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2010年9月26日 (日)

秀野忌に山本健吉の『藪三娘を悲しむ』を

院の歴代のご堂守がねむる墓だそうです 
独特の石の形はお坊様の頭をあらわしているとか

石橋忍月・山本健吉・石橋秀野・石橋静枝の墓  
八女市本町 無量寿院
代々の石橋氏の遺骨は此処に眠る

北向きに閻魔堂ある寺の奥
白山茶花の古樹に向き
地獄の番人篁(たかむら)の
霊統を継ぐ健吉と
石ノ上家の末裔の
藪三娘(そうさんじょう*)がここにねむる

石橋秀野・山本健吉の霊に捧ぐ

身は塵に斃れ臥すとも秀野の忌

まつろはぬ魂が顕つ秀野の忌

俳諧の防人たらん秀野の忌   

 ※このお墓へ詣でる前に、堺屋の夢中落花文庫を訪ねました。
   山本健吉と石橋秀野の資料館になっています。
   夢中落花文庫の写真は青翠えめさんのブログで、ご覧下さい。
http://hatue62.seesaa.net/article/163316966.html←ここです。

※藪三娘ということば。
健吉が妻秀野への追悼文にこの題を冠したことについての考察はこれからだ。
光明皇后が藤原不比等の三女を意味する藤三娘(とうさんじょう)ともいうこと(王義之の「楽毅論」を臨書したものに光明皇后は自ら藤三娘と署名している)を連句的に引用して奈良の古い家柄の藪家の三女だった秀野(戸籍上は四女)を藪三娘と呼んでいる。健吉の古典への思いは、大和くんなか天理生まれの俳人秀野を妻としたこと、またその妻を戦火を潜り抜ける過程で、一人娘だけを忘れ形見として喪ったこと、これらの体験がさらに健吉に古典への思いを「血肉化」していったといえるような気がする。

(藤三娘の父、藤原不比等は日本に律令制度を定着させた人物。)http://nara.blog.eonet.jp/fuhito/2/index.html

藪三娘を悲しむ

    山本健吉

 俳誌『鶴』昭和二十三年ニ・三月号より引用

御逝去との御事がつかりしました。起き上り慎んで御哀悼申上げます。東京の汚い所ではなく京都にて御他界のことはせめてものお慰めかとお察しするのみであります。何卒御自愛のほど願ひ上げます。     横光

このやうな手紙を頂いて三ヵ月後にはまたその手紙の主をも送らなければならないとは思ひもかけないことであつた。秀野は師系を問はれると常に虚子翁と横光氏とを挙げた。文化学院在学中、歌は晶子に、俳句は虚子に、絵は柏亭に、舞踊は○作に、料理は鴻ノ巣主人に、等々と言つた豪華な講筵に列し、その中で自ら好んで熱を入れ物にしたのが、虚子翁に習つた俳句であつた。その当時のことは彼女は「道」といふ文章の中に書いた。言つてみれば少女時代の楽しい嬉戯の間に、アルチザン修業をし、俳句の骨法を身につけた。鍛錬道は何時も手きびしい鞭を受けながらの苦難道であるとは限るまい。虚子翁の点を受けた句稿を疎開騒ぎの中で見失つたのは遺憾だが、思ひ出してみても、色彩感の豊かな叙情をちやんと俳句的骨格の中に打出していた。これは彼女の天性と言ふべきであらう。結婚後八年ほど殆ど句作廃絶の後、横光氏を中心とする「十日会」に入つた時、昨日まで句作を続けてゐたものの如く坦々と作り出したのも、少女時代にすつかりその道は自分のものにしてゐたゆゑであらう。

虚子翁によつて芸を身につけた彼女は、横光氏によつて俳句の精神を知らされた。俳句固有の方法と意識とに目覚めたと言つてもよい。波郷・友二君等の「鶴」が、更に彼女によりすぐつた連衆の集ふ場所を与えた。このやうな中で彼女の俳句がみがかれ強さを増して行つたことは、何と言つても幸福である。結婚後の苦しかつた精神的彷徨の果てに昔手がけた古巣に再び帰つて来たのだが、其処には思ひもかけぬ理想的な環境が横光氏や「鶴」の人達によつて待ちうけてゐた。これは長年の苦悩をつぐなふに足るものであつた。

