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2011年2月 7日 (月)

ポルトガル語圏の国々

保健医療経営大学学長
 橋爪 章
2011 年 2 月 7 日 ポルトガル語圏の国々

日本人が初めて接したヨーロッパの言語はポルトガル語です。

16世紀に、鉄砲やキリスト教とともに日本へやってきました。

現在もブラジル人が30万人近く来日して働いていますので、日本人にとってもポルトガル語は身近な存在です。

ポルトガル語は人口1千万人のポルトガルの言葉ですが、人口1億8千万人のブラジルの公用語ですので、現代のポルトガル語はブラジルで進化しています。

以下がポルトガル語を公用語とする国々ですが、旧植民地の名残としてアフリカに集中しています。

<ヨーロッパ>

ポルトガル

<南米>

ブラジル

<アフリカ>

アンゴラ、カーボベルデ、ギニアビサウ、サントメ・プリンシペ、モザンビーク、赤道ギニア

<アジア>

東ティモール、マカオ 

アフリカにおける言語地図は大西洋奴隷貿易を抜きには語れません。

部族闘争が繰り返されていたアフリカでは、他部族の黒人を捕らえて奴隷にする慣習があったのですが、15世紀後半になり、部族の権力者がその奴隷をポルトガル商人へ売却して利益にするようになりました。

ポルトガル商人は、購入した奴隷を中南米のスペインの植民地開発に必要な労働力として売却しました。

熱帯性の気候や伝染病に強いと考えられたアフリカ人が労働力として注目され、奴隷取引は拡大していきます。

16世紀になると、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社が設立されました。

アフリカの国々も奴隷貿易で潤うようになり、奴隷狩りがしばしば行われました。

その後、奴隷貿易の主導権はオランダ、フランス、イギリスなどに移り、18世紀になると、イギリスやフランスから積み出された産品が奴隷と交換されました。

奴隷との交換産品として、アフリカで需要が多い綿布を大量生産しようと、マンチェスターで綿工業が起こりました。

イギリス産業革命の始まりです。

蒸気機関の発明にも、奴隷貿易による資本が融資されました。

19世紀初頭より奴隷貿易を禁止する動きが強まり、奴隷制も、イギリス領では1833年、スウェーデン領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に廃止されました。

ヨーロッパ-アフリカ-中南米間で奴隷貿易が行われていた頃、日本でも、日本人領主が中国人商人やポルトガル人商人を通じて日本人貧民を東南アジアなどへ売買するようなことが行われていたようです。

イエズス会の宣教師たちの働きにより、1571年、ポルトガル王は日本人貧民の海外売買禁止令を発布しています。

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

▼かささぎの独り言

ブラジルってぽるとがる語だったのですか。
英語だとばっかり思ってました。
あるいはブラジル語。あるいはヒスパニック語。(そんなのはないのかな。まあ適当にイメージしてました。苦笑。

ジェニファーロペスとかそっち出身の方ではなかったのですか。

コメント

今テレビでマラウイを世界で最も貧しい国として紹介しています。
いそいでここをみました。英語圏なんですね。
これから引き続き見ます。

上はさくらです。

ええーっマラウイってそんなに貧しいのですか。
いとこのやっしゃんが行っていた国です。
知らなかった。
わたしもみます。

日本はマラウイにたくさんの人員を送ってきたのですが、最近進展著しい中国がどんどん国家的建造物を建設してあげて、日本はその影に隠れてしまったとのことです。中国は目立つ協力をするんだそう。

