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2010年9月 8日 (水)

戦争の話(25) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 8 日 戦争の話(25)

<橋爪一郎従軍記>

   花嫁さんの巻

 お金持ちは何人もの嫁さんがいて、話していて誰が誰か分らない時があります。貧乏な人(苦力(クーリー)など)はお金がたまるまで花嫁さんを貰うことが出来ません。苦力に「お前は太太(タイタイ 奥様)あるか」など聞くと、とても残念がる事があります。花嫁さんは、にない棒のついた腰掛けのある家(箱)みたいなものに乗って行きます。八名のにない手、親族の者、見物人、そしてパンパンいうバクチクの花火と、なかなかにぎやかな行列です。にぎやかで盛大なのがよい花嫁さんで、私も、一度、にない手になってお酒を御ち走になった事がありましたが、親族の者たち、とても喜んでいました。私も喜んでいました。

1959年八女郡辺春(へばる)中学校『学級だより』

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

コメント

typhoonおはようございます。 台風遠いかと安心していたらけっこう吹いて来ましたね。
矢>>友人が昔内職者でした。
一般の内職よりお給金が高かったです。
かなり技術が必要のようでした☆

中国での「戦争」では、日本軍は誰を相手に戦っていたのか。一郎エッセイを読むとこんがらがってしまいます。エッセイではしばらく、日本の兵隊さんの南支那での中国人との交流の様子が綴られますが、これがあの「南京」周辺地域での実態でしょうか。反日感情が渦巻いているようには思えません。
Wikipediaの下の記述が、一郎エッセイの背景理解に役立ちました。日本軍は、どこかの「軍」と戦ってたけど、そこに住んでいる「中国人」と戦っていたのではないようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
当時の中国大陸では、日本軍・南京中華民国政府軍・蒋介石国民革命軍・共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊や抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。その中で各地で暮らしていた中国人達は翻弄され、農業や商業、工業、運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘やゲリラ戦に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中で各勢力に食糧を徴発され、飢餓に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。

では連句的に幾つか『食べる』からご紹介します。

『戦艦大和と塩不足』、ってのも引きたい(筆者が御自分でおっしゃるには、最下級の罐カマ部の兵士の目から書かれている。)だけど、日本はすばらしい。底辺だろうが何だろうが、みな平等に識字率高いことがです。どんな戦記も読めます。

輜重兵に塩を求める少年
      茂原市 金子哲郎(無職・79歳)

日中戦争で輜重兵(しちょうへい)特務兵として召集され、馬のくつわをつかまえて、中国南部の平原を連日、チャカチャカ、チャカチャカ、馬の金具の音を立て、土煙を上げて行軍した。
ある日、激しく行進する車の列に、おずおずと小学校高学年くらいの男児が近寄って来た。ちょうど自分の馬の所で「塩」と墨書したハンカチ大の紙片をかざす。ははあ、これがいつか古兵の言っていた「塩をくれ」ということかと合点。
まずイイ公(持ち馬の愛称。うれしい時、長い顔を上げてイイイと鳴く)に「前の車に付いて行くんだ。ええか」と言って、手綱をくらに結びつける。子供に合図して車馬の横を走り、塩を積んだ車両に達する。揺れ動く車輪に疲労の体を巻き込まれないよう用心しつつ、塩の俵に手を突っ込み、ようやっと十数握り、抜き取ることに成功、子供の袋に入れてやる。
子供は「シアシア(感謝のシャ?)」とか言って、提げて来たかごの鶏卵十数個を手渡し、早々に背丈もあるカヤのかなたに消えうせた。
交通が途絶え、避難している大陸の人々は塩を欠く。そして馬を伴う部隊は、必ず塩を持っていることを知っている。馬のえさにはその都度、塩を混ぜる。そこで、男の子を使いによこす。これが当時、塩を手に入れる一番危なくない方法だった。
塩がいかに人、馬、生き物に重要、欠くべからざる物であるかを今更ながら感ずる。(1990・10・31)

