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2011年10月 3日 (月)

ぶねうとぶねい、小野洋子の血族からも似たような説、談義。

コメント

【なお訂正,さらに思い付くままに】

昨日(1日)の【思い付くままに】と題したコメント中の次のフレーズ

「15世紀山口への勧請」は
「16世紀・・・・・・」の間違いでした。訂正致します。

それにしても,筑後(岩戸山)への皇太神宮勧請には秘められた何か(策謀?)を感じますが,皆様の関心はそういった方面には向かっていないようですね。(~はい、すみません。姫野注)

周防山口への皇太神宮勧請と筑後岩戸山への勧請には,それぞれに当時の領主他の思惑があったようですが,筑後のそれには勧請の[主体]が不明という不思議な状況があります。どうして皆さんの関心は,そういった所に向かわないのでしょう。

矢野一貞が地元を精査して『筑後将士軍談』を著し,藩主に献上した頃,当時の好古癖のある人士の間では人形原の石人の事はかなり話題になっていたようです。

そのことを窺わせるものに下記有馬泰賢が天保9年(1839)9月,豊前中津の浄土真宗正行寺の雲華上人に“石人”を贈った時に添えた記文があります。当然,雲華上人もそれに答えた記文を残していると思われますので,ただ今探索中です。

向井去来等の現地訪問は,あくまでも人形(石人)そのものを見ることが主たる目的であって,皇太神宮参拝が目的ではありません。

彼らが訪れた時の皇太神宮の状況はまったく不明ですので,野田泉光院の『日本九峯修行日記』や矢野一貞の『筑後将士軍談』に拠るしかありません。前者には当時の各地の状況が様々に記されており,興味深いものがあります。

現在の状況から過去もそうだったのではという類推を重ねて成り立った,いかがわしい“風説”が世には横行しているようです。

あくまでも[自分の目でモノ(物,者)を見,自分の頭で考える]ことが必要です。基本的な部分を人の目に頼るというのは研究の邪道です。
(つづく)

【先ほどのつづき】

『天照皇太神宮開記(ママ)抜書』には岩戸山の皇太神宮が,当時地元の人々の熱心な信仰を集めていたかのような説明がなされていますが,他よりの訪問者向井去来や野田泉光院の記述にはそういった事を裏付けるものは無く,ましてや岩戸山と磐井を結びつけるものは皆無です。
後者(『日本九峯修行日記』)には“藪神”という久留米藩家老の大変な言(認識)が紹介されています。
さらに,同書は家老が筑後地方巡視の際“落馬”したとの興味深い事実を記しています。

これらの発言や事実は『天照皇太神宮開記抜書』に見られるという豊饒美濃守の発言他とも共通しています。
時代は異なりますが,両者は同じ“認識”を示しているのです。そのことを記憶に留めておく必要があります。

この家老というのは,先に記した国元家老であった有馬泰賢のことと思われます。
家老のこの言は,岩戸山の皇太神宮が当時藩からどのような扱いを受けていたかを物語る貴重な証言です。
簡単に言えば,藩から公認されていなかったという事です。

つまり,藩に届けたきちんとした祠官がいて,藩からいくばくかの禄が給されていたという事ではないようです。
当然,『神社明細帳』のようなものにも登載されていない,言わば“淫祠”の類いであったという事です。

こういったものは,幕末に盛んになる“淫祠”祭祀論争により整理の対象になり,破却されるのですが,岩戸山の皇太神宮は由緒・由来は不明ながら祭神(天照大神)の故に整理の対象とはならず,半ば黙認されていたという事でしょう。

という事になると,当然天文年間はどうであったのかという事になりますが,瑞垣をきちんと結いめぐらした壮大な規模のお社があったとは到底思われません。(はい、どっちかというと今もしょぼいお宮です。ああばちあたりなかささぎをかみよ、ゆるしたまへ。姫野注)

もし,そうであったなら現在でも歴代の藩主が寄進した神宝のようなものが残り,とっくの昔に八女市の文化財に指定されていたはずです。
『福岡県神社誌』にはこのお宮についてどのような由緒を記し,福岡県神社庁や神社本庁はどのように扱っているでしょうか。

今後は『天照皇太神宮開記(ママ)抜書』そのものを精査する必要があります。
他にどのような記述が見られ,それらに就いての信憑性が問題になります。

ここまで来ると,小生にはこの上記『抜書』は幕末になって当時の祀官が当時の伝聞他を基にして記した造作の産物ではないかと思われるのです。
その背景には当時盛んになった“おかげ参り”の影響があるのかもしれません。

それはさておき,小生は『天照皇太神宮開記抜書』のタイトルに誤字がある(開基→開記)ことが当初より気になっています。

神官や僧侶というのは,当時にあってはかなりな知識人です。
その一人である岩戸山の太神宮の祀官の記したものに誤字,しかも“開基”というかなり大事なそれに,そういったものが見られるという状況は,我々に何かを示しています。