ところで、こうていえき、こんな記事とつながっています。あぐらの獣医師のこと。↓

http://d.hatena.ne.jp/move2600/20110122/1295719567

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コメント

今日2/7は北方領土の日、新聞等には1855年に日露通好条約が結ばれた日と書いてある。しかし日本史の教科書には1854年に、日米和親条約の後、日露和親条約が結ばれたと書いてある。この違いはなんじゃらほい、と30年以上前に考えたことがあります。この2つは別の条約か?とも。
そこでいつもの何でも考えかんでも知って…の精神で考えました。まてよ、これは旧暦と新暦の違い、元号と西暦の違いではなかろうか?っと、やはりそうだった。安政元年(1854年)12月21日というのは旧暦で、西暦に直すと1855年の2/7になる。それほど考えた理由は、なんのこたぁない、私の誕生日だから。これで、30年前の教え子がいまだに私の誕生日を覚えていてくれる。情報操作の力ですな。
閑話休題、ポルトガル人の初来日は、日本では1543年というのが常識だが、ポルトガル関係の史料では1942年となっており、これもその論理かというと、そうではない。これは未だもって謎のまま。
これまた閑話休題、ポルトガル語とスペイン語はかなり近い関係らしく、お互いの言葉を勉強しなくても(あるいは少し学べば)、何となく意味がわかるらしい。ヤマト語と琉球語の関係みたいなものなのか、いやそれよりもっと近い関係なのか、この数年言語学に興味持つ私ではあった。

たびたびどーもすいません。上記の1942年は1542年の間違いです。ついでに、種子島にやってきたポルトガル人が乗っていたのはポルトガル船ではなく中国船、そしてその頃既に倭寇は鉄砲を使っていた。おう!我が日の本の史料『鉄炮記』にも天文11年8月=1542年に伝来したと書いてあるらしい。そもそも「鉄砲」と「鉄炮」の違いは?と謎はつきない。が、みなさん、あまり興味ないでしょうね。
おまけ、日本語の「ありがとう」はポルトガル語の「オブリガード」が語源である、とポルトガル人は思っている。京都の先斗町、これがポルトガル語のポント=「先」からきているのは間違いないようだが。

ろいりさん、昨日お誕生日おめでとうございます。
何かにことよせて記憶する方法は忘れませんね。
ポルトガル語とスパニッシュは似ているんですか。
ヒスパニックはスパニッシュを内包していることばだけど、説明をよめば、単にスペイン語系のという意味にとどまらないようなかんじです。日本土着民のかささぎが混乱するのも無理はない。
ウィキにはこんなふうにかいてあります。

ヒスパニックとはもともとスペイン語圏の、というほどの意味だったが、アメリカ人にとってはエスニック集団をさす言葉になっている。と。

さらにちょっと詳しい説明では、

ヒスパニックと同じように使われる言葉に「ラティーノ」(Latino)があるが、ヒスパニックが文字通り「スペイン語圏出身者」を指すのに対し、ラティーノはスペイン語圏に限らずラテンアメリカ全域の出身者を指す。たとえば、ハイチ(フランス語圏)やブラジル(ポルトガル語圏)出身者は、ラティーノではあってもヒスパニックではない。また、ヒスパニックとラティーノの単語が同時に使われる場合、ヒスパニックはメキシコ出身者のみを指す事が多い。

ところで、その安政元年(1854年)十二月二十一日が新暦ですと1855年の二月七日というのは、あまりといえばあまりの隔たり、宝暦暦ですよね。
なんども改暦があっているけど、西洋人がやってきたころのこよみは、なにをどのようにつかっていたのかがばくぜんと気になります。

ウィキによると、もう天保暦の時代のようです。このへんは専門でないからよくわからん、といつも使う逃げ口上。
日本史には貞享暦だけ出てきます。これは何と何とナントの勅令、南都・北嶺で、9世紀以来、約800年ぶりの改暦、この800年間でいかに季節感が変わったのでしょうか?
そしてウィキによると宝暦暦は、貞享暦より杜撰で、それは改暦の主導権が、幕府の天文方から朝廷に奪われたかららしい。そりゃぁ、陰陽師の末裔が作った暦だからしかたない。農民が一番困ったでしょうね。
ポルトガル語とスペイン語の類似点は、最近もある、どっちかのチームにいた日本人サッカー選手が、その国の言葉がわかるようになると、もう片方の国の言葉もなんとなく意味がわかると書いていました。サッカー選手については無知なので名前覚えてません。

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