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2010年11月13日 (土)

草野源一郎歌集 『本明川(ほんみやうがは)』

草野源一郎歌集 『本明川』
やまなみ叢書第73篇 
短歌研究社 平成13年9月20日刊

歌人・草野源一郎

略歴

大正13年(1924)9月5日 長崎県諌早市本明町に草野徳男、ヨネの三男として出生
昭和17年4月 長崎県立諫早中学校卒業、旧制佐賀高等学校入学
昭和18年4月 富士川英郎教授の指導のもと、故山本太郎らと、佐高不知火寮短歌会を始む
昭和20年8月 2年在学中、病気休学の為、原爆投下前日帰省、投下翌日(10日)救護班として被災地に入る(※当時21歳)
昭和21年11月 「やまなみ」復刊と同時に入会
昭和26年3月 2年半休学の後復学、長崎医科大卒業
昭和34年1月 大学、その他で研修の後、諫早市永昌東町15-1に医院開業
昭和49年7月 第一歌集『白金耳』出版
平成6年2月「やまなみ」短歌会代表
  現代化人協会会員、日本歌人クラブ長崎県委員、諫早歌人クラブ会長

ふた夜明け火の鎮まれる浦上に友を探してひと日暮れたり
原爆に斃れしものに月照りて額冷えゆきしことを思はむ
頬寄せてききし言葉はつぶやきに似て五十四年ののち甦る
青蚊帳に臥したる声は微かにて水を、水を、ただに欲りたり
原爆を逃れしものは世の隅に隠らふごとく身を狭く棲む

原爆を逃れて生きし五十年世に生きいきと励みしならず

長崎に医を学ばむと齢若く笈負ひきたる友は還らず
地下室の研究棟に夜を徹し試験管振りき雪降りてゐき
菌体を磨り潰すとき立ちのぼる芳香ありき微かなれども

あらためて思へば三つ四つ網ふかく逃れて今日の生命ありけり

しらじらと潮光りて春山の岬を巡りくるバスが見ゆ

受洗せしことも幸(さきは)ひ蝋の火に花に守られ主に近づかむ

たをたをと峡渡りゆく鷺の群差しくる年の光のなかを
葦原を声を絞りて啼く声は夜明けの霜を翼に負はむ
決断を延ばし延ばしてくぐもれる一生(ひとよ)と思ふ川縁をゆき

東(ひむかし)の茜を洩れて差すひかり歌をきざめる碑にさす

峡空を渡る寒月丘のうへの歌碑を照らさむ一夜一夜を


創口は八寸五分もありぬべし百足いまにも這ひ出づるべし

多良獄に雲湧きてゐむ本明川に靄立ちてゐむ遠く来にけり
晩冬の川面光りて流れをり本明川の鴨も帰らむ
百穀をうるほす春の雨降らばわが五体はも癒えてゆくべし
存(ながら)へてなにを希(ねが)はむ川を詠み山を讃へて日々の祈りぞ

▼かささぎの独り言

短歌結社やまなみ主宰、草野源一郎氏の歌集、この歌集を一冊だけ久留米図書館で借りることができました。
最初の歌集はおいてありませんでした。
もっとも、森澄雄句集すら、ろくすっぽありません。私は、鯉素(りそ)という有名な句集を借りようと思ってましたが、それすらなかったほどですから、推して知るべし。
信じられないですよね。だって森澄雄といえば、ずいぶん長く西日本新聞の俳壇の選者を務められていたのですよ。そういえば、数年前、橋本多佳子句集を探したときも、有名な俳人なのに、一冊しかありませんでした。(でも久留米はまだいいほうで、やめとしょかんには一冊もありませんでした。)

と前置きはこのくらいにして。
つぎの歌の読みが、わたしにはよくのみこめませんでした。
だからこそ、なぞとして、深く胸にのこりました。

あらためて思へば三つ四つ網ふかく逃れて今日の生命ありけり

どなたか、この歌一首をよみとかれてください。すごくわたくし性にみちみちた歌だと思う。
「三つ四つ網ふかく逃れて」なにが?なにが逃れて、なにから逃れて。
おしえてください。やまなみ短歌会のみなさま。

