無料ブログはココログ

« 平成24年診療報酬・介護報酬改定(67)         総医療費36兆円、平成21年度の国民医療費 | トップページ | いわとやま  馬場ゆかりさん優勝おめでとう! »

2011年10月 2日 (日)

八女の岩戸山古墳の上にある伊勢宮、いつ誰が勧請したのか。談義。

「ご隠居」のコメントとそれにちなむ連句的コメント集成

【思い付くままに】

「「伊勢宮の流浪」にも八女は出てこなかった」という発言を見て。

貴女がお調べになった伊勢宮の流浪は崇神、崇仁天皇時代の古代の事であって、話の舞台は大和を中心とする近畿地方の事。したがって、いくら八女市に中世に勧請された皇太神宮があろうとも、そこに九州地方の八女市が登場するはずはありません。

皇太神宮は皇室が皇室の祖先神を祀る神社ですから、民間の人間が勝手(自由)に勧請し、祀ることは許されません。そういった点が他の神社と根本的に異なる所です。

したがって、そういったお宮が地方に鎮座しているという事にはよくよくの事情がなければなりません。永正17年(1520)周防山口に勧請されたのが日本で初めてと言われています。

そして以後山口では戦時中の中断はあったものの、伊勢同様20年毎の式年遷宮が行われているのだそうです。

15世紀山口への勧請を可能にしたのは、何と言っても山城の管領代を兼ねて幕政の実権を握っていた六ヶ国守護大内義興(1477〜1528)の政治力が大きかったと思われます。

さらには、当時皇室が衰微して式年遷宮もままならず、さらには天皇即位の儀式も行えず、大内氏他の有力守護大名が即位料を献じて、やっと行ったといった事情もあったようです。

最近知ったことですが、毛利家では幕末まで朝廷に対して年初、歳暮の礼を欠かさなかったようです。

したがって、幕末維新回天の大業が長州より起こり、文久3年(1863)8月18日の政変で三條實美をはじめとする“七卿”が長州を頼って下向したのも、みんな大内氏の時代の尊皇の意識と深い関係があったのです。

それにしても、八女の太神宮はいつ誰が勧請したのでしょうね

こんにちは
風浪宮は大川市酒見の「おふろうさん」があります。 子供の頃お正月によく行きました。
wikiを見たら192年に神功皇后が三韓征伐の帰りに・・とありました。

※えめさんは、連句の連衆です。
古代のことや地方の名所旧跡にくわしいまれなるお方です。
先日の合宿をまとめた写真ルポがとってもすばらしい。
ここをごらんください。
1 八女福島燈篭人形見物http://hatue62.seesaa.net/article/227692113.html
2矢部川下流の流れ橋http://hatue62.seesaa.net/article/228178287.html

「軒」の意が気になります。http://nihonshoki.s317.xrea.com/sh9_17.html
「天皇臨軒」という語がいくつか検索で引っかかりました。軒を臨む、と字面通りの意味かもしれませんが、天皇が位を授与するくだりの頭に「天皇臨軒」とある用例(↓)があります。「軒」に特別の意味がありそうです。