備考;しちょうへい今で言う輸送兵。
当時の主力輸送車は、さんきゅうしきしちょうしゃ↓。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B9%9D%E5%BC%8F%E8%BC%9C%E9%87%8D%E8%BB%8A

馬一頭でひく大八車みたいな。

戦艦大和と塩不足
  
  岐阜市 青木幹夫(無職68歳)

世に言うレイテ沖海戦に私は、戦艦「大和」罐(かま)部の最下級の兵士として参加した。
戦況のことなど何も知らされないまま、文字通り汗と油にまみれて戦った。「大和」は冷暖房完備の新鋭機と言われていたが、クーラーは士官の部屋や病室にあったのみである。我々兵員室には、上甲板の巨大な通風筒からファンによって送られてくる空気によって、幾分、冷房効果はあったので、他の艦船より居住性は確かに良かったようである。
その通風装置も、一度、戦闘となると、毒ガス防御のために一切が止められてしまう。レイテ沖の場合も同様であった。ただでさえ暑い機関室である。室温は摂氏57度まで上がった。
異常な発汗によって、脱水状態になった上、塩分の極端な不足を起こして、熱射病患者が続出した。医学的には熱射病とはどう定義されているか知らないが、私の体験したところでは、身体のすべての関節にけいれんが起こり、やがて、立っていることが出来なくなり、その場に倒れてしまうという症状であった。
そんな時、上層部の配慮か、薄く塩味のついた重湯と梅干し数個が、戦闘服に身を固めた主計兵によって配られた。これによって、少なくとも私の場合、軽い症状を覚えながらも何とか持ちこたえることが出来た。
人間にとって、塩分の不足がどんなに恐ろしいことであるか、身をもって体験した私は、グルメとか減塩とかいわれる現在を見て、感無量の思いで当時を振り返っている。(1990・8・24 朝日新聞投稿記事)

エジソンが電球に使ったのは、京都郊外にある石清水八幡宮の竹だと聞いたことあり、また実際行ったらそういう説明書きの竹林がありました。『徒然草』第52段「仁和寺にある法師」でも有名な神社で(昔古文で勉強した覚えがある)、今はケーブルで簡単に登れます。
私が20数年前に行った時、にわか雨が降ってきたら、この神社の巫女さんが神社の中で雨宿りさせてくれた、そんな親切な神社でした。というわけで、「八女のじゃなきゃだめだった」わけではないのが残念でしたね。

乙四郎、引用のブログ読みました。
>「敵は城門を閉鎖した為、城外の住民と敵兵は城内に逃げ込めず、彼我の交戦する弾雨の下に倒れ、我軍の進撃する道路、クリークの中も死屍累々・・・。それらを取り除くでもなく、その上を砲車、人馬の進撃が続く。死体と血、土の混じりあったグニャグニャした感触の”道”の上を進むその時の感覚、光景は今でも忘れられない。地獄でもこの様にひどくはないであろう。でもこれが戦争だ。」
胸が悪くなるほど、リアルな表現、よく伝わります。

ですが、次の文章に異議あり。

>「その後の南京の様子からも、”南京大虐殺”など絶対に無いのだ。戦後一部の政治家が中国の謀略に嵌って謝ってまわったことが、事実として認識される様になったのだ。現に、東京裁判でも大虐殺のことは一言も論じられなかった。」