幕末の文久3年(1863)の“8月18日の政変”で三條實美をはじめとする“七卿”が長州藩を頼って西下し,うち5名は最終的に太宰府に落ち着き,天満宮の社坊“延壽王院”で数年間を過ごします。
その幽閉の間彼らは近在を訪れていますが,その時彼らの一人でも岩戸山の太神宮に参詣しているでしょうか。そのような話を聞きません。
こういったことにも,事の何たるかが現れているのです。

作品に就いてあれこれ想像をめぐらすことも結構ですが,小生がこれまで縷々述べた作品の背景を成す事柄に就いても考えないと,とても『百首和歌巻』奉納の真相には迫れないと思われるのです。

八女市の本件に対する文化財指定のあり方は,『百首和歌巻』奉納の背景を殆んど考えていないという意味において問題があります。

市町村教委の職員は文化財等の専門家ではありませんから,指定にあたっては審議するための専門家が委嘱されているのです。
しかしながら,どうもこの専門家のレベルに問題があるように思われます。(一応完)

百済武寧王と日本の皇室との関係を検索していたら「加瀬英明の談話室」という掲示板がヒットしました。
そのタイトルツリーの中に、
『2008/12/21(日)16:27 - 武寧◆豊穣(ぶねう)』
というのがありました。
そのあたりの書き込みを見ても武寧と豊穣との関係はよくわかりませんでしたが、加藤氏は何らかのアプローチで、武寧と豊穣(ぶねう)に関連性を見出したのでしょう。
なお、加藤氏は、そのあたりの書き込みで、次のような説を披露されておられます。
~~~~~~~~~~~~~~~
市辺押磐皇子の子、橘王だと思われる第13代百済王の武寧王は、AD・502年に40歳で即位している。
武寧王の前は、雄略天皇の子、磐城皇子だと思われる東城王である。
 ならば、武寧王は即位前の501年までは、北九州に住んでいたのかもしれない。この時代は、日本は武烈天皇の治世である。
 武寧王は、筑紫君の領地で生活し、筑紫君の軍事支援を受けて百済王となったのであろう。
~~~~~~~~~~~~~~~
武寧王=橘王という説です。

二十八  盧橘(ろきつ)   宗右
夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花

二十八  盧橘(ろきつ)   宗右
夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花

の本歌はこれじゃないでしょうか。
宗右さんの教養はグーグル検索並み。
「古今集」(よみ人しらず)
さ月まつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする
「新古今集」(俊成女)
たちばなのにほふあたりのうたたねは夢もむかしの袖の香ぞする

加瀬英明さんというお方は存じ上げませんでしたが、Wikiにありました。オノ・ヨーコさんの従兄弟だって。

【あらためて】

一つ前のコメントで一先ず終了の予定でしたが,これまでのは言わば“序の口”。これからが本番です。

普段ちょっと“考えすぎ”じゃないのと思われている節もないではない小生ですが,小生に言わせれば,反対に人はどうして何も疑問に思わないのかと思っているのです。

それにして,この不思議で魅力的なブログに出会ったのは先月の26日。まだ10日も経っていないのです。

実はその間携帯を修理に出し,慣れない代替の機械で文章を打っていたのです。

電話機は一昨日返ってまいりましたが,200ばかり登録していた単語とスケジュールのデータは悲しいことに復元出来ませんでした。

その間,思いがけないことに杉山洋氏のブログ『善知鳥吉三の八女夜話』にも出会わせて頂きました。こういった諸々に感謝せざるを得ません。

今伊勢社奉納『百首和歌巻』という不思議な作品に出会わせて頂き,作品そのものは実見しないながらも,その背後に広がる何やら不思議な“ミステリー”の謎解きをさせて頂きました。

結果,想いも懸けない事態が見えてきたように思われます。そしてそれは古代また中世末,さらには江戸,そして現在へと小生を誘(イザナ)い,複雑に絡み合って眼前に広がっていきました。

まさにデカルトの『我思う,故に我あり。』を日々実践して,主体的に生きている小生ならではの“予期せぬ”出会いがあったのです。

しかしながら,この出会いのドラマは始まったばかりで,今後どのように展開していくのか予想もつきません。

更なるより確かな“果実”を求めての旅,丸山豊氏の組曲『筑後川』の一節にある「未知の国々への旅行」が始まっているのです。

さっそく杉山氏の『岩戸山物語』と矢野一貞『筑後将士軍談』,そして『雲華上人遺稿』の手配をしました。

したがって,また近日中には新たな見解を示すことが出来るかと存じます。それまでお楽しみにお待ち下さいますよう。

【訂正】

先ほどのコメント,かなり注意して送信したつもりですが,あらためて読み直してみると,

「それにしても」の“も”が落ちています。

“ま抜け(間抜け)”でなくてよかったと思いますが,以後注意したいと思います。

ひ~~
一昨夜と昨夜、二晩続きで仕事が九時をすぎ(説教をくらっていた)、さすがにひっくりかえっていました。今ひらくと。
おもしろすぎる展開になってます。救われる。