「臨軒」を検索したところ「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒(あめのしたしろ)しめしし天皇」という読みを括弧書きした用例にぶつかりました。
確かに「軒」は雨の滴るところですので、「天の下」の婉曲表現かもしれません。
あめのしたしろ、あめのしたしらす、を読みとする用例に、次のものがありました。
持統天皇:「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」
欽明天皇:「斯帰斯麻宮治天下天皇」
敏達天皇:「他田宮治天下天皇」
仁徳天皇:「纒向玉城宮御宇天皇」
推古天皇:「自磯城嶋宮御宇天皇」
仲哀天皇:「穴門豊浦宮御宇天皇」
景行天皇:「纏向日代宮御宇天皇」
皇極天皇:「明日香川原宮御宇天皇」
舒明天皇:「近江大津宮御宇天皇」「浄御原宮御宇天皇」
孝徳天皇:「磯城嶋宮御宇天皇」「訳語田宮御宇天皇」「小墾田宮御宇天皇」「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」
天武天皇:「飛鳥浄御原大宮臨軒天皇」
宣化天皇:「檜隈宮御寓天皇」
どの用例も、○○宮という形容があって、「治天下」「御宇」「臨軒」「御寓」を「あめのしたしろ」「あめのしたたらす」と読み、「天皇」(すめらみこと)に被せています。
他に類似用例に、読みはわかりませんが、
継体天皇:「石村玉穂宮大八洲所馭天皇」
崇神天皇:「斯貴瑞垣宮大八洲所馭天皇」
があります。
八女百首で多用されている「軒」は、雨の滴(あめのしたしろ)で、「君」「天皇」「神」などの天下を治める存在の象徴だといえそうです。
「治天下」を「あめのしたしろ」と読んだ古い例は稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣「治天下獲加多支鹵大王(あめのしたしろしめすわかたけるのおおきみ)」(471年)みたいです。

(蛇足)
明智光秀は「ときは今あめがしたしる五月かな」と詠み、豊臣秀吉は夏日待で「軒のたままつ」と詠みました。

これぞ暗喩の夏です。
のきといい、えんといい、ふかいことばですね。

軒。
檐。

わたしはいまなおわすれることができない。
東郁子氏(明雅先生の奥様)の脇句です。

 檐傾けて木の実降り継ぐ  東郁子

のきとはよまず、エンとよみたいかささぎです。

式年遷宮、檐付祭(のきつけさい) 。↓

http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE#.E6.AA.90.E4.BB.98.E7.A5.AD

この中の暦のことば。
なぜ20年毎なのか、という理由。

  1. 旧暦の「朔旦冬至(さくたんとうじ)」(11月1日冬至にあたること)が、19から20年に一度の周期(メトン周期)であるため。

追伸。

ご隠居さまへ

杉山洋先生のお考えは、自分の思いをさしはさまず、資料に語らせる、というものだと思います。それは正しいと思います。
で、なぜぶねう鑑述はあのような和歌を奉納したのか。
「伊勢宮へ不敬をしてのたたりをわびるものであるにしては、深刻ではない。」
とかかれていましたが。
深刻とはどういう意味でしょうか。
私は芭蕉が地元の神社へはじめて奉納したものを連想します。
>寛文12年(1672年)、処女句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。

これ、エッチでもあるようなもので、無邪気な遊びの俳諧というべきものでした。
奉納することに意味があった。あるいは神前でたのしく遊ぶことに意味があった。
あのはだか踊りをしてみせたあまのうずめのこころと一脈かよう。
古式に則るということでは。
よく調べていませんので、軽々しくいえることではありませんが、すべてこれからです。
深刻にならず、たのしくしらべましょ。

« 平成24年診療報酬・介護報酬改定(67)         総医療費36兆円、平成21年度の国民医療費 | トップページ | いわとやま  馬場ゆかりさん優勝おめでとう! »

コメント

【なお訂正,さらに思い付くままに】

昨日(1日)の【思い付くままに】と題したコメント中の次のフレーズ

「15世紀山口への勧請」は
「16世紀・・・・・・」の間違いでした。訂正致します。

それにしても,筑後(岩戸山)への皇太神宮勧請には秘められた何か(策謀?)を感じますが,皆様の関心はそういった方面には向かっていないようですね。

周防山口への皇太神宮勧請と筑後岩戸山への勧請には,それぞれに当時の領主他の思惑があったようですが,筑後のそれには勧請の[主体]が不明という不思議な状況があります。どうして皆さんの関心は,そういった所に向かわないのでしょう。