 悔なしと言ひ放つより遠蛙

とあへて言明することが出来たのも、そのやうな幸福な世界を見出だした喜びを胸に抱いてゐたればこそだ。対話者を持つこと、談笑の場を持つことは、俳句を作る者には絶対のことである。
戦争が再び彼女を俳句的孤独の中に突落す。山陰に疎開する前、彼女は安見を背負つて横光氏を訪れ餞別の色紙を頂いて来た。(それが師弟の永別であつた。)書斎に這入つて永い間苦吟の末、氏は染筆した二枚の色紙を持つて応接間へ降りて来た。

   石橋女史送別
 花虻の蜜つけて飛ぶ霽れ間かな

        ○

   己李花枝。香泥古意新。相思知何日。一路雨多頻。

この詩は、君たち二人の間を詠んだものだと註釈があつた。二人とも故人となつた今だから、かういふことは書いてもいいだらうが横光氏は秀野について、「第二の岡本かの子になる人だつた」と言つた。また「歌に斉藤史、俳句に石橋秀野が競ひ合つてゐた」とも言はれたが、彼女が十日会で「望遠鏡かなし枯枝頬にふるゝ」といふ句を作つた時、「どうしてそれを小説にしないのか、勿体ない」と言はれたということを、後に私に語つた。念願とした小説の創作を果たさなかつたことは、彼女も死ぬまで恨事だつたらうが、彼女の俳句は、最も熱が這入つた終戦後歿前までの二年ほどの作品によつて、一応finiといふ感じがするのである。即ち終つたといふことが同時に完成したといふ意味に於てである。小説への想ひをこめて、彼女の俳句はみのつたと言ふべきだらうか。

彼女は現代女流の中では汀女・立子を買つてゐた。だが彼女が一番認めてゐたのは杉田久女であつた。虚子翁の破門を受けた狂気染みたこの不遇な女流の気迫の鋭さに引かれてゐたのであらう。さう言へば彼女の俳句にも、女らしい弱さはないのである。男じみるのではなく、完璧に女らしい豊かさの中に一種の強さをみなぎらして行くー彼女の俳句はこのやうな方向を指向してゐたやうである。強さ、弱さといふのは要するに造型意志の問題なのだ。文字を彫りつけることが同時に人間を造型することであり、命をきざむことであるかぎり、それが女人であれば女人の體息が濃ゆく染み出て来る筈だ。情緒的な女らしさを句に打ち出す人は多い。また男まさりの○屈調をやる女人もなくはない。だが強い張りの中に女人の命を刻む作家は寥々として無いのである。三鬼君が「俳諧の鬼女と化す」と言つたやうな一種の生存の決意が其処にはなければならぬ。
そしてそれは彼女の病中吟に於て極まつたのである。そこには死を前にして絶対絶命の生命の慟哭が聴かれるのである。彼女は素逝の句のやうな、肉親の所在を見失つてしまつたやうな弱弱しさを好まなかつた。彼女は子規や茅舎の病中吟に見られるやうな強さを好んだ。そしてその精神力の強さが、彼女の病状の進行を私たちの目からさへも蔽つてゐた嫌ひがある。死病の床に、彼女は生きのいい作品の数々を作つたのである。
昨年五月、病床を波郷君が三鬼君と連立つて訪れた時、彼女は泣出してしまつた。二晩京に泊つて波郷君等は帰つたが、東京の懐しい俳句仲間は、彼女のなつかしい想ひ出であつた。「私は自分で雑誌を出さうなんていふ気はないから、一生鶴で飼殺しにして下さいよ」と波郷君に言つた。その時染筆してくれた両君の色紙を、療養所の病室にも掲げておいた。死のニ三日前、脳症をおこして意識混濁した彼女は、見開いた目を壁の色紙に定着させたまま、「あそこに石田波郷と書いてある」とつぶやいた。死ぬまで俳句への妄執を彼女は絶たなかった。


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コメント

ここが読まれていました。

古典の知識がないなりの、必死の伴走でした。

今日は秀野忌です
こちらへおいでいただきました
わたしは仕事が休めずお参りすることができません
やすみこさまがせっかくいらっしゃるのにお会いできないのは残念でたまりません

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