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2011年7月18日 (月)

唱導文学としての「黒木物語」 七          その歴史的意味と評価

 國武久義・文章

七 唱導文学としての『黒木物語』

 なぜ八女東部に「小侍従」説話が伝わっているのだろうか。
実は『黒木物語』には黒木助能・小侍従にまつわる平安時代末の物語だけではなく、これと対(つい)になる形で「川崎軍(かわさきいくさ)のこと」が記載されているのである。
 天正の頃犬尾城主川崎上野助重高は例年正月五日に猫尾城主が執り行っていた北川内山の初狩を「この川崎こそ黒木大蔵大夫助能の長男の血統である」として、前日の四日に黒木に無断で実施した。その事を知った時の猫尾の城主黒木兵庫守頭家永、怒り心頭に発し直ちに兵を川崎にさし向けた。合戦は数度に及び、その都度川崎方は敗けるので加勢を草野氏に請うた。やがて激戦の末黒木方は敗北するに至る。そのくだりを『黒木物語』より引用すると、

 「両陣たがひに入乱れ軍(いくさ)は火花をちらしけり。引撲(ひきうち)てさしちがへ落かさなつてくびを取らるるもあり、日ごろはひざをくみかたをならべし者どもなれば後日の恥辱をかへり見てたがひに引なびかじと面(おもて)もふらず相戦ふ。川崎既にうちまけて川より向ひに引退く。かかりける処に草野勢三百余騎おめきさけんで馳来(はせきた)る。川崎是に力を得てとつて返し荒手を入替責戦ふ。主討るれども郎党是をたすけず親討るれどものりこへのりこへ相戦ふ。さしもいさみし黒木勢其身金鉄ならざれば中原主税肥後乗覚山中舎人土久保三浦討死す。そそつの兵討れければ大敵凌(しの)ぐに力なく黒木方終に打まけ引返す。」

 さながら『平家物語』の合戦修羅場を彷彿とさせる語り口である。
 この頃の日本を俯瞰してみると戦国の世も終わりに近く、地方豪族の小ぜいあいの間にも全国制覇は着々と進行しつつあり、天正十五年島津義久の降伏によって九州に於ける土着の小豪族はほとんどその姿を消してゆくのである。「川崎軍のこと」の最後は次のような深い詠嘆で締め括(くく)られている。

 「定善より数百年伝来(つたへきたる)鹿狩を重高奢故(おごるゆへ)か。又は悪心故無用の論を致し一門の中不和に成事(なること)天魔のなすわざか。幾程なく黒木川崎両所共に天正末の比(ころ)落去せしめおわんぬ(畢の文字でなく、己の下に十の入る字)。誠なるかな、生者必衰のことはり元暦文治の花と栄え、天正の秋の紅葉と散り行く事こそかなしけれ。(はかなけれ)。」

 このようにして見ていくと「黒木助能・小侍従」の物語と「黒木川崎合戦」の話は、黒木氏の栄華盛衰を語るという意味で分かちがたく結びついている事が分かる。しかも両者に共通して言えるのは「語りもの」の雰囲気が濃厚なことである。どうやらこの二つの話は琵琶法師などによって語られた前篇後篇とでも言うべき物語と結論づけてよさそうである。となると、この一連の話が語られたのは黒木氏没落後ということになる。猫尾城最後の城主黒木兵庫頭家永が、豊後大友勢によって激しく攻めたてられ自刃し果てたのは天正十二(1584)年九月なので、それ以前はおよそ考えられない。

 ところで『聖方紀州風土記』によると、講坊は「天正十六(1588)年罹災、稲葉公の再建」とある。罹災の原因は不明だが講坊は火災か何かで焼亡したのであろう。稲葉公が大檀那としてその再建に尽力したことは文面によって明らかだが、その他にも講坊建立の為に一紙半銭の零細な勧進銭を名もない庶民に乞いあるく聖(つまり高野聖)の存在もあったに相違ない。彼らは勧進の手段として「語り」を通して寺の縁起を人々に説いた。それが行空上人でありまた待宵の小侍従であった。また黒木氏が調姓を名乗っていたことは今に残る建造物の棟札や仏像胎内に記された墨書によって明白であるが、笛の名手黒木助能なる人物を新たに作りあげ、調姓や待宵の小侍従と結びつけたのは他ならぬ高野聖と呼ばれる回国の下級勧進聖だったのだろう。彼らは琵琶などの伴奏楽器を弾きながら、さきの戦いに敗れ死んでいった黒木氏ゆかりの人々の霊を弔いつつも併せて講坊再建(さいこん)の為の喜捨を願ったのではないかと推測する。

 従って「小侍従」伝説が奥八女にもたらされたのはさほど古いことではなくたかだか戦国末期から江戸時代もごく初期の頃であろう。それは中世の頃に活躍した時宗系高野聖が自由に回国することが可能だった時代とも一致するのである。

