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2011年7月 7日 (木)

八女戦国百首和歌への史片吟氏と竹橋乙四郎氏コメントと所有者の中島道夫先生のお便り紹介

先日来、「八女戦国百首和歌」についたコメントをご紹介いたしておきます。

冒頭のコメントだけは三年前のものですが、かようにまとめた人柱伝説についてのレポートは珍しいので、ここに挙げておきます。といいますのも、つながっているから切り離せないのです。現在の所有者が八女の地に今も残る人柱伝説のあるじ・中島くらのすけ翁の子孫でいらっしゃるからです。

▽人柱伝説
八女の山の井堰で人柱になった庄屋の中島内蔵助。
物語のエッセンスは次の通り。
① 1642年、水神さまが庄屋の夢枕に立ち、人柱を立てるよう示唆。
② 明朝、草履の緒が左結びになっている者が人柱になれとのお告げだと庄屋が言う。
③ 翌朝、庄屋ひとりが左結びの緒の草履を履いていた。
④ 庄屋の犠牲で工事が成功した。

さて、上の数行を書くため、「中島」「庄屋」「人柱」というキーワードで検索したら、別の人柱伝説がヒットした。なんと、伊勢市に伝わる人柱伝承。
伊勢市の「中島」という地名のところに伝わる、庄屋の松井孫右衛門の物語。
① 1633年、宮川の怒りを治めるため、人柱を立てようということになる。
② 着物が赤い糸で縫ってある人を人柱にすると庄屋が決める。
③ 庄屋ひとりが赤い糸で縫った着物を着てきた。
④ 庄屋の犠牲で宮川堤は決壊しなくなった。

時代もストーリーもあまりにも似ている。どちらも年代記録が明確で、史実であると思われる。
伊勢と八女のシンクロ。なぜだろう。
気になり、他の地域の人柱伝説もざっと調べてみた。

伊勢の楠原というところの伝説。
① 昔々、池の土手の決壊に悩み、人柱を立てようということになる。
② 袴の前と後を間違えているものを人柱にすると決める。
③ 庄屋が、はかまを前後反対にはいてきた。
④ 庄屋「勘弁してくれ! わしの家に奉公に来ているサヨという娘を身代わりにする」
⑤ 工事現場に弁当を届けるようサヨに命じ、後をつけてきた庄屋は、サヨの背中を押して人柱を埋める穴につき落とす。
⑥ サヨの犠牲で土手は決壊しなくなった。
⑦ ある日、サヨのお母さんが、サヨを尋ねてきた。
「庄屋さん。サヨは、元気でおりますか?。会わせて下さいな。」
「サヨなどしらん。どこかへ行ってしもた。帰れ、帰れ。」
⑧ 村に祟りが頻発する。

鳥取県名和町の乙女ヶ池の伝説
① 川の堤防修復工事に人柱を立てようということになる。
② 工事責任者の庄屋は、自家の下女である乙女を人柱に立てようと考え、工事現場に弁当を持ってくるよう命じる。
③ 乙女は弁当を持って堤防まで来て、落とし穴を踏んで落下し、人柱となる。
④ 堤防は修復できたが、後に決壊し、田地は池となり、乙女ヶ池と呼ばれるようになった。

福岡県宮田町の伝説。
① 八木山川の土手の築堤工事。人柱を立てようということになる。
② 袴のすそを横じまの布でふせている者を人柱にすると決める。
③ 工事責任者の頭山某はすそを横じまの布でふせた袴を着用。
④ 頭山某の犠牲で工事完了。

丹後今福の伝説。
① 1670年、海の神様の怒りを鎮めるため、人柱を立てようということになる。
② 工事監督の田代近松は、袴に横ぶせのある人を人柱にすると決める。
③ 田代ひとり、横ぶせのある袴をはいていた。
④ 田代の犠牲で工事は見事に完成した。

大分県中津市のお鶴・市太郎の伝説
① 井堰工事が順調に進まないので、土地の地頭七人の一人湯屋弾正が、「人柱を立てよう」と提案する。
② 地頭七人が各自の袴を川に流し、真っ先に沈んだ袴の主を人柱にしよう、と取り決める。
③ 七人が袴を投ずると、湯屋弾正の袴が最初に沈んだ。彼は、自分の袴に石を入れておいた。
④ しかし、弾正の家来の娘お鶴と彼女の子市太郎が、弾正の代わりに人柱になった。