矢野一貞が地元を精査して『筑後将士軍談』を著し,藩主に献上した頃,当時の好古癖のある人士の間では人形原の石人の事はかなり話題になっていたようです。

そのことを窺わせるものに下記有馬泰賢が天保9年(1839)9月,豊前中津の浄土真宗正行寺の雲華上人に“石人”を贈った時に添えた記文があります。当然,雲華上人もそれに答えた記文を残していると思われますので,ただ今探索中です。

向井去来等の現地訪問は,あくまでも人形(石人)そのものを見ることが主たる目的であって,皇太神宮参拝が目的ではありません。

彼らが訪れた時の皇太神宮の状況はまったく不明ですので,野田泉光院の『日本九峯修行日記』や矢野一貞の『筑後将士軍談』に拠るしかありません。前者には当時の各地の状況が様々に記されており,興味深いものがあります。

現在の状況から過去もそうだったのではという類推を重ねて成り立った,いかがわしい“風説”が世には横行しているようです。

あくまでも[自分の目でモノ(物,者)を見,自分の頭で考える]ことが必要です。基本的な部分を人の目に頼るというのは研究の邪道です。
(つづく)

【先ほどのつづき】

『天照皇太神宮開記(ママ)抜書』には岩戸山の皇太神宮が,当時地元の人々の熱心な信仰を集めていたかのような説明がなされていますが,他よりの訪問者向井去来や野田泉光院の記述にはそういった事を裏付けるものは無く,ましてや岩戸山と磐井を結びつけるものは皆無です。
後者(『日本九峯修行日記』)には“藪神”という久留米藩家老の大変な言(認識)が紹介されています。
さらに,同書は家老が筑後地方巡視の際“落馬”したとの興味深い事実を記しています。

これらの発言や事実は『天照皇太神宮開記抜書』に見られるという豊饒美濃守の発言他とも共通しています。
時代は異なりますが,両者は同じ“認識”を示しているのです。そのことを記憶に留めておく必要があります。

この家老というのは,先に記した国元家老であった有馬泰賢のことと思われます。
家老のこの言は,岩戸山の皇太神宮が当時藩からどのような扱いを受けていたかを物語る貴重な証言です。
簡単に言えば,藩から公認されていなかったという事です。

つまり,藩に届けたきちんとした祠官がいて,藩からいくばくかの禄が給されていたという事ではないようです。
当然,『神社明細帳』のようなものにも登載されていない,言わば“淫祠”の類いであったという事です。

こういったものは,幕末に盛んになる“淫祠”祭祀論争により整理の対象になり,破却されるのですが,岩戸山の皇太神宮は由緒・由来は不明ながら祭神(天照大神)の故に整理の対象とはならず,半ば黙認されていたという事でしょう。

という事になると,当然天文年間はどうであったのかという事になりますが,瑞垣をきちんと結いめぐらした壮大な規模のお社があったとは到底思われません。

もし,そうであったなら現在でも歴代の藩主が寄進した神宝のようなものが残り,とっくの昔に八女市の文化財に指定されていたはずです。
『福岡県神社誌』にはこのお宮についてどのような由緒を記し,福岡県神社庁や神社本庁はどのように扱っているでしょうか。

今後は『天照皇太神宮開記(ママ)抜書』そのものを精査する必要があります。
他にどのような記述が見られ,それらに就いての信憑性が問題になります。

ここまで来ると,小生にはこの上記『抜書』は幕末になって当時の祀官が当時の伝聞他を基にして記した造作の産物ではないかと思われるのです。
その背景には当時盛んになった“おかげ参り”の影響があるのかもしれません。

それはさておき,小生は『天照皇太神宮開記抜書』のタイトルに誤字がある(開基→開記)ことが当初より気になっています。

神官や僧侶というのは,当時にあってはかなりな知識人です。
その一人である岩戸山の太神宮の祀官の記したものに誤字,しかも“開基”というかなり大事なそれに,そういったものが見られるという状況は,我々に何かを示しています。

