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2010年9月 2日 (木)

戦争の話(19) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 2 日 戦争の話(19)

<橋爪一郎従軍記>

   ペーチカよさようならの巻

 昭和十九年二月二十五日、午前二時、「非常呼集」のラッパがま夜中のやみになりひびきました。「またかッ」と思いながらとび起きて軍装をととのえました。上官は「第一装(戦争の服)で出ろ、開戦だ」と言っていますが、こちらは、伍長にはなっているし、「また練習だろう」と思っているので、重たい物や大切なものはそのままにして、平素ためていたキャラメルやヨウカンなどを背(ハイ)のうにつめこみました。夜明けまえ、いよいよ出発、みんな「ふっふー」言っています。私は「すたこらさっさ」で身軽るなものです。「もう、だまされんぞ。」しかし、これがまちがいでした。とうとうそのまま行って二度と住みなれた第三〇六部隊の兵舎へは帰ってきませんでした。零下三十度であっても、私たちを暖ためてくれた大きなペーチカとも、私の大事な写真や記念品などを入れた整とん箱(戸だな)とも永遠の別れで、今もなほ、なつかしさと、おしさが胸にせまってきます。ペーチカは二人でやっと取りまける大きさで銀色に光って円とう形、部屋の片すみにデンと坐って天井をつきぬけています。屋根の上はま四角でサンタクローズがは入りそうな煙とつになっています。石炭を一晩中たいて部屋の温度を上げるのが二等兵、一等兵の仕事でした。たりない石炭を、よその中隊から、こっそりぬすんでくるのも、あわれな新兵の仕事、ペーチカで涙を流し、涙をかわかしたのも思い出です。

 私たちはその日のうちに、牡丹江(ボタンコウ)の雪の草っ原について、この日から三十一日間、天幕の家で寒空をすごしました。

1963年八女郡辺春(へばる)中学校『学年通信』より

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

▲かささぎのひとりごと

牡丹江の名前の由来が知りたい。
この地名がでるたびに、大きくて真っ赤な牡丹の花がイメージされるから。

牡丹江市の名前の由来は、市内を流れる川、牡丹江に由来する。というのは載っていますが。あ、ありました。ここに。曲がりくねった川という意味の満州語がまずあって、その音に通じる牡丹というきれいな美称をあてた。という意味のことがかかれています。このブログ、写真も文章もすっきりとして素敵ですね。http://blog.goo.ne.jp/dashu_2005/e/b5569579a810a6e9d31a5ea0765e808e

今日のは、四度目の正直の戦闘開始。
どうせ嘘だと思ってナメていた橋爪一郎伍長殿。
えらいこっちゃですが、笑えます。
ペチカのあった兵舎とわかれて、牡丹江の雪原で戦闘態勢。
かささぎは、個人的に本筋とはちがうところで、橋爪一郎先生の「今もなほ」というただ一字の旧仮名にぐっときます。
瀧春樹先生の『樹(たちき)』にいらっしゃる俳人鮫島康子氏はいま92歳、矍鑠としてお元気でご健筆であります。文章もたくさん書かれます。(いずれ引用します)、私は旧仮名へのあこがれが強く俳句や短歌は旧仮名で書きたいですが、逆に鮫島さんたち(そういえば前田先生もです)は現代仮名なのです。だけど、時にまじるんです。旧仮名が。~であらう。と言う風に、。つい、本音をもらしてしまった。という感じになっちゃう。化けの皮がはがれた、というかんじ。それはこちらとて同じで、意識的に使う旧仮名はしょっちゅう間違います。
今日も、一本、『食べる』からおまけにつけます。いいのかしら。
著作権。わからないですが、かささぎの意見では、金銭が絡むものではなく歴史の証言。いいでしょう。

ごみに群がる抑留兵

  狭山市 斎藤邦夫(自由業69歳)

 戦後、シベリアへ抑留され、イルクーツクのラーゲリ(強制収用所)にいた時のことである。ここでは、市内の道路舗装が主な作業だった。ラーゲリから作業場まで約四キロあったが、途中の道路は大半がごみの山だった。ロシア人が家庭から出たあらゆるごみを投げ捨てるからである。
 当時、ごみの回収はどうなっていたのか、それはひどいものだった。しかし、そのごみの中に、時々、民家の勝手口から捨てられるくず野菜があった。赤大根のしっぽ、キャベツの葉っぱ、傷んだニンジンや玉ネギなどであるが、それを見つけると、警戒兵の制止も聞かず、我先に拾った。
 そのくず野菜をそのまま生で食べる者もいれば、ラーゲリへ帰ってスープにする者もいた。空腹とはいえ、ロシア人の捨てたわずかなくず野菜に群がる日本兵の姿は浅ましく、また哀れだった。もちろん、私もくず野菜を拾った一人である。
 シベリア抑留で、旧日本兵の秩序が崩れた大きな原因は「飢え」だったと思う。「衣食足りて礼節を知る」と言われるが、私に言わせれば「食足りて礼節を知る」である。
 そんな私たちが一年余りの間に、ごみ捨て場のようだったイルクーツク市内の道路を、見違えるようにきれいにしたのである。だが、私たちは帰国するまで、ソ連からビタ一文、報酬はもらわなかった。
 あれから四十三年、現在のイルクーツクは日本からの観光客が多いと聞く。観光客が歩く市内のマルクス通りやレーニン広場等々の道路には、私たちの血と汗と涙がしみこんでいるのである。 (1990・8・21)