竹橋乙四郎さんがまとめてくれたので、すっきり全国の人柱伝説が一望できる。
パターンが決まってる。言いだしっぺが人柱になる。またはその部下。
ほんとうはどうだったのかはその場にいたわけではないからわからないけど、伝説は「こうあってほしい」という物語だから、強制的に人柱にされたと思うのが一番自然かもしれない。でもそれだと夢見がよくないし人聞きもわるく祟る(むいしきがたたる)ので、あんしんの保険みたいな自己犠牲のはなしへと転換した。・・・と根性悪のかささぎ説。
それで、一つ気になるのが、「左結び」に意味があるか。という点です。
どこかで、なにかで、この「左結び」を見たんだけど、そのときメモしとけばよかった、わすれてしもうた。なにかがひっかかる。なぜ右結びじゃなく左結びか。

管理人殿
姫野様

偶然、 当ブログに出会いました。

私は、中島内藏助満幹に所縁のある者で、
現在、記載の源鑑述奉納百首和歌を保存しています。
 亡き父などに聞いている話、別途お話致します。ブログでは差障りがあるので、メール下さい。

中島様。
こんばんは。いまかえりました。
ご連絡いただきまして、ありがとうございます。
よかった、とにかくこの和歌を世に出したい、そうせねばならぬと思いつつも、一歩を踏み出せなかったのは、背景を何も存じ上げないからでした。いくらなんでも世にだすためには、知っているべきことがある。ところが何もわからない。少しはご存知だったかたも亡くなってしまい、途方にくれていました。もしやあなたさまは、中島くらのすけの血筋のかたでいらっしゃいますか。・・メールにします。

ひさしぶりにここをひらきました。
とても字が大きくてびっくりしますね。
でもコントロールがきかなかったんですよね。
実は、歌仙形式のおもて六句になぜ神祇釈教などの宗教や述懐や懐旧、恋、無常などがいけないのかを今日はずっと考えていました。そのヒントというか理由は、おもてぶりにはふさわしくない。おだやかに「序」の運びをするため。というのはもっともらしい理由になりますけど、それ以外にも、かささぎはこういうことがあるんじゃないかな。と思ったのは、たとえば、古い和歌集などがあるとする。それらは四季の歌から始まり、雑にいって、無常や懐旧、述懐などを経て釈教、神祇などでおわります。順番がきまっている。それを踏襲している部分もあるんじゃないだろうか。と。
この戦国九十九首は、こういう構成になっています。
1立春~19三月尽(以上、春歌20首)
20更衣~34荒和祓(以上、夏歌15首)
35立秋~54九月尽(以上、秋歌20首)
55初冬~69歳暮(以上、冬歌15首)
70初恋~79契恋(以上、恋歌10首)
80暁~94樵夫(以上、雑歌15首)
95懐旧96述懐97夢98釈教99祝言

 初めまして。史片吟と申します。
 一万田氏について検索していて、こちらにたどり着きました。大友氏の研究をしていこうと思っている者です。
 当史料について、いくらか質問とお願いがございますので、本日は書き込みさせていただきます。

 当史料は、おそらく大友氏について考えるに、非常に資する史料であると考えます。豊饒氏は筑後方分として長く活躍する一族でもありますし、一万田氏も大友家加判衆としての活躍の見られる人々です。
 また、一万田氏などに関する史料は少ないため、この連歌集は大友家の家臣団がどのような交流をしていたのかという点を見るにも、重要であると考えます。

 以上を踏まえたうえでまず、ご質問があります。
 まず一つに、これが翻刻された活字の報告・研究などはあるでしょうか? 歴史学・国文学どちらでもよいので、手に入る研究書・論文があれば教えていただきたく思います。
 二つに、自治体や大学は当史料の存在を知っているのでしょうか? 自治体での史料調査を受けているのか、お教え願いたく思います。またその報告などがあれば、それについてもお教えいただきたいです。

 以上の質問の上で、いくつかお願いもございます。
 もし、未だここでのみしか公開されていないものなのであれば、写真を頂くことはできるでしょうか。私も素人でしかないのですが、このような貴重な史料を拝見いたしたく思います。

 また、過度のお節介であるとは存じますが、できれば歴史学の査読雑誌へ投稿するか、あるいは大学・自治体などで調査を受け、信頼ある査読雑誌へ報告していただければ幸いです。
 現状ではこの史料を歴史研究上で、一次史料と扱うことができません。勿論、この史料を持っておられる方の感情優先ではございますが、もし歴史学に資したいとお考えであるならば、信頼できる形で史料の存在を広めて頂ければよいかと思います。

 以上、非礼と感じられたならば誠に申し訳ございません。お気持ちを害するつもりはないことをご理解いただければ恐縮であります。
 当史料は前述のように、本当に貴重なものですので、大切になさってください。

