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2011年6月20日 (月)

唱導文学としての「黒木物語」2 古典文学の中の小侍従   國武久義

 唱導文学としての「黒木物語」
  待宵小侍従説話について 

    國武久義

 さて、下郷組の「はんや舞歌謡」に「しのびしのばれ」という歌がある。
 
 しのびしのばれて夜を明かす
 まつ宵に更け行く鐘の声きけばおよわ別れの鳥が鳴く

 この歌は『新古今集』巻十三・恋三

 待宵に更け行く鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは

 の「下の句」が長い年月歌いつがれていくうちにすっかり変形したものである。
作者小侍従は、平安時代末期より鎌倉時代初期にかけて活躍した女流歌人であり、わが国の古典文学作品にしばしばその名が登場する人物である。

  二 古典文学の中の小侍従

 小侍従は存命中かなり著名な女流歌人だったらしく、『千載集』以下の勅撰集に五十五首入集、『小侍従集』という家集も世に出している。ところが彼女がいつ生まれていつ没したかというような生死に関する記録は、他の平安女流文学者と同様定かではない。ただわずかな断章からおぼろげながら彼女の生の軌跡をかいま見ることは出来る。『新古今和歌集』は元久二(1205)年藤原定家らによって撰進されたが、巻六・冬歌に次のような詞書(ことばがき)を持つ歌が載せられている。

 百首奉りし時         小侍従

 思ひやれ八十(やそぢ)の年の暮なればいかばかりかはものは悲しき

   (千五百番)

 この「千五百番」というのは、別名「仙洞百番歌合」とも言われ、建仁元(1201)年後鳥羽院の主催になる歌合のことで、後鳥羽院や釈阿(俊成)・良経・定家など当時を代表する歌人三十名が各百首を詠じ千五百番としたもので、質量ともに歌合史上最高峰をなすものである。この小侍従の歌に対して判者の藤原季経は「まことに八十の暮いかばかりかは哀れにはべるべき」との評を加えている。つまり、これによってみると、小侍従は建仁元年、八十歳余で確かに洛内におり、千五百番歌合の歌人として百首の歌を詠進していることが確認出来る。
 その当時の八十歳といえばまれにみる程の高齢者なので、その後さほどの年月を経ずして息を引きとったのではないだろうか。
 この女流歌人がなぜ「待宵の小侍従」と呼ばれるようになったか、その謂(いわ)れを『平家物語』は次のように語っている。

 「待よひの小侍従といふ女房も此御所にぞ候ける。この女房を待よひと申しける事は或時御所にて「まつよひかへるあした、いづれかあはれはまされる」と御尋ありければ
 待よひのふけゆく鐘の聲きけばかへるあしたの鳥はものかは

 とよみたりけるによつてこそ、待よひとはめされけれ。」

 後徳大寺実定卿は、福原の新都から「旧き都の月を恋ひつつ」京へ上り、近衛河原大宮の御所へ参り大宮と四方山の昔語りを為し琵琶を奏でる。
 引用の部分は、その後所に待宵の小侍従が仕えていたという場面設定がなされている。平清盛が福原の地に遷都したのが治承四(1180)年だから、この時保延五(1139)年生まれの実定は四十一歳、小侍従の年令は建仁元年八十才余から逆算して六十才あまりとなる。
 『平家物語』の文章だけではこの二人が特別深い仲だったか否か判明しないが、鎌倉時代中期成立の『十訓抄』には、「後徳大寺左大臣(実定)小侍従と聞えし歌よみに通ひ給ひけり」とあり、又同じ頃出来た『源平盛衰記』には、

 (待宵の侍従と申しける事は) 此徳大寺左大将忍びて通ひ給ひけり。衣々(きぬぎぬ)に成る暁又来ん夜を契り給ひける。侍従は大将のこんとたのめし兼言を其夜ははるばる待ち居たり。
 さらぬだにふけ行く空の独寝はまどろむ事もなきものを
たのめし人を待わびて深行(ふけゆく)鐘の音を聞、いとど心の尽ければ、
 待宵の深行くかねの声聞ばあかぬ別の鳥は物かは
と読たりければ、誠に堪ずもよみたりとて待宵とは被呼(よばれ)けり」

 とあって、二人がわりない仲であったことが記されている。
しかし、親子ほどに年の差のある二人が契りを結ぶことなどおよそ考えられないので、この「実定小侍従恋仲説」は、小侍従の没後半世紀あまりたった鎌倉時代中期頃出来上がった伝説だろうと思われる。

(ああもう時間がないので、このつづきはまたあした。もうちょこっとこの章がのこりましたねえ。) 

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コメント

さっそくのアップ、ありがとう。
先生もお喜びだと思います。
お会いする機会があればお伝えしておきますね。
ありがとう。

せいちゃん、国武先生というお方は、大谷大学の国文の先生でいらっしゃいますか。
それにしても、ありがたし。
こちらこそお礼をもうしあげたいです。
関東やあちこちの調一族はじめ、この黒木物語につらなる縁の人で、よみたがっておられる方々は多いと思われます。

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