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2010年9月 4日 (土)

戦争の話(21) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 4 日 戦争の話(21)

<橋爪一郎従軍記>

   まっ白い兵隊さんの巻の(2)

 二月二十五日から三月二十三日までは原っぱ生活、私の一生で一番寒い経験になるはずです。あの時の事を思いますと、日本の冬はやさしいもので、寒いなど言えそうにもありません。全身・全物まっ白ずくめの原っぱでの演習は苦しみを通り越して、地ごくの底を行くようなものでした。歩き始めたら、夜昼かまわず三日も四日も歩き続けて、目のふちや鼻の先は黒くこげついてしまいました。何人もの友達が、雪の中に頭を突きこんで死んで行きました。早く見つけて、メンター酒(シュ)を飲ませると生き上がりますが、ほうっておけば氷ってしまいます。(死ぬ前は、大ていが雪の中に頭をもぐらせます、わけはわかりません。) ここ牡丹江(ボタンコウ)での生活も終りに近づいて、二十三日、私達はまっ白の完全軍装に身を固めました。毛皮の外(ガイ)とうで、体は雪だるまのようにふくれ上りました。いよいよ、どこかの戦地へ出発です。にぎり飯は各人一週間分、四十づつばかり持ちました。一週間ばかり「糞(クソ)」をたれないようにと薬(アヘン類)を飲まされました。汽車はまっ黒の牛馬の貨車で、上の方に小窓がついているだけ、外は空が少し見えるだけです。命令が出るまでは、戸を開ける事は一切禁止で、どこをどう走っているのか皆目(カイモク)わかりません。私たちは馬なみで、腰掛けも何もなく、のびのびと寝るだけの場所もなく、壁に寄りかかったり、くの字に曲って寝たり、日に日にくたびれながらレールの上を運ばれて行きました。小便する時だけ、一寸(チョット)だけ戸にすき間を作って、「ジョー」(男だから便利)、情(ナサケ)ない旅は続きました。

1963年八女郡辺春(へばる)中学校『学年通信』より

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

コメント

>こっそり何かを書いてはひとり笑いをする精神病見たいな者がふえました。

実際は、戦地では精神疾患が増えていたのだと思います。イラクやアフガニスタンの米兵でも精神疾患の発症が多いようです。

アクセス解析。
一応毎晩する。ときにきつくてできない。
こうていえきもひどいもんですが、この検索用語でみえていた人がもっとも痛かった。いったい何をたしかめられたかったのでありましょう。

「満州国立農事試験場職員 自決」

↓。部分ぴっくあっぷ。
牡丹江省民-(ソ連軍飛行機・戦車-列車襲撃)100/940 ◆綏芬河街民-(ソ連軍)300
満洲国立農事試験場-職員家族全員自決-46(生存1歳児一人)
どうして集団自決。パニックからだろうか。

>何もかもまっ白い服になってしまいました。帽子>から靴から鉄砲まで、馬も馬車もまっ白い布をか>ぶって、完全白色です。

緑と灰色の迷彩服は常連ですが、雪の広野の中では白の迷彩服があるとは知りませんでした。
簡単な白い布をかけただけかも知れませんね。

ちなみに今年の夏は吉祥寺の古着屋で買った迷彩色のパンツをはいてすごしました。涼しかったので。
荒野で戦う気概はまったく持ち合わせておりません。

おはよう。あれさくらさん、わたしは比喩だと思ってよみましたがちがいましたか。零下二十度四十度なんて世界は想像するだけの世界ですから。雪原で黒いのがうごめいていたら直ぐ発見されるから、目を欺くために白い色をまとったのでしたか。ふうん。

ところで。きのう、えめさんが来院してくださったのですが、先生との治療中の会話をカルテ整理しながら聞いてた(きこえてきた)ら、なんとも霊的だった。
イワイ一族の墓がある丘の上にすんでいらっしゃる先生とその南ふもとに事務所をかまえておられるえめさんち。歯医者の、なまえに石のつく先生のことを魚釣りを話題に話しておられた。かささぎ、その歯医者の先生を知らなかったのですが、お二人が、あの先生はとてもじょうずだ、きっと日本でも屈指、福岡ではベストテンの上位に入るほどだ、でも欲がないし、それにあの汚さはすごい、でもそこがすきなんですけどね、とかなんとかいいあっていらっしゃる。
ちょうどここにだーしゅーさんの親知らずの紅旗医院

http://blog.goo.ne.jp/dashu_2005/e/ae699ceaff19c9510d39790a58f8398c

の話を引用したばかりだったから、親知らずの話に耳がぴん。
終わられて、ついにたずねた、(先生と患者さんの話には口を挟まないのが鉄則です)、その歯医者さんはどこにありますかと。するとお堀の近くと。
あちゃ、するってえと。山本健吉の流れだ。一族だ。

