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2011年9月29日 (木)

戦国百首和歌の仮名遣は定家仮名遣~乙四郎コメントをきっかけに

竹橋乙四郎が書いてくれたコメント次の部分を読んで、ぎょっとした。

>語彙の多用例の代表的なものは「松」です。同音の「待」も併せると、数えきれぬほど。「夏日待」のタイトルの中にもあります。(事実)
これは、鑑述が兼「松」城主であることへの敬意かも。(思いつき)
ところで「松」と題した歌があります。(事実)
八十一  松  弘智
得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ
ここに暗号を解く鍵がありそうです。「君が宿」すなわち正統な皇室のことを「松」と例えて、他の歌を解読せよと言ってるかのようです。(思いつき)
「君」「きみ」が使われている歌には、
一    立春  鑑述
君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ
三    霞  鑑實 
朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき
の対(「君」~「きみ」、「千年」~「ちとせ」、「春」~「春」)をなす歌がありますが、そのほかの歌では、
八十二   竹  宗房
きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思
のみです。(事実)
歌が前後連続している上に、「うへ」~「植へ」、「君」~「きみ」と二つも語が重なっていますので対を成していると考えてもいいでしょう。(思いつき)
ところが、不思議なことに、どちらの歌も「植へ」の送り仮名が「へ」になっています。旧かな遣いでは「ゑ」であるべきところです。(事実)
これは、敢えて「へ」と誤用して、暗号だよ、と強調しているのかも。(思いつき)
「小松」の語彙と「君が代」の歌詞の補完で前後の「君」「きみ」歌と関係性がある次の歌、

二      子日  鑑教
さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め
では「植ゑ」となっていますから、これらの関係歌を対比させると、「へ」が浮き立ちます。(事実)

こっそりとテキストを取り出し、そういうことがあるのだろうか?と確かめてみた。
するとやっぱり、わたしの表記がちがっていた!!

そもそもこの読み解きはかささぎが手探りでやったものだ。
だから間違っているところがあると思うし、なにか大きな思い違いをしているところもあるだろうとは思っていた。

とはいえ、同じ百首和歌のなかで、旧かな表記が異なることがあるだろうか?

植える。植ゑる。植へる。

かささぎはにわかに心配になり、原典にあたった。

すると、どれも「植える」は「う遍る」で「遍」のくづし字が用いられている。
つまり、子日(ねのひ)歌のなかの引き植えても、植へてだったのだ。
では、なぜ「ゑ」とかささぎは表記したのかといえば、当時石橋秀野によって古典への門をこじあけられた私は、森鴎外の『仮名遣意見』を読み、日本語の表記と音と漢字についてはじめて真剣に考え、正当性とは何か、たち迷っていたからである。
時代により言葉の表記法は変遷し、ずうっと変わらずにある、「ただしい旧かな」というのは、厳密に言えば、存在しないのである。
ただポピュラーなものがあるというにすぎない。
使われている仮名に正統性を求めるのはおかしいのだ。
書かれているそのままを受けとるという姿勢がいるということである。

藤原定家といえば、十三世紀の大歌人である。
その人が研究してまとめた仮名遣いを、一流の連歌人などが手本として使っていた、それが契沖の科学的な研究により「正された」のが、江戸時代半ばのことである。
定家仮名ではうえるは植へる、しかし契沖の表記だと植ゑる。
・・・ここまで調べて、やっと腑に落ちる。
いや、芭蕉の句集にも、植えるは植ゑるではなく、植へるになっていたような記憶があったから。あれは連歌師からの定家仮名をずうっと正統として継承していたのだ。
ご隠居が紹介された、1400年代の連歌師宗祇にも学んだ芭蕉である。
まちがいを書いているという意識はなかったし、それが俳諧の連歌をやる人としての矜持でもあっただろう。
だから、岩波本などで、原典の作品の横に、ちいさくママとかかれてしまっているのを見ると、ちょっと待て。それはおかしいぜよ。と思わねばならないのではなかろうか。

八女戦国百首にも宗房という連衆名があるけども、それをみると、芭蕉を思う。

いま、原典をただしく起こせといわれれば、もっと違う表記になるだろう。
けれども、じっさい、こんなかんじ↓の表記であるから、今風にかえてしまうのはやむをえない部分もある。と、まちがったいいわけに、関係のないことをかきました。
竹橋乙四郎に礼をいいます。
まちがいにきづかせてくれて、ありがとう。
また、ご隠居さま、無学な私に、イチから教えてくださりありがとうございます。
といいましても、まだ始まったばかり。どうぞよろしくお願いいたします。

