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2011年1月18日 (火)

歌仙「一行の詩」  

歌仙「一行の詩」  

行の詩をしたたむる淑気かな    月野ぽぽな
  あをく薫れるあらまたの墨      姫野恭子
せせらぎに薄氷融けて流れゐて    竹橋乙四郎
  卒業写真の笑顔はれやか      山下整子
春の月延びる線路を照らしをり     青翠えめ
  駅長室はいつも満員         八山呆夢

圏足と獣耳持つ土器出づる       せいこ
  アナウンサーの黒髪に風       ぽぽな
摩天楼君が魚類でゐる時間       中山宙虫
  
ひんやりとした男恋しき         澄 たから

たからさんの付句は、こんな暑い日はあの人の肌の冷たさが思い出されて恋しいことだ。という独り寝の女性の句で、これをつけることによって、前句でそらんさんに詠まれた現代的な女性は、趣味で水泳をやっている男性に姿をかえます。(いえ、べつに水泳をしなくてもいいけど。あんまり夏に冷え性のおとこっていないから。笑
そらん句をほめたりくさしたりして、いくらなんでも申し訳ないと反省し、おじさんブログに詫びをいれてきました。それを書きつつ思ったのは、あっさりと出ている、軽くつけられているように見える句の、どこかなにかがとっても固い。ってことでした。
それは、「ぎょるい」という音読みをする言葉です。
決して甘すぎません。そこにこの人の言葉へのこだわりがみえます。

たから句(原句は、男じゃなくて、肌の恋しき。しかし肌と打越にある黒髪が身体用語のさわりで、をとこに一直)を読むまでは、そらん句は情事の場面をスケッチしたんだろう。と思ってました。

たからさん、これいただきますね。
前句の受け方、転じ方、すごくいいし、とっても味わいのある恋句です。
たからさん。恋句、うまくなりましたね。

なお、せいこさんからとぼんさんから、追加の二つずつが出ています。
どっちもすごい句。
ぼんさんの句、『末摘花』みたいな川柳(破礼句)でしたが、生の迫力がありました。
せいこさんの句は、すごく魅力的でしたが、ここにおくより、もっと合う位置があるような気がして、ひかえました。もう一つ遠慮した理由、名詞どめが続いてましたんで。どちらも惜しい句、とっておいてください、保存にまわします。

ではでは。

つぎはなにかな。

たからさんの句が夏の句と判断、次も夏で行きたい。
恋離れです。しんでもらってかまいません。
もうなんでもどうぞ。どなたでもどうぞ。
どんなスタイルのどんな雰囲気の句でもいいですよ。
ただし、夏の季語をいれてくださいね。長句です。

月は秋の月を七句目でだして、秋を八、九とつづけます。
十句目で雑を一句だけはさみ、十一で花(春)となります。


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コメント

吹流し未練女の愚痴を聞き

1 登山口過ぐれば下山口となる
2 空元気サングラスの奥湿らせて
3 孑孑(ぼうふら)は案ずる未来なけれども
4 マラリアに魘され落とす命かな
5 淡雪羹マダガスカルではクーデター
6 携帯と溶けてしまったかき氷
7 雨樋をずたずたにする雹が降る

玉の汗ぬぐう間もなしかけて行く

炎天につるはし揮う人のいて

紫蘇もんで声も聞けないひととなる


旧かな?
そんなのどうでもいいではないですか?
連句なので、とやかく言うつもりはないですよ。
統一感はいるかとは思うので・・・。
俳句なら、旧かなを使うなら、正しい旧かなを。
旧かなって本当はどの時点のものを言うのだろう?
新かなが制定された時点で旧かなという呼ばれ方になったのだろうけど。
旧かなを言うひとたちは、その時点を生きていたひとたちが多いのでは?
自分の時代の仮名遣いだと思う。
僕にしてみれば、旧かなにする必然性は何もないわけ。
古文や古語を使うなら考えるけど、言葉は現代語でかなは旧かななのは理解に苦しむ。
旧かな以前のさらに旧文字っていっぱいあるでしょう?
そこらあたりの線引きはどうなっているんでしょうね。
これは自分の独り言。
たぶん、旧かな使うひとは、それなりの理由を言うだろうけど、きちんとした説明にはならないと思う。
もちろん僕が理解できないだけだけど。


拝復、そらんさん。
「旧かなをいう人たちは、その時代を生きてきた人が多いのでは?」
そうかなあ。現に私はそうじゃないし、旧かな愛好家は若い人たちも多いよ。小説家では長野まゆみとか。かささぎの娘は彼女のファンです。
旧かななんてどうでもいい、というのであればさ。古典への通路はぶちんと切れてしまって、現代語だけでこの世界がなりたっているかのような錯覚に陥るんじゃない。一部の文芸で大事に旧かなを受け継いできたから、かろうじて失われずに残っているものも多いのではないでしょうか。
ときに旧かなを書いていて、あるいは古い漢字を写し取っていて、びっくりとするときがあります。へえ~っていうような感動をね、あじわうときがあるよ。

日本語ほんらいの意味と直結できるような。

「やまなみ」、そらんさんはもらいましたか。
これに、さがらさんというお方がかいておられます。
表記と読みとのずれがもたらす効果。
森山光章俳句みたいに、漢字表記とはかなり隔たっているるびでも、かなり自由にやれる伝統がたしかにある。それは現代表記になじんだ目に映る旧かなの世界でもあろうかとかささぎは思う。
こないだかささぎが恋句にだした(没だったけどね)、
貨幣空間vs愛情空間
(かへいくうかん、あいじょうくうかん)、ヴイエスとか対まで読ませていてはゴロが悪いので読まない。目は字を追い、映像を処理し、その下部では脳が意味を考え、定型内処理をしようとする。ここらへんの自然なあうんの息は、やはり定型端子系ブンガクの恩寵だという気がするわけです。

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