幕末の文久3年(1863)の“8月18日の政変”で三條實美をはじめとする“七卿”が長州藩を頼って西下し,うち5名は最終的に太宰府に落ち着き,天満宮の社坊“延壽王院”で数年間を過ごします。
その幽閉の間彼らは近在を訪れていますが,その時彼らの一人でも岩戸山の太神宮に参詣しているでしょうか。そのような話を聞きません。
こういったことにも,事の何たるかが現れているのです。

作品に就いてあれこれ想像をめぐらすことも結構ですが,小生がこれまで縷々述べた作品の背景を成す事柄に就いても考えないと,とても『百首和歌巻』奉納の真相には迫れないと思われるのです。

八女市の本件に対する文化財指定のあり方は,『百首和歌巻』奉納の背景を殆んど考えていないという意味において問題があります。

市町村教委の職員は文化財等の専門家ではありませんから,指定にあたっては審議するための専門家が委嘱されているのです。
しかしながら,どうもこの専門家のレベルに問題があるように思われます。(一応完)

百済武寧王と日本の皇室との関係を検索していたら「加瀬英明の談話室」という掲示板がヒットしました。
そのタイトルツリーの中に、
『2008/12/21(日)16:27 - 武寧◆豊穣(ぶねう)』
というのがありました。
そのあたりの書き込みを見ても武寧と豊穣との関係はよくわかりませんでしたが、加藤氏は何らかのアプローチで、武寧と豊穣(ぶねう)に関連性を見出したのでしょう。
なお、加藤氏は、そのあたりの書き込みで、次のような説を披露されておられます。
~~~~~~~~~~~~~~~
市辺押磐皇子の子、橘王だと思われる第13代百済王の武寧王は、AD・502年に40歳で即位している。
武寧王の前は、雄略天皇の子、磐城皇子だと思われる東城王である。
 ならば、武寧王は即位前の501年までは、北九州に住んでいたのかもしれない。この時代は、日本は武烈天皇の治世である。
 武寧王は、筑紫君の領地で生活し、筑紫君の軍事支援を受けて百済王となったのであろう。
~~~~~~~~~~~~~~~
武寧王=橘王という説です。

二十八  盧橘(ろきつ)   宗右
夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花

二十八  盧橘(ろきつ)   宗右
夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花

の本歌はこれじゃないでしょうか。
宗右さんの教養はグーグル検索並み。
「古今集」(よみ人しらず)
さ月まつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする
「新古今集」(俊成女)
たちばなのにほふあたりのうたたねは夢もむかしの袖の香ぞする

加瀬英明さんというお方は存じ上げませんでしたが、Wikiにありました。オノ・ヨーコさんの従兄弟だって。

【あらためて】

一つ前のコメントで一先ず終了の予定でしたが,これまでのは言わば“序の口”。これからが本番です。

普段ちょっと“考えすぎ”じゃないのと思われている節もないではない小生ですが,小生に言わせれば,反対に人はどうして何も疑問に思わないのかと思っているのです。

それにして,この不思議で魅力的なブログに出会ったのは先月の26日。まだ10日も経っていないのです。

実はその間携帯を修理に出し,慣れない代替の機械で文章を打っていたのです。

電話機は一昨日返ってまいりましたが,200ばかり登録していた単語とスケジュールのデータは悲しいことに復元出来ませんでした。

その間,思いがけないことに杉山洋氏のブログ『善知鳥吉三の八女夜話』にも出会わせて頂きました。こういった諸々に感謝せざるを得ません。

今伊勢社奉納『百首和歌巻』という不思議な作品に出会わせて頂き,作品そのものは実見しないながらも,その背後に広がる何やら不思議な“ミステリー”の謎解きをさせて頂きました。

結果,想いも懸けない事態が見えてきたように思われます。そしてそれは古代また中世末,さらには江戸,そして現在へと小生を誘(イザナ)い,複雑に絡み合って眼前に広がっていきました。