 更に別の視点から検討を加えてゆくと、黒木城には当然歴代の城主が存在していたにもかかわらず、伝説の中に登場するのは初代の城主助能とその子四郎定善、それに十六代兵庫頭家永の三人だけである。巻子本(かんすぼん)『黒木物語』によると「定善より十五代迠(まで)は無い(己の下にこんどは大の字)」と簡単な記述があるのみ、『星野家伝説』(樋口宗保覚書)にも「胤実より鎮康迄十三四代ノ間別而乱世にて委細の事跡書留不被置不相知」と同様な事が書き記されている。

 史実では南北朝時代、猫尾城は一貫して南朝方につき、筑後地方における有力な一拠点であった為、九州探題今川方の猛攻を受け、数度の落城の憂き目を見た城であるが、それらの事については全く触れられていない。と言うことは、語る人にとっては猫尾城や黒木氏の歴史を伝えるのが重要なテーマではなくあくまでも黒木氏の栄えと滅び、つまり栄華盛衰・諸行無常を説くことこそ大切だったのである。

 「唱導」とは辞書によると、「仏法を説いて人々に帰依することをすすめる」と定義がなされている。高僧(行空)の伝記や寺院(講坊)の縁起を人々にわかりやすく語り聞かせて、寺建立の為の一紙半銭の喜捨を願うのは「唱導」以外の何ものでもない。

  つづく。

▽かささぎの独り言

今朝これと、夜半にはもう一個前の文とを打ち込みまして、思ったこと。
黒木物語の末尾にも編者が似たようなことを書いておられたので、おそらくそれで間違いないのだろうとおもうんですが、物語の作者は、だれだれと特定することはできないようですね。あたかも浄瑠璃のたぐいの話と似ています。高野聖の集団。

國武先生にお伺いしたいのは、ここに書いておられるような、行空の伝説というのはどこにあるのでしょうか。それがあるとして、どのように行空は描かれているのでしょう。知りたいものです。かささぎの家は、行空の墓と縁があるようだから。。。。

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コメント

こんにちは。大変ご無沙汰しています。

先日かささぎさんから久しぶりに連絡がありました。

貴重な文献ありがとうございます。こうして様々な事が表に出る事にはとても有難いものを感じます。

唱導文学としてはそこに意味があり、史実は別に細い糸でつながっていると思います。
真実があり、そこに物語(脚色)が生まれます。

先の鎌倉八幡宮の大銀杏の御神木が倒木した後、今は数々の方のご尽力により見事に再生の道を歩んでいますが、倒木によりその樹齢が約500〜600年前くらいのものであると樹木医等専門家は密かに指摘しています。
そうなると源実朝暗殺と大銀杏の御神木の物語はくずれてしまいますね。
ただ、実朝が暗殺された事は史実として記録されていますので、ひょっとして先に倒木した大銀杏の御神木は二代目かもしません。

伝説と史実の関係をどう汲み取り表現するかは読み手次第で良いのだと思います。
作り手には必ず時代背景が存在しておりそこには大きな狙いがあるのでしょう。
史実を含めてその物語を追い求めるのが大きなロマンとして楽しいのだと思います。

合宿、私は9月末か10月くらいだと参加できる可能性が高いです。
すみません。。皆さんのご都合を優先されて下さい。

うたまるさん。
コメント文、ありがとうございました。
そういうことがあったのですか。
たしかにそうですね。
また、物語になるには、なにかちいさな、でも、おおきな、核があるにちがいありません。その証拠に、すべての物語がみーんな似た調子です。そこに捨てるに捨てられないモノを感じてしまいますよね。

さて、合宿ですが。わすれていました。笑。
まだだれも反応してくれませんね。でも、うたまるさんがきてくださるなら、ぜったいやりましょう。なんか、なつかしいですね。あのまんまるっこいおかお、またおがみたくなった。(あんたはおつきさんかい)

こんな句をいつかだしてくださいましたよね。
うろおぼえなれど。
○○○○○着の身着のまま一人旅
これ、すかっとした句だった。
ときはなたれたってきもちがつたわる。
そういうしぜんなリズムってだいじなんだよね。

これから、国武久義先生にお会いする予定です。
つきましては、水月さんに聞いておいてくれと依頼されたのが、『聖方紀州風土記』のことです。
この書名で検索しても、たしかにここしかヒットしません。
七月は水月さんのお寺は永代供養(えいたいくよう、とにごらない)を修す月で、おいそがしいそうです。
しらべさんにもお声かけをいたしました。
するとなんと、九州にはいらっしゃるようなのですが、仕事であり、とてもこちらまで回られないとのことでした。
では、せいこさんとおあいしてきます。

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