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2011年9月29日 (木)

八女戦国百首和歌に新たな論客登場を祝し、長々とコメント集成。

コメント

おはようございます。
ふとしたことから,この不思議で魅力あるブログに行き当たりました。

ここ数日色々と読ませていただき,やはり姫野さんが女性であるという確信を得ました。(笑)

俳句をなさる方には「〜子」と名乗る男性もいらっしゃいますので,記事を拝見しながら,文末表現から時に男性のような気もしていたのです。

小生は以前県南に勤めたことがあり,様々な懐かしい場所や事柄が登場するのに惹かれ,カテゴリー別に大半を読ませて頂きました。

記事中にしばしば登場する竹橋乙四郎氏が橋爪章氏であるという事もやっと同窓会の文章の所に至り,了解しました。

八女や黒木を含む筑後一帯は間違いなく何やら大きな魅力を秘めたエリアのようで,日本の古代史の重要な場所の一つです。

橋爪氏には是非とも古田武彦氏の初期の著作『盗まれた神話』と『失われた九州王朝』をお読み下さるようお伝え下さい。
(いくつか版がありますが,角川文庫のがハンデイでお薦めです。しかし,これは既に絶版ですので,古書店の店頭か「日本の古本屋」のサイトで探すしかありません。後者が簡単に早く見つけられるかもしれません。)

古田氏の著作の全ては薦められませんが,初期のものは大いに参考になります。

これからも,しばしばお邪魔させて頂きます。どうか,宜しくお願い致します。
時節柄,ご自愛下さいますよう。不一。

ごいんきょ。
すけさんかくさんはいませんが、どうかくつろいでいっておくんなさいまし。
お茶ひとつさしあげることはできませんが、不出来なかささぎめに、どうかいろいろとご教示ください。
おかげの一句。

「不一」とは虔(つつま)しき鵲(かち)の羽の蒼 

はじめてであったのです、不一↓

http://dic.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&dtype=2&ei=utf-8&p=%E4%B8%8D%E4%B8%80

ハハ~ン、ここですね、原因は。
きょうね、うちのブログにいつもの倍のお客さんが来んしゃったとです。アクセス数を見て驚いた。

なんでだろう?なにもめぼしい記事はないのに・・・と思ったら、ここで、ご紹介してもろうたとですね。なんでこんなに急に人気ブログになったんだろ?とびっくりしましたが、はい、一過性の現象だとわかり、ちょっと安心しました。

百済と日本との関係は、七支刀の謎解き以来、気になっています。
大善寺玉垂宮の由緒書によれば、玉垂命は西暦369年に大善寺に御宮を造営して筑紫を治めた、とあるそうです。
七支刀が「倭王」へプレゼントされた年に起きた出来事です。
古田武彦氏は、百済は九州王朝の遷都を祝って七支刀を贈ったのではあるまいか、と推定しています。
523年以降の数年間は、激動の年です。
(年表)
523年 武寧王崩御(百済)。
524年 聖王即位(百済)。
525年 百済と新羅、国交を結ぶ。
526年 武寧王妃亡くなる(百済)。
継体天皇、初めて大和に入り磐余(奈良県桜井市)に都す。
527年 近江毛野臣、兵六万を率いて新羅に破られた南加羅・喙己呑を再興して任那に併合しようとするが、新羅は磐井に財貨を送って毛野臣の軍を防ぎ止めるよう勧め、磐井の乱が勃発する。
528年 磐井亡くなる。
529年 百済に高句麗が侵入。
530年 近江毛野臣、対馬にて病死。
538年 百済の首都を泗沘に遷都し、国名を南夫餘に変更。
百済から倭に仏教(仏像・経典・僧侶)を伝える。
蘇我氏(崇仏派)と物部氏・中臣氏(排仏派)とが対立。