立春

喜見可代農ためし丹寿免る千年川
かワらぬ堂年尓春や多川らむ

子日

佐ヽ禮石の(能の草書体)庭尓小枩越引う遍天
苔農む寿まて友とこ楚見免

写真もアップします。部分ですが。

小松越引う遍天

クリックで拡大されますのでどうぞご覧ください。
小松引きの歌が子日です。
鑑教の名前があります。ちなみに江戸後期久留米の考古学者矢野一貞が干支と年号に12年のずれがあることについて、これはおそらく天文十二年の間違いではないかということを書いている理由になった武士がこのあきのりです。安武鑑教という実在のお墓をみていたようで、死亡年が天文二十四年より前だったから、そういう予想をたてたようだった。

巻末の年号と日付。

癸(みづのと)の文字、異体字。パソコンではでません。

癸卯のうも、卯月のうの文字も、異体字。夘月廿五日。

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コメント

原典を引っ張り出されたついでに質問。

祝言の歌を詠んだ「塩亀」の字は間違いないでしょうか?
塩竈(しおがま)ではないですよね。

塩亀です。

原典、見直しています。

夏日待(なつひまち)を祐筆は夏日侍と書いておられるのですけど、それをごらんになった東明雅先生が、すぐさま「これはなつひまちとよみます」とおっしゃったこと。それがふしぎでしたが、よくみれば、歌にも待つという言葉が出ていて、それは侍という字になってます。

了解しました。
素人でどのように資料をあつかえばいいのかがよくわかっておりません。ですから、ご隠居(さま)のコメントは非常にありがたいです。地獄で仏、ぶたに真珠かも。

仕事もありますし、親しい方に不幸があっておくやみにいかねばなりません。その帰宅後になりますが、まとめます。ありがたく、スリリングです。ただ人のやった研究の跡をかくにんする作業ではなく、生きた資料をあつかわせてもらっているのだ、というたしかな実感がございます。
どうかこれを世にだすために、渾身のご協力をおねがいいたしたてまつりまうしあげまうす。

お忙しいのに申し訳ありません。

小生の“お願い”は,貴方様にまとめて欲しいということではなく,
【新たなものを再度送りしますので,先の依頼文も含め,尻切れトンボになっているもの2通(計3通)】を削除して下さいということなのです。

どうか,お間違えなく。

「夏日待」という発句がある、という考えは思い及びませんでした。
「夏日 待」という歌は、検索するといくつか出てきました。(↓)

   ↑
秀吉の「夏日 待」
万代のきみかみゆきになれなれん緑木たかき軒のたままつ
池田輝政の「夏日 待」
君か代の深きめくみを松の葉のかはらぬ色にたくえてそみる

いずれも天文より少し後ですが、「君」を詠むというシチュエーションに「夏日 待」というタイトルが付けられていることに、夏日待に込められた特別の意味合いを感じました。
「松」だの「軒」だの、八女百首の多用語彙がここにも出てきます。
日待信仰という太陽信仰のひとつらしいものがあるそうです。
嵯峨天皇が神託によって「お日待ち」という天皇行事を始められたのだとか。夜を徹して日の出まで行われる神事だったらしい。
八女百首の戦国武将たちは夜を徹して99首を詠んだのかもしれません。
天皇がいないところで天皇行事、というのはおかしいのですが、武将たちが磐井こそ正統の天皇だと信じていたのだとしたら、磐井の墓前で夏日待を行ったとしても不思議ではないかもしれません。

函館の杉浦教授に尋ねていた「明更」、ご存じないそうです↓。るびふれよ、ルビを。っていうようなお声がどこからかしてまいりましたが、そういう親切な時代ではないのですよね。
字面だけみていたら、どこかにありそうな明るくさえあることばです。いみははっきりとはわからないんですが、うたもいいできばえにおもえる。
上品でかそけくて、まるで貴族趣味のおくげさんみたいな歌。