まさにデカルトの『我思う,故に我あり。』を日々実践して,主体的に生きている小生ならではの“予期せぬ”出会いがあったのです。

しかしながら,この出会いのドラマは始まったばかりで,今後どのように展開していくのか予想もつきません。

更なるより確かな“果実”を求めての旅,丸山豊氏の組曲『筑後川』の一節にある「未知の国々への旅行」が始まっているのです。

さっそく杉山氏の『岩戸山物語』と矢野一貞『筑後将士軍談』,そして『雲華上人遺稿』の手配をしました。

したがって,また近日中には新たな見解を示すことが出来るかと存じます。それまでお楽しみにお待ち下さいますよう。

【訂正】

先ほどのコメント,かなり注意して送信したつもりですが,あらためて読み直してみると,

「それにしても」の“も”が落ちています。

“ま抜け(間抜け)”でなくてよかったと思いますが,以後注意したいと思います。

ひ~~
一昨夜と昨夜、二晩続きで仕事が九時をすぎ(説教をくらっていた)、さすがにひっくりかえっていました。今ひらくと。
おもしろすぎる展開になってます。救われる。

ぶねうとぶねいおう。
私だけと思ったのに、おなじことおもう人がいたなんて。小野洋子のいとこさん。ルーツ探しをなさってるのですね。小野一族。ここですね。まだ出ますか。↓
 
ご隠居。あなたさまも杉山のおんじいと同じく、きっちりと話をつめるお方でいらっしゃる。気に入った。

たちばなといえば、袖の香と縁語ですね。


えーと。今朝の朝刊星野椿選の1位の句。
仮名づかい、まちがってましたね。
音便変化の、「い」でいいのに、「ひ」となっていた。
椿先生、指摘もなさらず、ふとっぱら。
でもたしかに、いい句なんです。

足音が付ひて来る頃竹の春  朝倉 浅川走帆

本歌取りの場合、本歌にないオリジナルな部分が作者の作意ですよね。
「とふ」「そのまま残る軒の」は、暗喩がなければ何のこっちゃです。

【なおあらためて】

以下は小生の“小言”です。

これまでのは小生の(単なる思い付きでない)見解を述べたものですが,小生は残念なことに作品の全体は見ておりません。あなた方は見ておられます。

しかしながら,どうしていくら時間が経過しても,

(1)磐井の墓前でとか,
(2)“日待ち”は天皇行事であるからとか,
(3)武寧王が云々とかの,

言わば“内部徴証”によらない思い付きを次々と出して来るのでしょう。

そもそも,『百首和歌』奉納は伊勢社(皇太神宮)に対する不敬を詫びるのが本来の目的であって,豊饒美濃守を始めとする人々に[岩戸山が磐井の墓である]などという認識は初めからないのです。

ないからこそ,そういった考えの入る余地は“全く”ないと申し上げているのです。

この時(他の場合は事情が不明であり,また同じ題の他の場合を考える必要もありません)
「夏日待」という“題”が発句として出されたことの意味が全くお分かりいただけていないようですので,なお申し上げます。

和歌を奉納しようとする季節は四月二十五日。初夏です。(真夏に比べれば)まだ太陽の勢いが盛んな季節ではありません。

伊勢社の祭神は“天照太神”,太陽神です。したがって,この場合の「夏日待」の夏は,単に[夏の日を待つ]という事ではなく,[神である太陽の盛んな夏(真夏)をお待ち申し上げております]という予祝(祈り,願い)の太陽信仰なのです。

これはその背後に,太陽の光が恵みを齎すものであるという認識があると同時に,太陽光の衰え(寒さ)を危惧しているという事でもあるのです。

そして,当然のことながら長い経験の間には火山の噴火やその他の影響による“冷夏”の凶作なども経験しているという事なのだと思います。

ここまで来ると,「待」という文字が人偏の「侍」になっている事の意味もお分かりいただけたのではないでしょうか。
(これに類したことは他にもありますが,今は述べません。)