武寧王陵の陵碑文は次の通りです。
「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安暦登冠大墓立志如左」
古田武彦氏は武寧王陵碑を見学し、その碑面の字の「癸卯」の部分が改刻されており、原刻は「甲辰」であったことを確認したのだそうです。
武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』では癸卯。
古田氏は、干支が一年引き上がった暦が百済では採用されていて、武寧王埋葬後まもなく暦が現行暦に変更され、王妃の埋葬時に改刻された可能性が高いと指摘しています。

『よく分からない話。』

今日の乙四郎氏の「ついに解けた」というコメント(記事)を読みながら,いったい何が解けたのかという疑問を抱きました。

互いの基本認識は,下記2点です。

(1)武寧王が亡くなったのは,
[523年〕6月7日。

(2)『八女戦国百首和歌』が豊饒濃守源鑑述により奉納されのは,[天文卯年(1543)〜]。

したがって,武寧王千年忌は1543年でなく,[523+1000]=1523年でなければなりません。

何か勘違いをなさっていらっしゃるのではと思われますが,あるいは小生の考えに間違いがあるのでしょうか。

昨日のコメントに脱字があるのに気が付きましたので訂正させて頂きます。失礼致しました。

『八女戦国百首和歌』を奉納した豊饒[美]濃守〜。

【気付き】
『八女戦国百首和歌』という書名は元々のものではないように思われますが,いかがでしょう。

それは,今でこそ“天文”年間は戦国時代ですが,当時は“戦国”などという呼称はなかったものと思われます。

したがって,“戦国”の2文字は後世転写の段階で入ったのではと考えられます。

それとも,当該の作品には題名は付されていないのでしょうか。

まだブログ記事の全てに目が通せていませんので,或いは小生の早とちりかもしれません。

>したがって,武寧王千年忌は1543年でなく,[523+1000]=1523年でなければなりません。

干支は60年周期なので、1000年に最も近い60の倍数の1020年を千年に近似してみました。
1000というぴったりの数に美学を求めるか、干支周期に美学を求めるか、の価値観によります。
ちなみに1500年忌は60の倍数なので、12年後の2023年となります。
http://lunabura.exblog.jp/16421532/

>いったい何が解けたのかという疑問

八女の百首和歌の奉納年と干支との間に12年の誤差があった謎がずっと気がかりでした。
気にしてた人はごく数人ですが・・・

そう、それなんです。
十二年の誤差。
これを気にしていたのは、天文歌人という項目を掲げて八女百首和歌を紹介した江戸時代の考古学者・矢野一貞その人。
竹橋乙四郎。この人は調べる人なんです。
おとといのご隠居さまがおすすめくださった古田たけひこ先生のご本はよんでるんじゃないかとかささぎはおもうのですが。
矢野一貞と古田先生と少しかさなるところがある。矢野の研究はずうっと後年になるまで認められなかった。
今から父のところへ服をなげいれて、それから仕事。ではいってきます。
よるにまとめるから。

小生は以下のように考えました。

杉山洋氏の『善知鳥吉三の八女夜話』No.788あるいはNo.789に当該資料の奉納に就いての経緯が記されています。

奥書の奉納年次の干支が12年ずれていることは,確かに問題(不審)ですが,だからといって『抜書』の説明を無視して,新説(武寧王云々)がその不審を解決することになるでしょうか。

(1)『百首和歌』は筆蹟が天文期から江戸前期のように思われますが,干支の筆蹟が本文と同筆なのか否かに就いては現物を見ないことには何とも言えません。本文の手馴れた筆蹟は,連歌師等のプロの手によるものと思われます。

(2)『抜書』は明らかに『百首和歌』よりも時代が下ります。

(1) がオリジナル(原本)であるのか,それとも時代が少し下る時期の写本なのかについては[料紙]等の検討が必要です。

『百首和歌』なのに,一首足りないという状況は,原本書写の際のミスによるのかもしれません。

『開記(ママ)抜書』には「自ら書き奉納」とありますが,現在残る『百首和歌』は明らかにプロの手になるもの。

という事は,当初奉納したものは各自の自筆。後(12年後)にプロの手になる浄書本を再度奉納したという事なのかもしれません。(書写者はそのことをさり気なく示したのだと思われます。)