 それでは、長文失礼いたしました。

ご連絡いただきまして、ありがとうございます。
あとで、整理してみます。
いまから仕事なので、帰ってからになりますが。
失礼して、すみません。

史片吟さん。しぺんぎんさん。
だれも訪ねてくれないので、どうしたものかな。と。
こんなに面白くて資料価値が高いものを、筑後の歴史マニアや文藝好きがだれも調べようともしないなんて、信じられない、なんでだろう、と思っていました。そうですか、それは一級史料扱いをしてもらうには、それなりの手続きを踏まねばならない、ということなのですね。

誰の史料なのかという問いには、答えられますが、研究論文を書いている研究者がいますか、という問いには、いまのところ、だれもいないのではないかと思います。少なくとも、わたしはこれまでにそういう文章にであったことはありません。このブログで竹橋乙四郎という畑違いの学者があちこちを駆け回って調べてくださった、それが初めての研究者でしたね。

この歌の冒頭で名前を記したお方が研究をされていたようなのですが、事故に遭われて亡くなったとのことで、その方の歌のよみの不明空白部分をかささぎが埋めたものがこれです。
そのときはまるで何もおもわなかったのですけど、いまにして思えば、かささぎが連句をやっていたこと、れぎおんに所属していたこと、(れぎおんとは連句誌です)、そこで東めいが先生という高名な俳諧学者を知ったこと、八女の研究者の死には間に合わなかったけれど、東明雅先生の死には間に合った、生きておられるときに、この歌の原本コピーを送って、自分ではどうしてもわからないいくつかを教えてもらったこと、それから、柳川古文書館の学芸員さん白川さんだったっけな、にも「あらにこのはらへ」という季語をよみといてもらったことなど、あのときは、すべてが私が解読するために協力してくれてるかんじで、ふしぎでした。
めいが先生はなくなられる前の年だったんじゃないかとおもう。なんどもお葉書やお手紙をくださいました。縁というものであったのでしょうか。熊本の出身の学者先生で、柏市にお住まいでした。

八女市役所には歌のよみが全部解読できたとき、コピーをして届けましたが、どうも、これが黙殺でありましたよ。
ふつうなら腹がたつのでしょうが、以前、石橋秀野の研究をしていたころにも似たような扱いをうけたことがたびたびあったので、わが身の不徳のいたすところとあきらめています。
しかし、この資料が埋もれるのは歴史の真実が埋もれるということだから、それはなんとしても避けたい。
所有者の中島先生も信頼を絵にかいたようなすばらしい方です。なつかしいかたです。あとで、この資料の扱いかたを持ち主である先生に相談してみたいと思います。
史さんのコメントで、このような文化財にスポットらライトがあたらないのは、それ相応の扱いをしてこなかったからなのだな。という理由がやっと見えました。学者、それも歴史学、文学の両方からの解読と理解と文献的位置づけがまず必要であるということなのですね。

おしえてくださって、ありがとうございました。
あつく御礼もうしあげます。

 かささぎさま
 素早いご返信を有難うございます。
 どうやら、まだどこかの研究機関からの報告という形では発表されておられないとのこと。このような史料が埋もれているのは残念であります。
 しかし、あちこちで協力しておられる方がおられるということは、少なからずその存在自体は情報が伝わっているということかもしれません。
 この史料の全訳を市役所に送られた、ということでありますが、残念ながら、おそらく市役所ではその価値判断がつかなかったため黙殺されたのではないか、と思います。市役所というところは忙しいところでありますし、無礼を承知で申し上げますが、信憑性のわからぬ史料にまで手が回らなかったのかと。

 この史料の存在については、むしろ大学か博物館の方に知らせてみてはいかがでしょうか。九州大学や大分大学には大友氏の研究者がおられます。また、大分県先哲史料館や柳川公文書館は、大友氏の史料編纂を行っているところです。これらのところに相談してみるのも一つの手ではないかと思います。そのようなところであれば、史料の価値判断することもできると思いますので。

 歴史史料として、この本が扱えるようになるには、翻刻が歴史学の査読雑誌の上で報告されることもありますが、原本が確認できることも重要と考えます。写真の形でも、文書が確認できれば翻刻の信頼性を研究者が確認できますので。
 そのような点からも、サイト上に写真を上げるだけでも、だいぶ変わってくるように思います。

 それでは、私もこのような貴重な史料が、大友氏に関する研究に用いられることを祈っております。
 こちらこそご対応ありがとうございました。

橋爪美濃守鑑実(あきざね)の末裔だと勝手に思い込んでいる乙四郎です。
天文20年:ザビエルと義鎮の邂逅 →大友家臣間の宗教対立
天文22年:一萬田鑑相の謀反
弘治2年(天文24年の翌年):小原鑑元の謀反
と、大友義鎮の足元がぐらぐらしているさなかの天文24年に大友勢が集まって「君が代」に始まる歌を詠んでいます。
「くるす野」がキリスト教と無関係に詠まれたものかも引っかかるものがあります。
重要な歴史資料です。