さて、朝はばたばたと失礼をいたしました。
長い長いご隠居さまのコメントを読みまして、消してほしいとありましたので、取り急ぎ、非公開扱いにいたしました。ですが抹消はいつでもできますので、ぬかみそ保存します。
わたしは、あれを読んでちょっと覚醒しました。
今伊勢宝前同
詠百首和歌
っていう前書きみたいなものの、
同ってどういう意味だ?と思っていました。
慣習としてそんな風に書くのかなあと。
今伊勢という気張った名前をつけたということは、そう呼ぶことを許されたということで、以前しらべた、「伊勢宮の流浪」にも八女は名前があがっていませんでしたのに、なぜというきもちがのこります。
それに、ぶにょうのとのさんが不敬をして祟られた話にでてくる件でも、伊勢の神は伊勢にいるのに、なんでこんないなかにどうのというニュアンス交じりの捨て台詞まではいてくれて、ずいぶんなんです。でも、まったく私たちもそのぶねうとのさんの気持ちに同意です。
だから、ご隠居が、なぜ八女市は今伊勢宮のなりたちについてもっと調べようとしないのか、といわれるのはそういえばそうねえ、という気になってきましたよ。へんなまちですよ、やめしはね。
問題点はどこにあるのか、をきちんと整理してくださったご隠居。
とっても資料の扱いに詳しい方でいらっしゃいますね。
あなたはいったい、どなたなのです?

乙四郎。
「夏日 待」この一字空きは何だろう。
えらい人、身分の高い人のせりふなどが入るとき、行替えをして、うんと下の位置から書き出す。そういうことをなんとかいいますね。忘れたけど。それとおなじで、この場合は、夏日ってのが、神と同格扱いされたってことなんですね。夏の日がさかんになるころのアマテラスさま、って信仰があって、それに対する敬虔な思いが、一字あけをなしているんでしょう。ひまち行事は夜通しこもる。

どこだったかすぐさがせなくて困ってますが、

えてうへしの歌。
えてのところは、
恵てう遍し。となってたようです。
めくみ、と秀吉だったか池田の歌だったかにありましたが、恵みは芽ぐみ、得るは恵る。
よみくだしをもう一度時間をかけて書き直す必要があります。あれではずさんです。
秀吉っていい人そうにみえて、残忍な君主だったみたいで、知らなかったけど、朝鮮出兵のとき、九州の武将たちをたくさん殺しているんですよね。ということは、恐怖政治をおこなっていたのかもしれず、わたしはただ漫画をみてそういうことを知ったのみですが、こういう百首和歌作品を編んで、君への忠誠を誓っているのは、いのちがけのパフォーマンスだったのかもしれませんよ。
と書いて、ありゃ。時代がちがってた。笑。
・・・わからないことだらけです。

【さらにあらためて】

『抜書』というのは『善知鳥吉三の八女夜話』No.789に紹介されている『天照皇太神宮開記(ママ)抜書』(書写年次未詳)のことです。

貴女の昨日のコメントを読んで,小生の事実理解に誤りがあったことに気付きました。

『百首和歌巻』の奥書に記されている干支(癸卯)は奉納された天文二十四年の十二年後のものと思っていたのですが,十二年前(天文十二年)のものとのこと。

という事になると,縦令(タトイ)小生が想定したストーリー(当初奉納の短冊を後日改めて“浄書”)が正しくとも,十二年前の干支を記すというのは不審です。

さらに美濃守の不敬があったのは『抜書』によれば天文二十四年春のことですから,事実関係に齟齬があります。

しかし,今回乙四郎氏が紹介されている多くの和歌の内容は全く深刻でなく,『抜書』に記されている祟りの結果『百首和歌』を奉納したという経緯とはそぐわないように思われるのです。

そして,当時他に勧請することが非常に困難であった皇太神宮が筑後に勧請されているという事実と,国人(豊饒美濃守)がその経緯を知らないというのは不可解です。『抜書』には後世の潤色があるのかもしれません。

当時,筑後は豊後大友氏の領国。そして豊饒美濃守はその配下。となると,皇太神宮の勧請は大友氏の手になるものと理解すべきでしょうか。(創建の由来を知りたいものです。)

その背後には,日本で初めて皇太神宮を自らの領国に勧請した六ヶ国守護(兼筑前守護)であった大内氏の存在があるのかもしれません。大内義隆の姉が大友氏(義鑑)に嫁いでいます。

この事実は,いったい何を物語っているのでしょう。当該歌巻の奉納と『抜書』の経緯とは無関係なのかもしれません。

あるいは,美濃守の伊勢社に対する不敬は『抜書』にある天文二十四年(1556)のことではなく,(それは後年当該歌巻の奥書識語から類推したもので)本当はその十二年前(1544,癸卯年)のことであったのかもしれません。