「武寧王云々」の入る余地はまったくないと思われます。

以前見た大内氏の系図には一番大事な地名に誤記が見られました。しかしながら,それは単なる書写者(プロ)のミスではなく,原本ではない,つまり写し(コピー)であるという事の明示ではないかと思われました。

武寧王に惹かれるのは、武寧王と磐井との同時代・同地域性からです。
百首和歌が奉納された場所が岩戸山古墳の今伊勢宮であるということから、筑紫の君磐井に読み解きの鍵があるであろうというのは自然な推理。
武寧王については、磐井との濃厚な姻戚関係があるという説があること。すなわち、磐井の血縁である可能性があること。
磐井と同時代の、磐井の乱を抑えた継体天皇(507-531)は皇室血縁の正当性に疑義があること。
継体天皇の没直後、空位、安閑天皇、宣化天皇と皇位継承に混乱があったこと。
(継体、安閑、宣化の親子が次々に暗殺されたという説あり)
その後、継体天皇と皇室直系の手白香皇女との間に生まれた欽明天皇(539-571)が即位したが、手白香皇后については武寧王の血縁説もあること。すなわち、磐井の血縁の天皇が即位した可能性があること。磐井のリベンジ。
欽明天皇が即位した直後(欽明天皇元年)、磐井討伐作戦の主犯である大伴金村が失脚したこと。
欽明天皇の時代、百済側の古文書に磐井の後裔の活躍の記録が散見されること。

武寧王の登場の余地はあるのではないかと思います。

ほうらね。乙四郎はなかなか面白いおとこじゃろうが、ご隠居。

あたしはなんも知らんばってん、一つ乙四郎の論点ではっと目がさめるようだったのは、千年紀をまつる、ってのは、西洋の思想かもしれんなあ。ということでした。ミレニアムがどうのって大騒ぎしたのはつい十年前のことでしたよね。
そうそう、あのときさ、なぜ、だれが、大神宮のなかで慶事のお能、神事能といわれる「翁」を舞わせる興行を計画したのでしょうか。それ、わたしはずうっと気になっている。梅若なんとかいう有名なお能の人が舞ったんじゃなかったかなあ。とっても客がおおかった。正月です、たしか元旦かそこら。
二千年だったか、二千一年。笑。すみませんねえ、かささぎ、どうも記憶がぼける。

で、乙四郎がいうように、えとは六十年で一回りする性質があります。華という字には十が六個ありますんで、還暦を華甲ともいいます。それを思えば、むかしの陰暦に暮らしていた人々の意識は今のわたしたちとはまったく異なっていて、それは無意識の次元からまったく違っていたってことです。
六十の倍数で時をはかっていたのかもしれません。よくわかりません。

ただ、すぎやまおんじいのブログをよんでいたら、
松嵜英一氏の遺した読みが手元にある、とありました。それ、ブログに出してくれないでしょうか。
いや、なぜってかささぎは無くしてしまったんだ。
そういうてえげまんげなところがかささぎにありまして、でも松嵜さんの一次解読のそれがあると、自分のよみ解いたところがはっきりすると思って。

それにしても、なぜ松嵜さんは61くらいで亡くなってしまったのでありましょう。おしむべきことです。

いつもおもいます。
すぎやまおんじいブログをよみますと。
なぜかささぎのかいた石橋秀野ノートのこきおろしをやらんのだろうかと。あの性格だし、きっといっぱい突っ込みたいでしょうに。
いまなら、なにをいわれても、かささぎは泣きませんよ。だって、ほんとうに間違いばっかだったから。

それと、ご隠居へ。
八女戦国百首和歌という名前は、そういや、わたしが勝手につけたような気がします。だってさ、ほんとうに戦国時代真っ只中ですからね。
それ、読んでいてもびんびん感じましたよ。どこらへんかって?
憂き世。