ぶねうとぶねいおう。
私だけと思ったのに、おなじことおもう人がいたなんて。小野洋子のいとこさん。ルーツ探しをなさってるのですね。小野一族。ここですね。まだ出ますか。↓

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-b4e3.html

 
ご隠居。あなたさまも杉山のおんじいと同じく、きっちりと話をつめるお方でいらっしゃる。気に入った。

たちばなといえば、袖の香と縁語ですね。

えーと。今朝の朝刊星野椿選の1位の句。
仮名づかい、まちがってましたね。
音便変化の、「い」でいいのに、「ひ」となっていた。
椿先生、指摘もなさらず、ふとっぱら。
でもたしかに、いい句なんです。

足音が付ひて来る頃竹の春  朝倉 浅川走帆

本歌取りの場合、本歌にないオリジナルな部分が作者の作意ですよね。
「とふ」「そのまま残る軒の」は、暗喩がなければ何のこっちゃです。

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コメント

こっちへおいでいただき、ありがとうございました。

大分県立病院の所在地は大分市豊饒(ぶにょう)です。

ぶねうは地名でもあるのですね
入学式、専攻科代表はあいうえお順の先頭の人みたいでした
一万田という名前の人がいました

一万田はいちまだ、と読み、過去に、一万田日銀総裁という人がいました。偉大な人で、一万田法王と呼ばれていたそうです。まるでローマ法王並に強い権限が発揮できるようなある種のちからがあった。
クリスチャンでないのに、国際基督教大学設立に際してたくさんの募金を集めた人として名を残しています。
以上、にわか仕込み。
▼日銀総裁のお勉強

白川総裁から黒田総裁へ、白が黒になりました。
好意的に書いてる記事↓

有馬泰賢が雲華に石人を贈るときについてた記文なんてあるんですか?

.
ありまやすかた、この人ですね。↓
雲華、は、うんかじゃなくうんげ。うどんげのようなひびきで、お寺の内装によくみかける装飾を連想させる名前です。
以下、引用。

大含(だいがん、安永2年4月1日(1773年5月21日)- 嘉永3年10月9日(1850年11月12日))は、江戸時代後期の浄土真宗(大谷派)の僧。豊後国満徳寺で生まれ、豊前国古城正行寺鳳嶺の養子となる。別名、末広雲華(すえひろうんげ)。

東本願寺の高倉学寮(現・大谷大学)に入って修学し、1834年(天保5年)、講師職(現在の学長に当たる職)に就任した。詩文・書・絵画に秀で、儒学者頼山陽・南画家田能村竹田などと交流があった。

せきじんさん。コメントありがとうございました。
このような鋭い質問に、資料を提示しつつ、満足いただける回答をさしあげるためには、広大無辺の知識がいるだろう。
かささぎにはわかりません。しかし、あのおかたならごぞんじかもしれません。
しばらくまっていてくださいね。
杉山洋先生にきいてみます。

ありがとうございます。日田の石人については興味があって、コツコツ調べています。
読み返してみると質問が正確ではなかったです。有馬泰賢が雲華に石人と一緒に渡した文書は、日田の郷土史家がまとめた『日田金石年史』にあります。ただそれは、大正何年かに大分新聞(今の大分合同新聞)に掲載されたものを転載したものでして、原本の所在は不明です。原本を四方八方探していたので、ブログの記述に目がとまり、質問させていただきました。
あと、久留米史の所属だったと思うのですが、有馬泰生家文書というのがあって、これは有馬泰賢の家の文書のようですね。ここに有馬泰賢と石人や岩戸山と関係する文書がないものかと睨んでます。ただ、私は大分在住でなかなか久留米に行けず、悩ましいです。
日田の石人を通じて久留米や矢野一貞にも興味を持ちました。また色々教えてもらえればと思います。

わわわ。おはよございます!
ごめんなさいよ、まだ杉山洋先生にたずねていません。

たずねるためには、先生の書かれているブログ記事のうち、岩戸山古墳カテゴリーをすべてよんでからにしたい。(だから時間かかります)
ああそうだ、。
石人さんもそうなさいませ。
杉山洋先生のブログより、「九十の感慨」↓

杉山先生のブログ、見てみます
岩戸山のことなどをしている方なんですね

杉山先生は善知鳥吉左さんのことなんですね。ブログは、いくつか読ませてもらいましたし、コメントを投稿させてもらいました。

せきじんさん。とうてば、変換は石刃さんになってしまう。
杉山先生へ伝えたかったコメントは、学長ブログ転載本文にいれこみました。笑

なにかわかりますことを!

学長ブログてなんですか?

トップ記事です。ご覧下さい。

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