かささぎはほんとに24人いたのかうたがっています。知りたいことは山ほどあります。形式についても知りたい、こんなふうに99でおわっている百首和歌がほかにもあったのかあるのか。
キリスト教のひろがりはかんがえている以上にあったのではとおもえる。

・・・ということや、そのほかにもいろいろと多くの新事実が見えるようになるかもしれませんね。おなじ時代の似たような歌たちを集めている学者さんたちに提供すれば。

ということはわかりますが、かささぎ、このところ仕事が多忙で動くことができずにいます。
ネットでぼちぼちやっていく以外の方法をとれない。
持ち主の中島先生に資料の写真を出してもいいのかだけは確認いたします。もちぬしのおもいをおききしたく。
わたしもそうして赤崎さんに写しをわけてもらったものでした。赤崎さんは文化財課におられましたがいまはこのおかたもおられない。
かんがえたら、なんとふしぎなことでしょう。

さいごに、かささぎの旗のメール通信文へ所有者の中島道夫氏がくださった返信文もまるごと引用いたします。その前に、ここをよんでくださると参考になるかと。http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-37ef.html 「八女の中島氏、水神への接近4」http://tokowotome.cocolognifty.com/blog/2009/09/post-e879.html「山の井用水路 水神への接近3」ほかにもあるでしょうが、とりあえずこのくらいで。

かささぎの打ったメール。

1戦国百首にコメントがついたことをしらせる姫野のメール(省略)

2追伸メール
中島先生
これをよまれてください
健吉の祖母はここから嫁いできていたのですね
はじめて縁がわかりました
           姫野拝
3  上記1,2への中島先生の返信
姫野様

上記の件、その通りです。
田本の大叔母の連れ合いの弟が、私の実祖父です。

杉山先生は、以前メールでお知らせした如く、百首和歌が
八女市の有形文化財(平成7年)に指定された時、お世話になった方です。
解読を松崎英一先生に依頼し、関連書類を作成してもらいました。
私も時折、善知鳥吉左のよもやま話は見ています。会ってお話しする際と
同じような口調で書かれており、興味を持って拝見しています。

なお、前回頂いた、メール;文献的位置づけについて:
過去に取り上げられた書物は、矢野一貞著「筑後将士軍談」の記載でしょう。
部分的にしか取り上げられていませんけれども。
 著作の裏表紙部分で紹介された書物は、公刊されていますが、基本的には
まだ、未解決です。
 八女市長をした伯父が、伯父の弟とともに老後に研究したかった課題です。
(当時は和歌が行方不明でわかりませんでした)。
私の代で、何とかしておきたいと考えていますが、現在まだ仕事をもっており、
手がまわりません。
 私ども、中島姓は、以前お話したように尾張・美濃に股がる、木曽川流域
から移動した者です。しかし、1615年に受け継いだ場所と家は 大友系一門衆の
吉田氏です。
八女の吉田氏で著名なのは、室園文書(八女市の登録文化財)に出てくる、吉田能茂
でしょう。我が家はその末裔の系統も受け継いでいます。
                                          中島道夫 拝

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コメント

近代日本の歴史において、日本と諸外国の認識、どちらが妥当でしょうか?


リフレッシュ法、もしよかったら参考にしてください。
http://www.youtube.com/watch?v=r5McGB552Dc
お役に立てなかったら申し訳ないです。

杉山洋先生のブログで、中島道夫先生が書かれていた『室園文書』が紹介されています。ここです。↓

あのう。
八女の吉田という地名は、その吉田氏由来なのでありましょうか。
あと、なんとなくおもうこと、高塚や酒井田、あるいは室園姓が多い小国武(こぐんたけ。祖父の親戚にも同姓がいます)などの八女の三河地区は美濃の三河からきた地名ではないのでしょうか。

きのう、中島道夫先生についての検索が十人ほどありました。先生に関するページがいくつもいくつも読まれているので、なぜ急に。。。?の想いでいっぱいです。

ご近所の方がなくなって昨夜は通夜、今日は葬儀でした。うだるように暑かった。ことし同町内の人が続けて三人なくなった。
福島の葬儀会館に行く途中、杉山先生宅の前を通ります。すると懐かしいムクゲの花が咲いておりました。暑さに白い顔をそむけるようにして。
先生のブログをたずねますと、堺雅人と若山牧水の話題など面白いことが書かれています。相変わらずお元気だなあ。と嬉しくなって目を走らせていますと、あっ!!
中島道夫先生・・・・逝ってしまわれたのですね。

非常に残念です。
もう一度おあいしたかった。

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