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2010年9月 9日 (木)

戦争の話(26) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 9 日 戦争の話(26)

<橋爪一郎従軍記>

   喧嘩(ケンカ)の巻

 日本の喧嘩は、悪口の言い合いから殺人まで、軽いの重いのいろいろで、一口にケンカと言っても、どの位のかよくわかりません。支那では、喧嘩(シェンホウ ただ、さわぐだけ)、相罵(シャンマー 悪口の言い合い)、打架(ターチャ なぐり合い)などと、ケンカにもだんだんあります。

 面白いことに、夫婦喧嘩があります。一番に、嫁さんが家の出口に出て、むこさんの悪口を泣きながら大声でわめきます。これは、通行人に自分の正しいことをみとめてもらうためで、これには相当心ぞうの強いむこさんも参ってしまうわけです。勇ましい嫁さんは、近所の嫁さん達をつれて来て、むこさんをたたきのばしてしまうこともあるそうです。(これは見たことがありませんが。)きのうは母の日でしたが皆さんのお母さんはお強いでしょうか?

1959年八女郡辺春(へばる)中学校『学級だより』

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

コメント

(ニ)いわゆる南京事件をめぐって

石射口述書

ここで弁護側の要請により、昭和十二年(1937年)五月から翌十三年十一月まで外務省東亜局長を勤めた石射猪太郎が証人として出廷し、宣誓口供書によりいわゆる南京事件と広田外相の措置について概略次のように証言した。

昭和十二年十二月十三日南京入城後、南京総領事代理(編注・福井淳)から本省に送られた最初の現地報告は日本軍のアトロシティーズに関するものであった。この電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。当時外務大臣はこの報告に驚き、かつ心配して、私に対し早く何とかせねばならぬというので、電信写しは既に陸軍省に送付されていること、陸軍外三省事務当局連絡会議の席上私から軍当局に警告すべきことを答えた。その直後の連絡会議で私は陸軍省軍務局第一課長に対し右アトロシティーズ問題を提起し、いやしくも聖戦と称し皇軍と称する戦争において、これはあまりヒドイ、早速厳重措置することを切実に申し入れた。同課長も全く同感で右申入れを受け入れた。
その後いくばくもなくして南京総領事代理から、南京在住の第三国人の組織した国際安全委員会作成のアトロシティーズ詳報が転送されてきた。私はこれに目を通し、概要を直ちに大臣に報告した。そして大臣の意を受けて私は次の連絡会議の席上陸軍省軍務局第一課長にその報告書を提示し、重ねて厳重措置方を要望したが、軍は既に現地軍に厳重にいってやったとの話であった。その後現地軍のアトロシティーズは大分下火になった。1938年(昭和13年)一月末頃と記憶するが、陸軍中央は本間少将(編注・当時参謀本部第二部長)を現地に派遣した。それ以後南京アトロシティーズは終止した。
この問題に関し私が陸軍省事務当局に対し申入れをしたのと併行して、広田外相は杉山陸相に対し本件至急厳重措置方を申し入れた由である。私はこのことを当時広田外相から聞いた。

この証言に対して反対尋問に立ったコミンズ・カー検事は、まず昭和十三年二月の最初の週の終りまで「大分下火にはなったが」アトロシティーズ事件が継続していたということを確認してから、石射証人との間に次のような質問応答を行った。

カー 1938年1月28日から31日までの四日間に、南京において強姦、強盗、放火、殺人事件が76件あったという2月2日の報告を受けているか。

石射 報告を受けた日付、暴行があった期間等は覚えていないが、70幾件事件があったという書類は受け取っている。

裁判長 陸軍の代表は、あなたに対して、南京占領軍に対する警告はいつ発せられたかということを知らせたか。

石射  陸軍の代表とはどういう意味か。

裁判長  あなたの宣誓口供書に「軍は既に現地軍に厳重にいってやったとの話であった」とある。

石射  その軍というのは柴山兼四郎(編注・事件当時大佐、陸軍省軍務課長)であったと思う。

裁判長  彼は、南京の占領軍に対していつ警告が発せられたかをあなたに教えたか。

石射  日時は聞いていない。はっきり記憶していないが、福井氏の電信報告があって、その問題が外務省における連絡会議で討議されて、私から警告を与え、それから間もなくだと思う。