きのうのコメント

こんなに近くに日本陸軍のおそらくは本拠地があったんですね。
   (かささぎの旗)

本拠地>>はい。 だからこそ明治天皇がこの地で大演習をごらんになったのでしょうね。

投稿: エメ | 2010年9月 1日 (水) 11時21分

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コメント

引用した牡丹江ブログのあるじ、「時新電影倶楽部」という中国映画紹介サイトを運営しておられる三十台なかばの日本人であります。いや、すげ。いまの大陸に雄飛ってこんなんでしょうね。紹介したのは、プライベートを記すブログみたい。その中に、李紅旗という監督の「寒暇」という新作紹介があります。みたい。香川宜子さんの「紅輝よ波間にわが身を照らせ」からの連句的。
ほんじゃ。学長みないなことかいてはる↓

あれ?はりつけたのにな。
もいっかい、やってみよう。
こんどはどうだ。ちがうのつけよう。
こういうのをよみますと、大陸的というのも、いいなあ。と思います。いや、ほんと、いいなあ!

ご紹介のブログの「安徽省黄山」には登ったことがあります。まさに水墨画の世界が広がっていました。

笑っちゃいけないけど次どうなるんだろ?不謹慎ですがわくわくする日記ですね。

捕虜の時代日本人が作った道路の話が出てきますが、ウズベキスタンで日本人捕虜が作ったオペラ劇場が数年前の大地震でびくともしなかったという話がありますよ。
            ↓
日本人は捕虜になっても立派な仕事を残し、捕虜を受け入れても誠実に対応しています。
どんな世の中でも一部には悪いことをする人は必ずいます。軍隊の中でも同じだと思います。
その一部の悪いところだけを取り上げて全体が悪かったように言うのはどうしても許せません。

Wikipediaで大量虐殺の系譜を辿ると、紀元前に次の4つの大虐殺が記載してあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ユダヤ人による占領地カナンでの先住民虐殺
秦による長平の戦いにおける事後処理
項羽による新安での降伏した秦兵の虐殺
秦の始皇帝による坑儒
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
二番目の長平の戦いの事後処理というのは、紀元前260年に「秦」(白起)が「趙」の兵士ら40万人を生き埋めにしたというものです。
三番目は、紀元前232年に、「楚」(項羽)が「秦」の兵士ら20万人を谷穴へ落としたというものです。
四番目は、紀元前212年に秦の始皇帝が儒者を生き埋めにしたというものです。
「秦」氏はユダヤの「失われた十支族」のうちのダン族である、という説は有名ですが、その説が本当だとすると、紀元前の大虐殺にはすべてユダヤ人が関与しているということになります。(紀元後のポグロムもホロコーストも原爆も・・・)
三番目の虐殺と四番目の虐殺の間の紀元前219年、「秦」の始皇帝の命により徐福一行が来日します。「童男童女三千人と、護衛の兵、水夫ら数千人」の一万人近い移住プロジェクトだったようです。
徐福一行は、日本の大量虐殺の系譜の筆頭の地(大和による磐井制圧)、八女にも来ています。
「秦」兵を虐殺した「楚」は、9年後の紀元前223年に「秦」に占領され、安徽省で滅んでおり、徐福は人を「楚」の地域から集めています。移住プロジェクトの実行に際し、徐福は「楚」の人間を側近に重用しています。徐福一行は日本の「ハタ」氏のルーツだとされていますが、必ずしも秦氏ばかりが移住してきたわけではなさそうです。
(後に楚の人間である項羽や劉邦は秦を滅ぼします。)

ウズベキスタンのナヴォイ劇場、行きました。立派な建造物です。現地の人たちも、日本人が建設したということを知っていました。

数年前の春、上海→蘇州と汽車に乗り、無錫に寄って(尾形大作か!)、その他あちこち寄りつつ、南京にも寄って、「南京大虐殺記念館」にも恐る恐る行ったけど日本人だからと冷たい目でも見られず、却っていろいろ親切に教えてもらい、それからまた夜行列車で黄山に行きました。こりゃ登るのはきついですね、幸いロープウェイを適当に使って慣れぬ山歩き。白人のオネエチャンともブロークン英語でいろいろ話して仲良くなっり(といってもその場だけですよ、為念)、一人旅のよさを感じました。山頂で一泊すると、さらにいっそう水墨画の世界を楽しめたんだろうな、というのが心残り。さらにもう少し先に行くと、久留米と姉妹都市の合肥だったが、さすがにそこまで足延ばせなかった。
さくらさんの弁を借りれば、一部の中国人や、韓国人の悪いところを取り上げて、すべてが悪いように言われる昨今の風潮もどうかと思ってます。また現地で聞く彼らの日本人観(感)も決して悪いものではありません。中国でも韓国でも、いままでいかに無償の親切な行為を受けたことか。大上段に振りかぶった国際交流よりも、人間同士としての出会いが旅の楽しさ、感動の1つですね。ラバウルでもそう思いました。だから日本に来た、滞在している外国人にはなるべく気軽に、彼らの不安が解消できるように接するようしています~もちろんできないことはできないとはっきり言う必要はありますが。

