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2011年6月29日 (水)

佐田啓二と亀井文夫

善知鳥吉左の八女夜話にています。佐田啓二と亀井文夫。

右が映像記録作家の亀井文夫。
うとうきちざの八女夜話、(戦艦ぽちょむきん)から写真一葉、無断引用いたしました。杉山先生ありがとうございます。

亀井文夫は明治41年福島県の南相馬市(原町)生まれ。
藪秀野(のち山本健吉をなのる批評家・石橋貞吉と学生結婚して石橋秀野となる)とおなじように文化学院大学部を中退し、ソ連に渡って美術を学ぶはずが映画を学びたくなり、レニングラード映画技術学校の聴講生となる。
昭和14年戦地で『戦ふ兵隊』という記録映画を撮る。
しかし戦意高揚どころか逆効果をもたらすとして、上映禁止、要注意人物としてマークされる。

藪秀野は亀井文夫がソ連へ渡った年の翌年の昭和四年、当時慶應大学生だった石橋貞吉と結婚して石橋秀野となる。
秀野の生涯唯一の句文集『櫻濃く』は、昭和十三年の作品からはじまる。
 

 木犀にとほき潮のみちにけり   秀野

このころから昭和十五年あたりまでの作品は、青春の残影が濃く、叙情的な浪漫が香る句が多い。
なにも知らないかささぎが読んでも、これは過去の恋を下にひめている句ではないだろうかと思える句がある。もし秀野と文夫とが杉山洋先生がおっしゃるような仲だったとして、別れた恋人同士だったのなら、健吉は知らなかったろうけれど、昭和十三年からはじまる句作品のなかのいくつかには、このひとの面影句もさりげなく登場していたにちがいない。
という目でみると、たしかにそういう句を拾うことができる。

  悔なしと言ひ放つより遠蛙   秀野

なにを悔いているんだろう。健吉と結婚したことか。
あのとき、亀井についてソ連に渡っていたら。
そう思った瞬間がなかったろうか。
のちに戦争がおわって、島根騒擾事件の際、長い詞書のある三句を詠んだ秀野である。
健吉がすうっとつき物が落ちたようにマルキシズムから脱落したのと違って、その精神は鋼のようにすっとしゃんとしていたのだと思う。
昭和十四年、亀井の監督作品が上映禁止になったことを知ったときの秀野の動揺は、察するに余りある。

↓佐田啓二。映画『君の名は』での一場面。

佐田啓二は大正十五年生まれ。京都市下京区の商家出身。
交通事故で37歳の若さで世を去る。

秀野は最晩年、下京区の木屋町で死病を得た。
宇多野療養所にて死す。享年38歳。

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