乙四郎氏のコメントには『百首和歌』にキリスト教的なものの匂いを嗅ぎ取っているようですが,フランシスコ・サビエルの来日は天文十七年(1549)のことですから,奉納が癸卯年(1544)とすると,無理があります。

いずれにせよ,当時の奉納の作法から考えて,当該歌巻は当初奉納された『百首和歌』そのものではなく,後日浄書されたものと考えられます。

一首足りないことについては,書写者のミスか,あるいは書写時点で既に短冊が一枚失われていたということなのかもと思っていましたが,改めて考えますと,歌巻の冒頭にそのことを解く鍵が隠されているように思われます。

当該歌巻の冒頭には
「夏日侍,今伊勢寳前同,詠百首和歌,美濃守源鑑述」とあります。

一首目の“立春”の詠は美濃守が「“夏日待”という発句に同(ドウ)じて,百首和歌を詠む」ということですから,しかるべき方が“夏日待”という題の発句を詠み,それに合わせて以下の面々が(全体で)百首の和歌を詠んだということです。

つまり,“発句”を含めての百首なのです。

当該歌巻には,発句の具体詠が記されていないために,一首足りないという印象を受けますが,一座の人々にはちゃんと了解されていたはずです。

では,その発句は誰が出したのか。今伊勢の寳前ですから,今伊勢宮の神官を措(オ)いて他にはありません。彼は祭神・天照皇太神にお仕えする者,言わば天照皇太神の名代として発句を詠んだのです。

したがって,その発句は天照皇太神の神慮(思し召し)でありますから,恐れ多くて記すわけにはいかなかったのです。

識語の干支不一致,また一首不足と思わせるような書写のあり方など,この歌巻には今の私たちにとって謎とも思われるものが多々ありますが,おおよその事情はご理解頂けたのではと思われます。

しかし,当資料の背景にある皇太神宮の筑後勧請のことがこれまで筑後地方で矢野一貞や八女市教委,当該歌巻を文化財に指定した文化財専門委員会の委員諸氏も含め,全く問題にされていないのは,どのように考えればよいのでしょう。

研究,或いは文化というものに対する基本的な認識に問題があるやに思われます。

お早うございます。

うっかりして,眠ってしまいました。(ちなみに,小生はこのブログ,携帯で拝見しています。したがって,コメントも携帯から送っています。)

先ほど再送しましたものを“昨日送ったもの”と差し替えて欲しいのですが……。

[あらためて思ったこと]

乙四郎氏の言う[一字空き]といった書写の形式は,その道の用語では「平(ヘイ)ケツ式」というのですが,小生が使っている携帯には“ケツ”の字が登場しません。

皇太神宮の(地方)勧請は日本文化の根本に関わる非常に大きな問題なのですが,これまでの研究者には本居宣長や矢野一貞も含め,残念ながら,

(1)複眼の視座,
(2)問題意識,

という研究者にとって非常に大事な認識が欠けていた,或いは十分でなかったために,眼前の事実の意味するところが見えていないのです。

結局は,“我(自分)”という主体が十分に確立していないのです。

「問題意識」の欠如は何も“八女市”だけに限ったことではありません。日本全国,いや世界全体がそうなのです。簡単に言えば,世界中の人間が「自分の頭で考えていない」のです。

今回の『百首和歌巻』の文化財指定に関する杉山洋氏の見解は『善知鳥吉三の八女夜話』No.477,478に出ていますが,そこには岩戸山の皇太神宮についてNo.477には「中世の創建以来」,No.478には「中世初期の勧請」とあります。

文化財専門委員である氏の見解がこれでは話になりません。

もっとも,この氏の見解は『天照皇太神宮開記(ママ)抜書』に拠ったものですから,氏の責任ではないのかもしれません。しかし,氏は(八女市の)文化財専門委員なのです。

この言葉には,
(1)岩戸山の皇太神宮の勧請の経緯について,『天照皇太神宮開記抜書』の見解を鵜呑みにしている。
(2)皇太神宮の勧請が当時簡単ではなかったという事実を知らない。
という二つの大きな問題があります。
(2)についてきちんとした認識があったなら,『抜書』にはそのようにあるが,創建はいったい中世のいつの事なのだろうと考えるのがまともな人間(専門家)です。

そして次に,いったいその困難な勧請をやってのけたのは誰なのかという事を考えるのです。

しかし,残念ながら氏にはそのような視点はなかったようです。

この結果は,日本の明治以降の教育の欠陥を露呈しています。しかし,本当は日本だけでなく,そしてまた明治以降だけでもないのです。[自分の頭で考える]人間が育っていないのです。