黄山はロープウェイは使わずに車で登れるとこまで登り、あとは歩きで散策しました。当然、山頂で一泊です。早朝の霧靄の黄山は絶景でした。
下界での活動拠点は合肥市でした。一週間くらい滞在しました。
中国の人は、教育のせいか、党規律のせいか、画一的な行動パターンの印象がありますが、日本に県民性があるように、地域によって人柄は違います。安徽省の人たちとは、とても気持ちよく仕事ができました。

ところで、なぜ山頂で仕事?

先方が気を利かせてくれて、協議の会場を山頂のホテルに設定したためです。
こういうことは中国人同士でも一般的らしく、当時、中国政府は「会議費」の高騰が悩みの種だったようです。現在は、ずいぶん合理的に改善されてきているそうです。

岡部ろくやた追悼の記事にかささぎのことばをそのままコピペしてネットショッピングの宣伝してる。やってくれるじゃないの。
ところで、。
げげ。虐殺の記録、すべてゆだや関連すか?
3番はちがうのでは。楚。これは楚が佐渡の方で、突き落としたんでしょう、旗一族を。こんな黄山みたいな高い絶壁の山から谷底へ。でも20万人ていうたら、どのくらいの高さになるだろう。積み重ねていったら、山より高くならないんだろうか。おそろしくて考えられない。そして其の生き残った楚の人たちをつれて、じゃなかった生き残ったのは、えーどっち。とにかく、徐ふくさまご一行は、わがかみつやめの本拠地納楚へきた。とはだれもいうてないけど、そんなかんじ。すんまへん。かってに村の宣伝をしてもうた。

それが、この「しゅうせんいんらく」というかわったブログ名の牡丹江編二ページ目でも、偶然紅旗ということばをみつけました。(朝書き込んだのは、同ブログ映画の頁でみつけた李紅旗と言う名の新進監督だったけど)。かささぎは、こういうとき、妙にきになるとです。で、つい読んでみた。
親知らずが痛くてたまらなくなって、牡丹江のはいしゃさんへいったんだって。その医院が紅旗医院というのです。
そして、なんと中国の医療費は、医師によって値段が違うというシステムらしい。ほら、覚えているかな、おいしゃさんの妻のブログってのがありましたよね。そこに書かれていた愚痴のおおいなる一つが、なぜ経験値をいっさい考慮にいれない点数なのだ。というのでした。それ、一理も二理もありますんで。
ちょっと、ひまなら、よんでみてん。
あーあ。おらはつかれた・・・

とても面白し。
牡丹江編の6には八女投江という話がでてきました。
えっ八女?!と、八女市に住むものは驚く。

「林口という地名は、満鉄が駅を作った際に名付けたものだ。
2つの森林が交わる谷だったため、森林の口という意味でそう付いたらしい。
1939年にここに県が置かれ、開拓団の入植も行われた。
関東軍も駐屯しており、中国のいう抗日の英雄、日本のいう匪賊との対立も激しかった。
中国ではよく知られている八女投江があったのも、このあたりである。
八女投江とは、1938年に抗日聯軍の兵士たちが関東軍に追いつめられた際に、そのうちの女性兵士8人が関東軍の注意を引いて主力部隊を脱出させることに成功したものの、自分たちは川に追い込まれ、捕虜になるよりはと川に身投げして亡くなったという逸話である。
8人のうち、最年長は23才、最年少は13才だったという。

また、このあたりは終戦時にソ連軍が侵攻してきたために、日本の開拓農民の多くが殺されたり集団自決させられたりした所でもある。
関東軍は先にさっさと逃げてしまい、おまけに牡丹江に向かう線路の鉄橋を破壊してしまった。
避難民を乗せた列車は知らずに鉄橋に入り、そのまま落下し、無数の死者が出たといわれている。」

すみません。面白し。などといっては罰があたりますね。
そうではなくて、どういえばいいか、初めて、あちら側から、客観的にものをみることができたような気分になれた。という意味です。
乙四郎父の文章に臨場感があり、時空間を一気にこえられたのは大きい収穫ですが、それを補って余りある、この「だーしゅー」さんの文章ではあります。どちらも、すばらしい。これまでにこんなの、よんだことなかった。勉強になります。有難うございます。

磐井 の 祖先 辺春

のグーグル検索でこちらへお見えのようです。
それでおかげさまで知りました。
↓、卑弥呼は磐井の祖。

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