伊勢の祭神“天照太神”を擬人化しているという事なのだと思います。だからこそ,「侍(待)」という文字の前を一字開けていたりする場合もあるのです。

東明雅氏に,なぜ「夏日侍」と書いて「夏日待」と読む,或いは読めるのかという事をきちんとお尋ねにならなかったのですか。

わざわざ尋ねられたのに,単に氏がそう言ったとか,奥様の〜がこう言ったなどという事は,物事の解決には何の役にも立ちません。
以後は,このような中途半端な態度はお止めになる事です。

学問研究は本来“お遊び”でなく,片手間仕事で出来るものではないのです。

山口誓子に,
「学問の寂しさに耐え,炭を継ぐ」
という句があります。
学問研究は,孤独で寂しいと同時に“厳しい”ものでもあるのです。(一先ず了)

>豊饒美濃守を始めとする人々に[岩戸山が磐井の墓である]などという認識は初めからないのです。
には反論します。
磐井の墓が比定されたのは後世であるとしても、地元では古代から語り継がれていた可能性があるでしょう。
「筑後風土記」に筑紫君磐井の墳墓に関する記述があると、その後に編纂された古文書に記されていますが、少なくともその時代までは「筑後風土記」の現物が存在していたか、その内容が人々の間で継承されていたはずです。
もし筑後風土記の内容が歪められて古事記や日本書紀に紹介され、かつ、捏造の証拠隠滅のために筑後風土記が処分されるような経緯があったのだとしたら、アンダーグラウンドでは、何とかして真実を後世へ伝えようとする口コミが、より強く継承されてゆくのでは。
「釈日本紀」に引用されている「筑後の国の風土記にいう」で始まる部分には、筑紫君磐井の墳墓には石人と石盾が並べられ、東北の隅にある衙頭という区画には、「解部」と「偸人」の石人、石猪、石馬、石の殿、石の倉と、石で作られた造形物があると書かれています。
天文年間まで、ここでは石人や石馬はこれっぽっちも出土していなかったのでしょうか。
今伊勢宮が位置するあたりまでこの「丘」に人の往来があり、雑木林が切り開かれていたのだったら、石人や石馬も発見できたでしょうし、それが口承と一致することぐらいは地元の人々の勘(DNA)でわかるでしょう。
私は、生家が岩戸山の前方後円墳の「前方」の縁上にあり、小さい頃からこの「丘」に親しんでいましたが、ここが古墳であることを学習するずっと以前から、ここに霊的な雰囲気を感じていました。前方と後円のくびれあたりに小さな沼があり、そこには近づくな、みたいな口承もありました。口承はあなどれません。

もうひとつ反論。
>乙四郎氏のコメントには『百首和歌』にキリスト教的なものの匂いを嗅ぎ取っているようですが,フランシスコ・サビエルの来日は天文十七年(1549)のことですから,奉納が癸卯年(1544)とすると,無理があります。
奉納が癸卯年(1544)であれば無理がありますが、天文24年(1556)であれば、大友武将たちの拠点である豊後にザビエルが到着して大友義鎮(宗麟)に会った年(1551)から5年も経っていますので、ちょっとした宗教的な一大事が武将たちの心理にあったとしてもおかしくはありません。
「天文24年」に何の意味もないとは考えにくいので、奉納は天文24年で、そこに記載したタテマエ上の日付を、何らかの意味がある「癸卯年4月25日」としたのだと思います。
似たような議論を「くるす野」の歌の解釈の時にやりましたね。

岩戸山の今伊勢社はお伊勢さんらしくない質素な神社ですが、伊勢の名をいただく前からの古い祈祷所が母体で、古来から、おそらくは磐井の頃から、墓の後円部の頂で太陽神(天照大御神)を祀っていたのではないでしょうか。その本家意識のプライドが、「今」を伊勢に冠した所以かも。(思いつき)
天照大御神を祀る神社で伊勢神宮とは関係ない神社が全国にどのくらいあるのかは知りませんが、八女市黒木町の日向神社はそのひとつです。
日向神社は謎スポットのひとつ。