それはさておき,岩戸山古墳が磐井の墓であるという認識は江戸時代の矢野一貞の 『筑後将士軍談』(天保〜嘉永)以来とのこと。しかし,これらの著作も藩主に献じられただけで,一般の目に触れるのは遥か後(昭和2年,1927『筑後国史』と改題し,刊行)。

ということになると,天文二十四年(1556)の時点では,古墳という認識があったか否か。縦令(タトイ)あったとしても,“磐井”の墓であるなどという認識はなかったと思われます。

したがって,「磐井の墓前で」などといった考えの芽生えようはずがないのです。ましてや,「武寧王云々」などという発想の入り込む余地はまったくありません。

磐井の墓という認識は皆無というか,そのような認識がなかったからこそ皇太神宮が勧請出来たのです。

地元では,通常「岩戸山」と呼んでいた。そしてまた,誰という人物は目下の所不明ながら,神話に登場する“天岩戸”があったからこそ,皇太神宮を勧請しようという発想になったのだと思われます。

しかし,大きな問題が次々に出て来ます。「岩戸山」という名称はいかにして付けられたのか。何故,そのように呼んでいたのかということを考えると,当時(天文年間)中心部までかは不明ながら,何らかの事情により,既に石室入口が開いていたということになるのです。(未完。つづく)

【おわび,訂正】

先ほどのコメントに登場の杉山洋氏のブログ『善知鳥吉三の八女夜話』の記事ナンバーに誤りがありましたので訂正させていただきます。
正しくは下記の通りです。

[No.477→No.788]
[No.478→No.789]

ご隠居。

それです。江戸時代の俳人向井去来は人形原(ひとかたばる、にんぎょうばるを通りがかって、

稲づまや人形原の魂よばい

という句を詠んでます。(誰かの日記に記載があったのですよね、たしか。句集には未収録らしく。これ、わたしは杉山洋先生の本でしりました。)
当時の岩戸山、想像するだにこわい。
その無数の石は盗難にもあっている。
民間人は漬物石にとかは考えなかったが(こらこら)、城を造営したり何か公的なものをこさえるときに、それら石を動かしている。再利用してる。そんでタタラレタと人が感じることも実際にあったようだ。なんでよんだんだったかな、やめとしょかんの郷土資料置き場で読んだ本に、それらの石を舟で運ぼうとして沈んだ話がでていたっけ。(単に石が重かったんじゃないの、とかささぎは思いたいよ。)
いわとやま、というなまえ、それから、奥八女は矢部のひゆうがみ、日向神とかきますが、も、神話に出そうな地名です。だけど、ほかの土地にも、ある地名。たとえば宮崎とか大分とかにあったんじゃなかったかな。

ところで、ご隠居。
わたしは又異なる意見です。
みづのとうの干支と天文24年とが異なるのは、そういう理由からではないとおもいたい。まだどうしてかはわからないけれど。
じっさいに24年に夏日待ちをして奉納したものとおもいたい。なぜなら、ぐうぜん24人の連衆をそろえたとは思いたくないから。年の数だけ人をそろえたのではと、わたしはおもいたい。だってさ、こんな大人数でよみあうなんて、ありえないのではないかなあ。
としというのは、年とかきますが、イネのことでもあります。

矢部川はヤハウエの川よ風祭る 

という句がたわむれにできました。こないだ、樋口軒にいって、風景をみていたら。川がとてもきれいで、流れも速くて。
かぜまつる、ってのは季語なのかどうか。らんさんに調べてもらった。野分関連の季語だろうと思った。季語ではなさそうでも、ちゃんと季語でした。風を祀るというのは、風を鎮めたり、あるいは起こしたりするような、農業人にとってはかなり大切な祈念の意味があります。だから、稲と密接に関連する秋の季語です。台風がきたりもしますから。
で、伊勢宮は八女にも勧請できたけど、では、風の宮はあるだろうか。とかささぎはおもったのです。
ない。
思いつくのは、大善寺の鬼夜で有名な風浪宮だけです。これは少し離れていて、筑後川のほとりです。祭神は、たまたれさんです。はなたれではない、魂が垂れるのです。玉がたれる。ほうれ、こうらさん十景歌の蛍のうたがかさなってきませんか。