東京裁判で一言も論じられなかった、というのは本当ですか。何を裁かれたとお思いですか。
では、かささぎの持っている『廣田弘毅』にある「いわゆる南京事件をめぐって」の題の裁判での記録はなんだったのでしょう。
(ここで本をさがす。・・・ありました。できるだけ引用します。長いけどやらねば。)
これまでかささぎの周囲で南京虐殺はなかった。と主張された人にさるベテラン俳人(お父上が海軍のえらい人だった俳人、連句をご一緒したことがあります。前田先生たちと星野に見えました、池の山荘)がいらっしゃいます。さしでがましくも、かささぎはここの部分をコピーしてさしあげたことがあります。なんにも返事がありませんでした。もしや、「これこそ東京裁判史観じゃないの」で片付けられたものでありましょうか。
ひとつ、いえることは、わたしたちは、なにも知らない。ということだけです。体験もしていなければ、戦記を読んだ量も圧倒的に少ない。
さきのブログのあるじは体験もなさっていますし、読書量も私達よりはるかに勝るでありましょう。
が、では全体を俯瞰できる位置におられたのかといいますと、それは疑問であります。
当時の裁判が戦勝国側の一方的なものだったとしても、そのなかでどう事実が陳べられたかを知ることはだいじであります。
かささぎも、手で入力することで、何かこれまでにないものを思うことが出来るような気がします。

ろいりさんへ。
以前書き込まれたように、中国や韓国の人たちがとても親切になさけを示してくれたということは戦争でもたくさんあったそうです。いま、『食べる』と言う本から一般人の戦記を引用していますが、その類の体験談がいくつもあります。機会があれば引きたい。
その竹、なんで八女だと覚えていたのでしょうね。
なにか理由があったと思う。久留米図書館で読んだ本です。もう一度読めば思い出すと思うけど、それがなんという本だったか忘れてしまいました。気になる。
それから、石清水八幡はずうっと気になっている。黒木助能の愛人(伝説では後鳥羽院の下された小侍従)になにか関係するのです。小侍従の父がそこ出身だったのかなあ。ああ、なんだったかな。いつかつながるか。これは星野の行空の墓~黒木市発行の調城哀話からの連句的。

従軍記は、面白おかしく淡々と書かれていますが、父の体には手榴弾の破片が埋まっているし、昇進が早かったのは前線で上等兵が次々に戦死したからだと聞いているし、仲間の屍の一部を遺品として収集するのが日課だったとも聞いています。終戦を知らず、8月15日以降も戦い続けていたとも。
戦争末期、南支那の日本軍がどうだったかは、一郎エッセイで明らかになってゆきます。

そうでしたか。

いわゆる南京事件は、昭和12年12月13日南京入城直後の残虐事件であろうとおもわれます。口述書には「アトロシティーズ」と英語で語られていますが残虐行為であります。たしかに大虐殺とはかかれていませんが、アトロシティーズについての質疑応答はあっています。
ともかく写せば、なにか見えてきそうな気がします。
実は余りにも文書量が多くて、最後までよめていない。
(ちなみにかささぎの父とオットの父はともに12月13日生まれです。)

始皇帝の焚書坑儒も「大虐殺」といわれながら、史実は、殺された儒者は460人だったようです。
南京で日本軍による非人道的行為があったことは東京裁判で認められていますが、それが「大虐殺」と言えるか否かは議論があるところ。
宮崎で殺処分された家畜の数ほどの人間の屍があったとは、にわかには信じ難い。遺体処理に相当の人手と期間を要したはずですが、遺体処理の状況についての記録は残っているのでしょうか。

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コメント

(死体処理のことは書かれてなかった。)

ところで、昨日、第57回長崎原爆忌平和祈念俳句大会作品集が届いていました。ことしも参加できてよかった。音彦&らんの新夫婦も投句してくれていました。音さん、じょうずだったねえ。びっくり。

まだ全部よんでいません。入賞作品から。

「創平」と名付けてくれし祖父の夏  山川創平
   (精道三川台高校二年)
長崎忌三人だけの同窓会  泉 芳雄 (秋田)
胎の子が確と腹蹴る長崎忌  松雄久美子(福岡)
生き残り便器をみがく長崎忌  尼崎 澪(福岡)
  (昨日はトイレの神様の歌もきいた。)

お久しぶりでした。

橋爪先生の従軍記、楽しく、といったら内容が内容だけに語弊があるのでしょうが、軽妙な文体に引き込まれて楽しませてもらいました。
かえるの子はかえる。
学長の文章力は父親ゆずりなのでしょうね。
しみじみ、それを感じさせられてます。

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3位

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