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

九十六    述懐    鑑教

かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

九十九   祝言    塩亀

なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん

100首目がないのはわざとないのだとかささぎは思っています。ほら、行き着いてしまったら崩壊があるのみ、という思想で、建築なども完成の一歩手前で寸止めというか、わざと手を抜いた。例、日光東照宮。それとおなじ思想をかれらはもっていた。
えんぎとよむのか、塩亀の最後の挙句(?)は、
歌としてよんだとき、とっても違和感をもったのは、神のめぐみの「はやくして」。
そんなの、みたことない。
まるで、早く早く、かみさま、たすけて!
と呼びかけられている気がした。

これだけの量の歌を、五百年も前の武士たちが今に残してくれたことが、すばらしいと思っています。
まだいくつか書きたいこともございますが。
よみとかせてもらえたことには、感謝するべきか。それとも、なんの因果かと悔やむべきか。

【あらためての考察】

残念ながら乙四郎氏は小生の言う『抜書』に記されている奉納の経緯をまったく考慮せず,武寧王と磐井に就いての思いつきのみから干支のズレを考えようとされています。

杉山氏の『善知鳥吉三の八女夜話』に紹介されている『抜書』は原文そのもののではありませんから問題はありますが,最初奉納されたものは当該部分が「各自の自筆」である寄合書き(分担執筆)だったのだと思われます。

現在残っているものは,全文一人の手になるものと思われますので,『抜書』に云うところとは異なっています。

したがって,現在残っているものは後世(12年後)の再写本(浄書本)と考えるのが妥当だと思われます。

まずは,その資料事実から考えるのが研究の常道だと思われるのです。

『抜書』にあるような経緯に就いての伝承がなく,また豊饒美濃守源鑑述が,例えば周防山口の守護大名大内氏のように,自らの出自を百済系(聖明王の第三子)であるなどと言っているのであれば,武寧王云々も考えられなくはありません。

しかしながら,そのような事実はないように思われます。

収録歌が一首足りないのは,最終の99首目が“祝言”で完結していると思われますので,やはり途中の一首が落ちていると考えざるを得ません。

何はともあれ,現物或いはコピー等拝見したいものです。

今一つ気になるのは,大神宮は
(1)いつ,(2)誰によって勧請されたのかという事です。

皇室の祖神を祀るお宮ですから,他のお宮のようには簡単に勧請出来なかったのです。

『百首和歌』の冒頭(今伊勢寳前)さらには奥書から天文二十四年(1555)には現在地に存在していた事は確かでしょう。

伊勢神宮の最初の地方への勧請は,永正17年(1520)山城の管領代として幕政を牛耳っていた六ヶ国守護の大内義興が後柏原天皇の許可を得て,吉田社の仲介で自らの領国周防山口に勧請したのが最初と云われています。

したがって,それから35年後に筑後に勧請されていたという事実に驚かされますが,直接伊勢からなのか,それとも例えば山口からなのかに就いては考察の余地があります。

ご隠居。
乙四郎の説は、専門家からみたら、単なる思い付きでしかないんですね。ふうん。
ではありましょうが、こうもちょうどのところに時の石(意思)が落ちてたら、なんというシンクロと、わくわくします。きっとなにものかが道案内しているんだろう。
かささぎは昨日寝るとき、ぶねいおうぶねいおうぶねうぶにゅう・・・とごろあそびをやっていて、さいごははにゅうのやどにいきつき、埴生の宿はわ~が~や~ど~と歌って、寝入りました。で、朝おきたとき、ぶねう、ってなんだったっけ、とおもった。
ぶねう。ぶにゅう、じゃなかったぶにょう。ゆたかな尿か?いやちがうぞ。地名でもあるようだな、大分の。・・・そうか!
ほうじょうだった。豊饒とかいて、ぶにょう。でした。今伊勢に歌を奉納した、みなもとの鑑述です。
ぐうぜん音がにているのですね、。