伊勢神宮の風宮について、ここをご覧ください。

【思い付くままに】

「「伊勢宮の流浪」にも八女は出てこなかった」という発言を見て。

貴女がお調べになった伊勢宮の流浪は崇神、崇仁天皇時代の古代の事であって、話の舞台は大和を中心とする近畿地方の事。したがって、いくら八女市に中世に勧請された皇太神宮があろうとも、そこに九州地方の八女市が登場するはずはありません。

皇太神宮は皇室が皇室の祖先神を祀る神社ですから、民間の人間が勝手(自由)に勧請し、祀ることは許されません。そういった点が他の神社と根本的に異なる所です。

したがって、そういったお宮が地方に鎮座しているという事にはよくよくの事情がなければなりません。永正17年(1520)周防山口に勧請されたのが日本で初めてと言われています。

そして以後山口では戦時中の中断はあったものの、伊勢同様20年毎の式年遷宮が行われているのだそうです。

15世紀山口への勧請を可能にしたのは、何と言っても山城の管領代を兼ねて幕政の実権を握っていた六ヶ国守護大内義興(1477〜1528)の政治力が大きかったと思われます。

さらには、当時皇室が衰微して式年遷宮もままならず、さらには天皇即位の儀式も行えず、大内氏他の有力守護大名が即位料を献じて、やっと行ったといった事情もあったようです。

最近知ったことですが、毛利家では幕末まで朝廷に対して年初、歳暮の礼を欠かさなかったようです。

したがって、幕末維新回天の大業が長州より起こり、文久3年(1863)8月18日の政変で三條實美をはじめとする“七卿”が長州を頼って下向したのも、みんな大内氏の時代の尊皇の意識と深い関係があったのです。

それにしても、八女の太神宮はいつ誰が勧請したのでしょうね。

こんにちは
風浪宮は大川市酒見の「おふろうさん」があります。 子供の頃お正月によく行きました。
wikiを見たら192年に神功皇后が三韓征伐の帰りに・・とありました。

「軒」の意が気になります。
「天皇臨軒」という語がいくつか検索で引っかかりました。軒を臨む、と字面通りの意味かもしれませんが、天皇が位を授与するくだりの頭に「天皇臨軒」とある用例(↓)があります。「軒」に特別の意味がありそうです。

「臨軒」を検索したところ「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒(あめのしたしろ)しめしし天皇」という読みを括弧書きした用例にぶつかりました。
確かに「軒」は雨の滴るところですので、「天の下」の婉曲表現かもしれません。
あめのしたしろ、あめのしたしらす、を読みとする用例に、次のものがありました。
持統天皇:「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」
欽明天皇:「斯帰斯麻宮治天下天皇」
敏達天皇:「他田宮治天下天皇」
仁徳天皇:「纒向玉城宮御宇天皇」
推古天皇:「自磯城嶋宮御宇天皇」
仲哀天皇:「穴門豊浦宮御宇天皇」
景行天皇:「纏向日代宮御宇天皇」
皇極天皇:「明日香川原宮御宇天皇」
舒明天皇:「近江大津宮御宇天皇」「浄御原宮御宇天皇」
孝徳天皇:「磯城嶋宮御宇天皇」「訳語田宮御宇天皇」「小墾田宮御宇天皇」「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」
天武天皇:「飛鳥浄御原大宮臨軒天皇」
宣化天皇:「檜隈宮御寓天皇」
どの用例も、○○宮という形容があって、「治天下」「御宇」「臨軒」「御寓」を「あめのしたしろ」「あめのしたたらす」と読み、「天皇」(すめらみこと)に被せています。
他に類似用例に、読みはわかりませんが、
継体天皇:「石村玉穂宮大八洲所馭天皇」
崇神天皇:「斯貴瑞垣宮大八洲所馭天皇」
があります。
八女百首で多用されている「軒」は、雨の滴(あめのしたしろ)で、「君」「天皇」「神」などの天下を治める存在の象徴だといえそうです。
「治天下」を「あめのしたしろ」と読んだ古い例は稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣「治天下獲加多支鹵大王(あめのしたしろしめすわかたけるのおおきみ)」(471年)みたいです。

(蛇足)
明智光秀は「ときは今あめがしたしる五月かな」と詠み、豊臣秀吉は夏日待で「軒のたままつ」と詠みました。

これぞ暗喩の夏です。
のきといい、えんといい、ふかいことばですね。

軒。
檐。

わたしはいまなおわすれることができない。
東郁子氏(明雅先生の奥様)の脇句です。

 檐傾けて木の実降り継ぐ

式年遷宮、檐付祭(のきつけさい) 。↓

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