当時、八女の教養ある武将たちは「俳諧」を嗜んでいます。橋爪鑑実(一萬田鑑実)が「元亀二年 (1571) 正月に俳諧を興行」したらしい。
俳諧の始祖は荒木田守武(1549年没)で、八女百首和歌当時は伊勢神宮内宮の一禰宜でした。
俳諧が本格的に普及するのは芭蕉以降ですから、この当時に俳諧興行をしたというのは、現代に筑後で連句興行をすること以上に珍しいことだと思います。
守武は、内宮史上最悪の財務危機の中、東奔西走していましたが、資金調達のために勧進を行いながら全国を行脚する勧進聖たちが同時に俳諧も広めたというような記録は見当たらないので、守武と鑑実らとの直接の接点があったのではないかと、かつて推理したことがあります。
「夏日侍」なる発句を詠んだ神官がいたとするならば、その神官が守武と近くて、この百首和歌の奉納をきっかけに武将たちへ俳諧を伝えたのではないでしょうか。

伊勢宮のことしか話題になっておりませんが、かささぎはいつも、東の日の宮(伊勢宮)、西の松尾宮
というふうにセットで考えてる。
松尾芭蕉が松尾なのもあって、高良山に岡良山という江戸末期の久留米は山本町だったか、吉井か田主丸あたりの俳人が、わざわざ関西まで出向いて、芭蕉霊神社という小さいながらもれっきとした祠を祀ったこととともに、。
岩戸山の松尾宮は、酒の神さまを祭るというので、八女の酒造家は元旦に必ずおまいりされるときいたことがあります。(えめさんからだったかも。)
矢野一貞の描いたスケッチがありまして、それをみると、当時の岩戸山の様子がよくわかります。
おみやは二つです。
乙四郎がいうように、わたしも、おおいなる存在というのは、それがきえたあとも、ずうっとうしなわれることなくそこにあるものだとおもいます。

一萬田鑑実のウイキぺディアを書いたものですが橋爪鑑実と一萬田鑑実は別人のはずです。同じ名前の大友家臣は複数います。たとえば一萬田鑑実の子である鎮実は斎藤鎮実、森鎮実と三人はいます。なので花押を調べれば判断が出来ます。私もこの八女戦国百首(でしたっけ?)の存在は驚きです。ではしつれいします

ご指摘ありがとうございます。
同時代で「鑑実」なので同一人物だと思い込んでいました。
さて、となると、八女百首の鑑実はどちらの鑑実でしょうか。

うわあ。橋爪鑑実のウイキペディアを書く人!個人がかいてらしたんですね。周牧致広様、なんとお読みすればいいのでしょうか、コメントいただき、ありがとうございます。お聞きしたいことが山ほどありますが、とりあえず。
一度でもあの時代の資料をみたら、鑑と鎮と名前につく侍ばっかりなのにあきれはててしまいます。命がかかっている重みを名前で知らされる。
かささぎの旗は、たまたまそのような武士たちが数人混じる八女のイワイ王がねむる山の上のお宮(今伊勢となづけられていた)に奉納されていた和歌99首を読み解く縁に恵まれただけで、歴史についてはごらんの通りです。
しかし、まわりにはすばらしいセンスをもった仲間がいますし、逃げ出したくても、縁がとらえてはなさない。
こんどの17日は中島くらのすけ翁の感謝祭です。
毎年、倉敷から中島道夫先生がいらっしゃいます。このお方が、和歌の持ち主で、人柱にたたれた吉田山の庄屋さんの直系、八女にとって偉人の子孫です。
私も一度も和歌の現物をみたことがありません。
先生にたのんでみたいものです。
なにか、ひとつでも、たいせつなことがわかればいいのですが。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 平成24年診療報酬・介護報酬改定(67)         総医療費36兆円、平成21年度の国民医療費 | トップページ | いわとやま  馬場ゆかりさん優勝おめでとう! »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31