わたしは歴史をしらない、ただ□□□になっていた歌の空白部分を興味にかられてよんだだけの者です。だけど、どういう事情でか、だれも手をつけなかった歌をぜんぶ世に出す仕事にむりやりひきずりこまれてしまった。
それは杉山洋先生のブログをごらんになれば漠然とみえてくるように、八女の文化行政がみずから所有する宝のカチにきづかず、怠ってきたことが偶然あったからです。誰が悪いとかではなくそういうふうになっていた。かささぎがあっさり書いてしまえば、八女の地へおいでになった学芸員さまはよそものでいらしたため、土着のくせのあるいじわるじいさんと気があわず、とうとう仕事において一致協力が図れず、こうなったんじゃないかなあ。すぎやまのおんじい、あるいはその周辺のおのおのがた、この見方はいかが。え?そげんはっきりいったらいかんち?ごめんなさい。
きのうのおんじいのブログよまれましたか。
役場前に秀吉時代のしゃちほこが飾られたとか。行方知れずになっていたのがでてきたそうです。筑紫広門のいた城の。クリスチャンだった殿様です。

【あらためて思い出したこと】

『開記(ママ)抜書』に云う
「自ら書き歌巻一巻として奉納」について,あらためて思い出したことがあります。

明応4年(1495)長門住吉神社に連歌師の飯尾宗祇が『新撰菟玖波集』の完成を感謝して奉納した“法楽百首和歌”は各自自筆の短冊でした。

現在は折帖になっていますが,それは江戸時代初代長門府中藩主毛利秀元の寄附により改められた結果です。

宗祇は大内政弘の手厚い保護を受け,二度周防に下向しています。政弘の推薦により念願の『新撰菟玖波集』の撰者に選ばれ,完成の大任を果たしたお礼に人々に呼びかけ奉納したのです。

後土御門天皇や勝仁親王(後柏原天皇)など三十名の著名な歌人から寄せられたものです。

したがって,岩戸山の今伊勢の寳前に奉納されたものも,最初は現在のような巻子状のものではなく,短冊そのものだったと思われます。

現在八女市の文化財に指定されているものは,おそらく何らかの事情(閲覧の便等)により,短冊を写して一巻にしたものと思われます。したがって,本品に対する副本的性格のものと思われます。

ただ『開記(ママ)抜書』に「歌巻一巻として奉納」という表現から考えると,『抜書』が書かれた時には既に短冊自体は失われていたのかもしれません。

本来神の寳前に奉納するものは,時に右筆(ユウヒツ)の手になるものもあるようですが,原則“自筆”なのです。(以上,気付きまで。)

[追而]
杉山洋氏の『善知鳥吉三の八女夜話』,また貴女様の『かささぎの旗』は大変興味深く,どうしてもっと早くに行き当たらなかったのかと残念に思いました。

貴女の文章中に時々登場する“ぼん”という方,てっきり男性だとばかり思っていました。
まさか女性だったなんて(笑)