カー  宣誓口供書で見ると、どうやら第二回目のものと思われる。第二回目の連絡会議が開かれたのはいつか。

石射  第二回目であったか第三回目であったか記憶していない。当時たびたびそういう会合が行われた。

カー  しかしあなたは、宣誓口供書の中で国際委員会の第一回の報告を受けた直後だといっているではないか。

石射  原文ではその後間もなくと書いたと思う。

カー  それでは、その後どれくらいの期間が経過したわけか。

石射  その点については記憶がはっきりしない。ニ、三日という短い時間ではなかったと思う。

裁判長  直ちに処置を講じたか。

石射  その電信は、着軍直後、陸軍に送られた。それからニ、三日後と記憶するが、私の所で行われた連絡会議で軍務課長の注意を喚起した。

裁判長  この報告がどれだけ考慮されたかということは、直ちに処置がとられたか、そしていつ警告が発せられたかということの二つのことに立脚する。しかし証人は、それに関して情報を持っていないようだ。

カー  軍の代表、すなわち柴山は、だれに対してその警告が発せられたかということをいったか。

石射  聞かなかった。

カー  南京総領事からこういう報告を陸続として入手した時、あなたはどういう処置をとったか。

石射  私の記憶では、一まとめになって一回あるいは二回きたかと思う。

カー  最後の報告は第58号となっており、日付は1938年2月2日である。この報告に例の76件の事件が詳述されている。軍が発したという警告は、なんら価値がなかったというふうに考えなかったか。

石射  徹底していないという感じを受けた。

カー  その警告が発せられなかったというような疑いは持たなかったか。

石射  そういう疑いは持たなかった。 

カー  あなたが接受した報告は、全部広田に報告したか。

石射  すべて報告した。

カー  情報部は、あなたおよび広田に対して、世界の新聞雑誌は南京暴虐事件を攻撃する記事で満ちているということを報告したか。

石射  外国の新聞にどういうことが載っているかということについては時々情報部長の話を聞いていた。

カー  これらの報告はだれに回覧されたか。

石射  省内の各局長、次官、大臣等にはいっていたと思う。

カー  閣僚にも回覧されたか。閣僚に対して、外国の新聞記事、報道の要約が回覧されるというのは慣例になっていたのではないか。

石射  記憶していない。

カー  日本の新聞雑誌が南京の残虐行為に言及しているのを見たことがあるか。

石射  記憶していない。

カー  日本の新聞記事はこのことには全然触れなかった。こういう記事は差止めになっていたのか。

石射  差止められていたかどうか私は知らない。

カー  広田はこの件を閣議に持ち出したか。

石射  それは聞いていない。しかし広田外務大臣が陸軍大臣にその問題を提起したということを知っている。

カー  しかしその後も残虐行為が起こっているという報告が入ってきたとあなたは申し立てた。そのことを広田に報告した時、彼は何か処置をとったか。陸軍大臣以外のだれかにこの問題を提起したことがあるか。

石射  承知していない。

カー  広田は、これらの残虐行為を阻止するために、さらになんらかの措置をとることについて、証人と協議したことがあるか。

石射  協議は数回したと思う。

カー  その時に広田はどういう提案をしたか。

石射  陸軍の事務当局に厳重にいってくれと度々いわれた。

カー  そういうことをしても全然効果がなかったことをわれわれは知っている。あなたは、この問題を閣議に持ち出すことを広田に提案しなかったか。

石射  そういう提案をしたことはない。閣議がそういう問題を討議するとは思われなかった。

カー  なぜ閣議はそういうことを討議しないのか。

石射  出先の軍に関することは、閣議として取り扱うことはなかったからだと思う。

カー  この残虐行為に関連して責任者のだれかが罰されたか。

石射  聞いていない。

カー  責任者を処罰せしむるために、広田は何か必要な措置をとったことがあるか。

石射  そのことについて広田外相はおそらく陸軍大尉に話したろうと思う。

カー  その問題を広田は閣議に持ち出したか。

石射  聞いていない。

カー検事の反対尋問終了後、山岡弁護人が再び直接尋問を行い、石射証人から「外務省の権限上、同者が実際に行った以上のことはできなかった」という証言を得た。

以上、『廣田弘毅』、425~430頁冒頭の全文引用。
なお、冒頭のタイトルに付された(ニ)はイロハニのニ、であり、ここは第八章「東京裁判と広田」の七節、広田被告個人弁護段階の節のニに当たる部分である。