追記。「中国ではカルテを患者が管理する。」(だーしゅーさん記)

これ、とっても理にかなっているとかささぎは思う。
今、父が公立病院行ったり、一番近くのケアハウスで治療や介護のサービスを受け始めたけど、転院するときなど、カルテ類はどうなってんだろって思いますものね。自分が持ってたら、先生がいくら変っても平気へいき。主体は自分です。治療費も、先生にランクがあるので、えらい先生にみてもらうときは、高いお金を払うらしく。
まあ、でも、どっちにも長所短所はあるのでしょ。

ところで。学長がテキストを出版されてました。先月末。

医療・介護の連携 医療経営士テキスト 中級【専門講座】4
これからの病院経営を担う人材 http://store.tsutaya.co.jp/item/sell_book/9784890419227.html

昨夜偶然アクセス解析やっていて、橋爪章への来訪が増えてたので気づくことが出来ました。知らなかった。

おどろきです。こがんいそがしかとに、いつ教科書を書く暇やらあるとね?とたまがります。この学長ブログ連載記事も含まれている模様です。

みなさま。今の日本が必要とするテキストです。
竹橋乙四郎ファンの方もどうぞ。

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コメント

おはようございます。
さくらさん、迷彩パンツ似合いそう☆
岩国に行った時、基地の周辺にたくさんの古着屋さんがありました。
ひめさん、昨日はお世話になりました。
えめは海王星から来てこの世の人ではないのでよろしく願いします

朝学長ブログから転載しても読む間もなく、ばたばたと出勤。帰宅後読めば、なんというつらい記憶。兵隊さん、泣く子も黙るといわれた関東軍の兵隊さんたちは、こんな過酷な扱いをうけていたのですか。ひどすぎる。
十日も排便させないためにアヘンをのませた。そして立錐の余地もないほど兵隊さんをのせて貨物列車で何日も冬の大陸を移動。上層部だけが次にどうするという予定を知っていたろうが、ふつうの兵隊さんたちはまるで駒扱い、それに耐えねば、死ぬしかない。何の恨み言も書かれておらず、淡々と事実だけを書かれています。心中いかばかりだったかと思われます。
握り飯を40個ばかり、持たされて。とありますが、この記述は古代や中世の戦闘とまっすぐつながります。宮本武蔵などの映画で冒頭の関が原の戦いでのシーンなど連想できます。
ああ、でも、この大東亜戦争ってのは、まったくそんな戦国の世の下克上なんかのロマンもへったくれもなかったでしょうね。わたしはこの時代のこの手のはなしをよめばよむほど、黒暗暗(こくあんあん)たる気分になります。橋爪チチ、どんなきもちで、このいくさを戦っておられたことだろうか。

政治。
もめるべくしてもめているんだとはおもいますが。
小沢さんのいう第七艦隊だけでいい論、を、解説つきで読ませてくれる記事発見。こういうのを読めば、自分は軍事がさっぱりわかっていない。というのがよくわかる。↓

なぜ、岩戸山古墳に「今伊勢宮」があるのか、ずっと疑問です。
また、「君が代」の歌詞が織り込まれた百首和歌が、キリスト教伝来の直前の時期に、なぜこの今伊勢宮へ奉納されたのか。
和歌の中の「くるす野」は単なる地名なのか。
なぜ磐井の墓の地名が「岩戸山」なのか。
・・・
「岩戸山」を検索すると、次の情報を得ました。
「元伊勢神宮」(京都府福知山市大江町)が日室ヶ嶽という山の麓にあるそうなのですが、この山には「岩戸山」の異称があるのだと。
また、京都の祇園祭のメインの曳山は「岩戸山」だと(↓)。
祇園祭といえば、日ユ同祖論でよくでてくる、日本とユダヤの共通項。
「君が代」の歌詞はそのままの音で、ヘブライ語で宗教的意味をもつのだとか。
なぜ、徐福の末裔(ヒミコもイワイもその可能性あり)が集積している八女地方で大虐殺があったのか。なぜ、ヒミコはその存在の形跡が消されたのか。
この虐殺の時期は、世界史的にはイスラム教の黎明の直前でもある。
磐井の息子(葛子)はなぜ殺されなかったのか。
葛子の墓とされる鶴見山古墳に、なぜ十字架の石人があったのか。

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