>思いつきのみから干支のズレを考えようとされています。
まさに「思いつき」のみです。
ホームランを期待して打席に立っても技量がない打者は凡ゴロが関の山。それでも打者はまぐれ当たりを夢見てバッターボックスへ向かうのです。そんなところにアマチュアの楽しみの多くが転がっています。
観客の期待に応えるべきプロフェッショナルだとそういうわけにはいかないのでしょうが、自分としては、推理小説のプロ作家のような厳しい視点ではなく、推理小説の読者と同じ視点で古代史推理を楽しんでいるだけですのでご容赦ください(でなきゃ、イスラエル十二支族と磐井とを結びつけるような楽しい推理ができるわけがありません)。
ところで、八女99首和歌の特色は、同じ語彙が多用されていることです。(事実)
ここに暗号の臭いを禁じ得ません。(思いつき)
また、歌がそれぞれ独立しているのではなく、出された歌と対を成す歌が多いことも特色です。(事実)
ここにも暗号の臭いを禁じ得ません。(思いつき)
語彙の多用例の代表的なものは「松」です。同音の「待」も併せると、数えきれぬほど。「夏日待」のタイトルの中にもあります。(事実)
これは、鑑述が兼「松」城主であることへの敬意かも。(思いつき)
ところで「松」と題した歌があります。(事実)
八十一  松  弘智
得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ
ここに暗号を解く鍵がありそうです。「君が宿」すなわち正統な皇室のことを「松」と例えて、他の歌を解読せよと言ってるかのようです。(思いつき)
「君」「きみ」が使われている歌には、
一    立春  鑑述
君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ
三    霞  鑑實 
朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき
の対(「君」~「きみ」、「千年」~「ちとせ」、「春」~「春」)をなす歌がありますが、そのほかの歌では、
八十二   竹  宗房
きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思
のみです。(事実)
歌が前後連続している上に、「うへ」~「植へ」、「君」~「きみ」と二つも語が重なっていますので対を成していると考えてもいいでしょう。(思いつき)
ところが、不思議なことに、どちらの歌も「植へ」の送り仮名が「へ」になっています。旧かな遣いでは「ゑ」であるべきところです。(事実)
これは、敢えて「へ」と誤用して、暗号だよ、と強調しているのかも。(思いつき)
「小松」の語彙と「君が代」の歌詞の補完で前後の「君」「きみ」歌と関係性がある次の歌、
二      子日  鑑教
さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め
では「植ゑ」となっていますから、これらの関係歌を対比させると、「へ」が浮き立ちます。(事実)
これは、「得て植へし」ではなく「得て得べし」と読むのが正しいかも。(かささぎ思いつき)
「得て得べし」とは聞き慣れない言葉ですが、キリスト教の「信ぜよ。そうすれば救われる」という重要コンセプトを伝えるのに使われる一節、「すべて祈りて願うことは、すでに得たりと信ぜよ。さらば、得べし。」(マルコ伝十一章二十四節)が想起されます。キリスト教伝来の頃だし、この歌に「神」の語彙が同居してるので、キリスト教がらみの暗号だといえなくもない。(思いつき)
この歌以外で、99首和歌で「神」が登場するのは、
十九    三月盡  孫七
伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春
四十八    月  塩亀
あまてらす月を清水にうつしきて
猶かけまつる伊勢の神垣
六十四  神楽  覚元
祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽
九十九   祝言    塩亀
なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん
の四首です。(事実)
「祈てふ事はおろかにあらじ」にもキリスト教の匂いを感じます。キリスト教はこんなこと言ってるけど、昔からの「神」に守られているのだと。(思いつき)
こんな風に、歌と歌とが何らかのキーワードのもとに網の目のように繋がっています。磐井に関連する歌というのであれば「岩」「祝」などもキーワードかも。(思いつき)
一    立春  鑑述
「君が代」のためしにすめる「千年」川
かはらぬたねに春や立つらむ
二      子日  鑑教
「さゝれ石の」庭に小松を引き植ゑて
「苔のむすまで」友とこそ見め
と、最初の2首に「君が代」の歌詞がてんこ盛りですが、なぜか「いわお」が隠されています。この99首は隠された磐井の真実を伝える暗号だよ、というサインかもしれません。(思いつき)
99首の中で「岩」が使われているのは、
十七    藤  宗右
岩に生ふる松にかゝれる藤なみも
をのれくだけて春ぞ暮けり
九十八    尺教(釈教) 宗右
岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ
の2首で、「祝」は、トリ歌の題(「祝言」)として使われています。(事実)
「岩に生ふる松」は磐井に始まる皇紀、「岩つたふ」は磐井の血が伝わっている、という解釈もありかも。「藤なみ」は天皇とりまきの藤原氏でしょうか。(思いつき)