裁判で南京事件の占めている部分は大きく、何も書かれていない。というようなことを言おうものなら、それは無知、とても恥ずかしいと思うものです。

この部分は、じつは最小部分です。会話体によって、双方の心理的な駆け引きめいたものまで想像でき、真実が最も伝わりやすいのではと思って、まず、これを引用しました。

おそらく、これを読まれたあと、ほうら、やっぱりさほど大掛かりなものではなかったんだ。と思われるか、それとも、二ヶ月も続いたさつりくやさまざまな地獄の沙汰、。これはたいへんなことだったんだ。とおもわれるかは、各人で様々でありましょう。(わたしはその両方を交互におもった。最終的に、「戦争だから」、というなら言えるのだろうし、日本はこうして洗いざらい白日のもとに曝したのに、桁違いの原爆を落としたアメリカは不問とは。という思いがどこかに残る。)
もうしばらく引用を続けたい。
(かささぎ脚注・南京事件への追求の部分だけを引用。石射という外務官については↓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B0%84%E7%8C%AA%E5%A4%AA%E9%83%8E

コメント

(南京事件、死体処理のことは書かれてなかった。)
それで思い出した、さくらさんが書かれていた俳句、長崎原爆忌への、に、オダネル写真への思いがありました。オダネルさんは弟の遺体を焼き場に運んだ跣の少年の写真を撮った従軍カメラマンです。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_51dd.html
http://nagareyama-shougaigakushucenter.jp/odaneru/index.html

昨日、第57回長崎原爆忌平和祈念俳句大会作品集が届いていました。

ことしも参加できてよかった。音彦&らんの新夫婦の句もありました。
音さん、じょうずだったねえ。びっくり。

まだ全部よんでいません。入賞作品から。

「創平」と名付けてくれし祖父の夏  山川創平
   (精道三川台高校二年)
長崎忌三人だけの同窓会  泉 芳雄 (秋田)
胎の子が確と腹蹴る長崎忌  松尾久美子(福岡)
生き残り便器をみがく長崎忌  尼崎 澪(福岡)
  (昨日はトイレの神様の歌もきいた。)

小屋住みの義父の負いたる夏地獄  八山呆夢(福岡)
小屋跡の狭さに凝縮義父の夏
カステラの苦味平成のカフェテラス
蛍火の先に原子の火を守る
原爆の残り火ともる東照宮        神崎さくら(東京) 
     (上野の森)   
戦死者へ魂こめるバイオリン      
オダネルの写真鮮やか原爆忌  
オダネルの映像に棲む子らは今
きのこ雲薄らぐ夏を恐れけり   澄 たから(福岡)
知るものの強さ守りて原爆忌 
ともに舞い蛍旅立つ星の空    調 うたまる(神奈川)
ほむら経つ固き心も梅雨寒も
戦争を知らぬ世代の原爆忌    山下整子(福岡)
きな臭き隣国を持ち夏を越す
八月は空を見上げて影送り
終はらすと命幾万埋めし夏    竹橋乙四郎(福岡)
またひとり蛍をなりてあっち水
語り部の蛍ふえゆく向こう岸
四つんばいの母が稗ぬく原爆忌  姫野恭子(福岡)
地球は一つ星野に核の火を守りて 
どげんこげんゆうても悪ぞ原爆忌
われら皆ぬすと生きして原爆忌
蛍火と瓦礫の中を彷徨へり    青翠えめ(福岡)
平和の火語り継ぐ村茶摘時
死者たちよ長崎の海鬼灯の花   古賀音彦(福岡)
カピタンと通詞が泣いた原爆忌
腹撫でる赤い胎児よ原爆忌    東妙寺らん(福岡)
死者生者魂集む平和祭 
 
 

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