当主義興は六ヶ国守護,さらには山城の管領代として10年間在京。

義興が京を離れると京の政情が不安定になるというので,将軍から慰留され,結局彼は10年間一度も帰山しなかったというのです。

当主が留守状態の山口には当然のことながら,それぞれの国から守護代ほかが山口の政庁に輪番で詰め,政権を維持していたのです。

「有名な『筑後将士軍談』の著で、久留米藩士の矢野一貞翁は、夜明の清浄寺・江上の九品寺・城島の市ノ恵比須・土甲呂の住吉社・楢林の七社権現などの由緒書に、
『豊後大友義隆の家老 豊饒美作入道永源 大永六丙戊年
などと書いてあるのをみて、義隆は義鎮(宗麟)の誤りではないかと、疑っていられるが、これは周防の大内義隆の誤りとするのが、正しい.永正から大永にかけての大内氏の筑後侵略の時、豊饒氏は早くも大内氏の軍門に降つていたが、なにさま、大友氏の筑後督軍の家だから、表面は大内氏に従いながら、内実は大友氏えの節義を変えず、折があつたら、大内氏の圧力を跳返して、叩き伏せようというのが、永源入道の心境であつたろう.豊饒氏の上妻郡兼松城への移住は、その年代が明らかではない.永禄七年、大友宗麟が下田城主堤越前守貞元を攻めたとき、大友氏に協力した三瀦郡の土豪のうちに、城島氏と並んで豊饒氏の名前が見えるから、この時までは城島に居たと思われる.大内氏滅亡の後、その勢力を一手に攻めた毛利元就も、筑後にまでは進出できなかったから、豊饒氏のごときは、先頭第一に大友氏に復帰したに違いない.
 豊饒氏の時代になっても、城島の一角に居住していた城島氏は、天正八年の頃は、西牟田氏と共に、早くも竜造寺の幕下に降つていた.その二年前、天正六年三月に調製された『大友幕下筑後領主附』には、すでに豊饒氏は上妻郡兼松城主として記録されているから、豊饒氏が城島を去つたのは、永禄七年から天正六年にいたる間のことである.」 ↓

【訂正ならびに補足】

先ほどの小生のコメント中の大内氏滅亡の西暦に間違いがありましたので訂正いたします。

天文21年(1555→1552年)

なお,以前から気になっている事ですが,大内氏の領国でない肥前域に大内氏が自らの祖であると主張する百済の聖明王を祀る神社がいくつかある事です。

大内氏の領国内の周防,長門を除く,例えば筑前,豊前,安芸,石見といった国でもそのようなことを聞きません。

この事実からすれば,肥前域における聖明王を祀る神社と大内氏の関係はなさそうに思われます。

大内氏の祖先伝承にも消長があり,いつの時代にも内容が一定しているわけではありません。

なお,大内氏は自らの祖を聖明王の第三子琳聖太子だと主張していますが,日朝両国の史書にその存在は確認出来ません。

立花町 鍛冶屋

わお。三位。ほんとによく切れるとです。

華丸・大吉の「なんばしようと」に、出ておられたように思います。
切れ味のよさそうな包丁でした。

さいきん、ねだんがあがりました。

滞在時間 6分46秒 閲覧ページ数 3ページ 参照元 立花町鍛冶屋

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