隠居さまのおかげで、「思いつき」がパワーアップしてきました。

こんにちは。
合宿の件でと覗いてみたら「ぶねいおう」一色でした(笑
内容に関してはこの場で言葉をはさむ余地もありませんが。。

「思いつき」

私はこの言葉はとても素晴らしいものと感じます。
一筆書きが云々・・歴史や考古学、いずれも証拠となるものは「点」でしかなく点と点を結ぶ重要な要素は直感(思いつきから)始まると思います。決して「点」を無視しているものではなく、アプローチの違いというものでしょうか。。。
「思いつき」から「点」を繋げるのが先か「点」を積み上げて検証を重ねていくのが先か。。今のこの場で脳で議論をしても互いに求めるものは、なかなか交わりにくいかと思います。

仮に論理的考察を基点として捉えるも、実際に点と点を結びつけているのは人の感性。その「点」が本当に確かなものか。。仮に同様記載の文書が異なる場所に複数存在したとしても、いくら検証をしても当時の大きな文化的・政治背景からの時の権力者や人々の「思惑」や「成り行き」まで「点」の証拠を積み上げていく論理的考察からだけでは読み解けない部分が多々あると思います。
大脳生理学的に経験を持っている人はこの世に皆無。
所詮、その時代に生きていた人は今は誰一人いません。

「口伝とDNA回帰」

私は歴然たる事実して歴史を紡いでいるDNAには「幽かにその記憶はある」と思っています。そしてそのDNAが直感に大きく語りかけてくるような気がします。各人のDNAが無意識に「これを理解して。これからも子孫に繋いで」と。。。

先の合宿にて乙先生とお話した事があります。
「直感、とても大事ですよね。DNAの記憶を如何に呼び起こす事が出来るのか。。。」と。
私がなぜ古来の音を求めたり和歌・俳句・連句に興味があるかと言えば。。
そのDNAの記憶を少しずつ呼び起こしていく方法が古来から受け継いでいる曲音であったり、和歌・俳句・連句を「口伝」から学び楽しむ事と感じるからです。とても感性を刺激し変化させます。

ご隠居殿、是非一度連句をご一緒しませんか?
ご隠居殿の卓越した現在の知識とご経験に、さらに違った視点の感性がきっとまた違う新たな発見を見つけ出してくれるような気がします。

ご隠居

拝復、
ぼんは呆夢とかいてぼん、手芸好きでしっかり者の古風なおっかさんです。

どこのどなたか存じませんが、知らないことを教えてくださってありがとうございます。

ところで、わたしは抜書というものをよんでおりません。それはなんなのですか。ごぞんじでしたら、おしえてくださいませんか。
うたの写しのみでの印象でしかものを申せませんが
はじめからおわりまで、一人の人物の筆になるものです。年号もみたところ、そうです。
ご隠居の書かれている通りに、天文廿四年が実物を転写した年として、その右かたえに小さく書かれている癸卯こそが実際に奉納した年度の天文十二年の干支である、としますと、ご隠居、過去にそういうような表記法をとった先例があるのでしょうか。

神前に奉納するのは原則自筆、はいわかりました。

追記
これが八女市の有形文化財指定をうけたときの名称は、
うとうきちざのやめよばなしにはこうあります。

>八女市は文化財専門委員会の答申にもとづき平成七年一月二十五日付でこれを有形文化財に指定した。

指定名称は「天文二十四年源鑑述ら今伊勢奉納百首和歌」。

ちなみに、このころの文化財専門委員会長は杉山洋先生、副会長が第一次解読をされた故松嵜英一先生であると書かれています。↓

http://ameblo.jp/yameyobanashi/entry-10946546123.html

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コメント

見慣れない「明更」が2回も登場するのも気になっていました。あけぼの、とどう違うのでしょうか。
これも含め、「あ」で始まる歌がすごく多いのも八女百首の特色。

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