ところで。草野先生は、「入市被爆者」だということになるのでしょうか?
だから、がんになられたのでしょうか。

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コメント

原爆を逃れて生きし五十年世に生きいきと励みしならず

同時に借りてきた森澄雄の『俳句遊心』にこんなくだりがあり、シンクロしているので引用します。
『雁の数』から「猫ヲ祭ル」という漢詩引用後につづく文章。時間があれば猫を祭る詩も引用したいのですが。以下、引用文。文章は俳人の故森澄雄。

実はこの詩を読みながら、ぼくは先程からやはり猫好きだった死んだ父親のことを思い出していたのだ。長崎の原爆に会ってから、晩年の父は生活意欲を失って殆ど患者をみなくなったが、食事のときは、いつもミケを膝の上にのせて、自分の魚などをむしってやったりした。今思い出すと、思い出の中で食卓を囲むぼくら家族も、パントマイムのように無言でひっそりしていたように思える。その無言の中で父が突然「空襲警報、空襲警報」と大声を出し、自分でもすぐ気づいてテレかくしにぼくらをみて笑ったりすることがあった。
少しモウロクしていたのだ。その父が七十三歳で死んでこの十月でちょうど十年になる。(昭和55年刊行本)

31文字倉庫で、草野源一郎先生の死去を知りました。以下、お名前をググって出てきた新聞記事、付けておきます。ご縁がありまして、草野氏へのこの文章、拙いながらも書いておったことを、ありがたかったとご縁に感謝もうしあげます。ご冥福をお祈りもうしあげます。(アクセス解析をしていましたら、なぜかここともう一箇所、草野氏の記事が読まれていたので、なぜだろうと思っていました。)

長崎県を代表する歌人の一人、草野源一郎(くさの・げんいちろう)さんが6日午後8時48分、心不全のため諫早市多良見町の慈恵病院で死去した。87歳。諫早市出身。自宅は諫早市永昌東町15の1。葬儀・告別式は8日午後2時から諫早市栗面町120の1、諫早法倫會館で。喪主は妻妙子(たえこ)さん。

 やまなみ短歌会代表。長崎医科大在学中に歌人秦美穂に師事し、1946年に復刊した歌誌「やまなみ」に入会。写実を基調とし、開業医の仕事や日常、諫早の自然を詠んだ清らかな歌を発表し続けた。諫早文化協会長、長崎新聞歌壇選者などを務め、地域文化の向上と後進の育成にも尽力した。

 1997年に長崎新聞文化章、2000年に地域文化功労者文部大臣表彰。歌集に「白金耳(はくきんじ)」「本明川」「余光の橋」がある。

>長崎医科大在学中に歌人秦美穂に師事し、1946年に復刊した歌誌「やまなみ」に入会。

かささぎの手元に一冊の古いやまなみ誌(亡き父の長姉である北島民江から贈られた物)があって、後記に以下の記事を発見しました。秦美穂という草野源一郎氏が師事された歌人のことが伝わる内容です。参考までに紹介いたします。

昭和47年やまなみ八月号後記の2

▽秦美穂・文

先達の船小屋での全国大会の折、復刊後の”やまなみ”の歩みについて、古賀四郎氏が講演をされ、又その要旨が誌上に発表されている。(中略。)
七月号で私のことが大層立派なものとしてとりあげられ、全く恐縮したり冷汗をかいたりしている。ただその中に、一二訂正と、少しばかりの説明とを加えさしていただきたい。
一、赤彦先生を満州大連にお迎えした事については、日記ではなく第四歌集”太虚集”の巻末記に記されている。
一、その当時私はすでに学生ではなく、関東庁立大連高等女学校(後の神明高女)に勤めていて、唯一人の二十代の男子教員であった。
一、私は結婚後一週間目で、私の官舎でのはじめてのお客として先生をお迎えしている。当日おひるにさしあげた料理の事について、再刊赤彦全集の第九巻の月報に拙文をかいている。
因みに全集の最初の刊行は、昭和四年から昭和五年にわたって全八巻。再刊は昭和四十五年から四十六年にわたって全九巻、それに別巻があり全十巻。

あらためて思へば三つ四つ網ふかく逃れて今日の生命ありけり  源一郎

このお歌の、網深く逃れてのことを思っていました。
ご自身を一匹の魚にたとえておられます。
天の網がさらおうとした、その網を逃れて。

「天網恢恢疎にして漏らさず」の天網があたまにあったことがわかります。どこかに罪悪感が匂う。

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