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2010年9月 6日 (月)

戦争の話(23) 橋爪一郎従軍記

保険医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 6 日 戦争の話(23)

<橋爪一郎従軍記>

   南京への巻

 支那へ這入ったとたんに、夏のかまえのスッカラカンになりましたので、たまったものではありませんでした。汽車の中でも夜はぐっと冷えこんで、みんなブルブルです。一かたまりになって、体を体でぬくめているうちに汽車は南へ南へと走りました。窓ごしにチラホラ見える外の景色は、だんだんと風変わりになって、最後についたのが南京でした。日記文によると、南京着三月二十九日ですから、まるまる九日間を汽車の箱の中だけですごしたわけでした。

 南京では、初めて見る揚子江(ヨウスコウ)の大きさに先ずびっくり、この川を舟でわたって、ここに四月十日までの十二日間を体ならしですごしました。鉄砲をもらい、鉄かぶとをもらい、ここで、すっかり戦争の用意が出来上りました。けれども残念なことには、鉄砲の中の半分は日本製ではなく、支那兵のもっていたもの(ぶん取り品)でした。鉄かぶとも全員分はなく、一等兵以下は持ったり持たなかったりのあわれさでした。鉄砲は的をねらっても、丸(タマ)は、全然的はずれ、音だけは大きくて、どっちの方へ飛んでいるのかさっぱりわからないといった有さまです。この頃は、日本は負け始めていたことになりますが、それでも私たちは、ヤマトダマシイで絶対に勝つ覚悟でいました。

 南京で、とくに印象に残りますのが、米がもち米であったこと、支那人(苦力クーリー)の臭かったこと、何とか大尉が飛び下りたという光華門(?)の城壁の高かったことなどです。

 所で私たちは、まだ行先きを知らないままです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(学級通信、1学年連載終わり)

1963年八女郡辺春(へばる)中学校『学級通信』より

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

コメント

山海関>>岩戸山のふもとにあるお店の名前。奥様は中国の方とか。

戸>>地面の扉が開く場所>>と、何かで読みました。
大地震>>江戸、神戸、西戸、八戸・・
岩戸>>天の岩戸もこちらの岩戸も謎と神秘に包まれていますね☆

えめさん。ことだま、すごいものですね。
ところで、はずかしい話、笑わないでください。
わたしは、関東軍を日本の関東に本部がおかれてる軍隊だとばかりおもっていました。その割には上官の命令のことばまでが九州弁なのはなんで?と思って読んでた。関東軍のイメージはとっても悪いでしょう。戦争の原因を作ったとされるから。
ウィキから拾ってきました。

「張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行したことは、1920年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。

また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。

また、関東軍は、阿片王と呼ばれた里見甫と結託し、アヘン取引組織を作った。これらの事実により、戦後においては「太平洋戦争の原因を引き起こし、日本を破滅させた元凶」として忌み嫌われる、旧軍の中でも特に悪の枢軸的存在としてのイメージがついてしまった。

これをよみ、橋爪一郎従軍記の昨日の文章を読み、それから、西牟田靖ブログでぐうぜん知った、自民党党首の祖父はアヘンでもうけた人である、という事実も考慮に入れつつ、いろいろとものを思う。

谷垣禎一の祖父、影佐禎昭(フレッシュアイペディア検索);
民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買を行う里見機関を設立。中国で阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。戦後中国から戦犯指名を受けるも結核のため入院、55歳で獄死。このかたの生き方、すさまじい。
生涯を追った著書に浅田百合子『日中の架け橋~影佐禎昭の生涯~』(新風舎、2003年)
これ、なんとなくよみたくなってきた。香川先生の本が二冊出てた出版社。

とんでも仮説

徐福(ヨハネ)の末裔たちは、八女の奥地に集落を形成し、その地はヤーヴェ(神)の村(矢部村)と称された。
矢部村は八女津姫を輩出し、やがて卑弥呼として九州広域へ君臨した。
卑弥呼の影響力の拡大とともに徐福の末裔たちは平野部へ進出し、磐井を輩出した。
磐井は聖地イースェ(伊勢)宮を建造し、その地を岩戸山と称した。
古代キリスト教勢力は、これを好ましく思わず、大虐殺によりイスラエル支族の痕跡を抹消した。この時、邪馬台国の痕跡も徹底的に消された。
岩戸山の聖地は、大和の前方後円墳に模して改造され、磐井が自分の墓を生前に作らせたものと史実が捏造された。
磐井の息子は、イエスの受け入れを表明したために赦された。

とんでも仮説おもしろいです♪
ヤメツヒメ=ヒミコ>>昔、夫に力説しました(^_-)-☆
岩戸山の石室には何が眠っているんでしょうね。
「戸」を開けたらいけないのでしょうね
40年前、「この石室の入り口はこの市の歴代首長だけに伝承されている」と、聞いたことがあります。

(仮説補足)
イス・ラ・エル=man for god「神の民」
エルが「神」で、イスが「民」
宮は「神のため」の聖地なので、伊勢=イセなら、イセ宮は、まさにイスラエル。

▼コメントへのコメント

>徐福(ヨハネ)の末裔たちは、八女の奥地に集落を形成し、その地はヤーヴェ(神)の村(矢部村)と称された。

笑。
いとこの娘がじっさいに矢部村の奥地でむすこと自給自足の開墾生活をしていたことがあります。集落を形成するまではいきませんでした、再婚してカナダに行ってしまったからですが。
(ここにえめさん撮影の七枝刀ツアー連句興行のとき撮られた矢部川の写真をはりつけようとしたのですが、どうしてもできません。神秘的な一枚。残念。)

ふと思いついて、その息子の名前がJustinでしたし、母親は熱烈な教派のクリスチャンでしたから、聖書で何か出てくるのだろうかと検索してみました。すると、

最初にでてきたjustinの名前をひらきますと、でてきたのは、

あっと声をあげそうになった、だって「浜寺聖書協会」って出てる!http://www.hamaderabible.jp/PDF/whatischurch.pdf#search='justin,

Justin Martyr

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コメント

おはようございます。
写真>>あれを撮った場所はもうありませんね。
この世で最後の1枚・・。
今は神棚の下に掛けていますが不思議にマッチしています。

えっつ。もうない!?それはどういうことです。

橋が撤去されたって事です。
またあっちに行くときに寄ってみます。
古代の風景にもどったともいえますね。

矢部村に伝わる民謡です。(↓)
春祭の歌詞(ヤーエ節)
  一、こちの座敷はヤーエ祝いの座敷
    鶴と亀との舞い遊ぶ
  二、鶴と亀とはヤーエ何して遊ぶ
    末は繁昌と舞い遊ぶ
  三、とどけとどけヤーエ末までとどけ
    末は鶴亀五葉の松

ヤーエ、はヤーヴェと同じく、絶対神の呼び名。
そして、これまた日ユ同祖説でしばしば出てくる「かごめかごめ」の歌詞(鶴と亀が滑った)と響き合う歌詞が伝承されています。

鶴と亀とが舞い遊ぶ歌詞は全国いたるところにあるようですね。矢部村の特色は、ヤーエのあいの手がはいるところ。
神社検索では、星野村には神社は1つしかないというのに、矢部村には34もあります。矢部村の古代史に何かがあったのでしょう。
「千人塚」が三か所あるという伝承もあるらしい。矢部村の人口を考えると、全滅に近い大虐殺が行われたかも。

わらったらいかんのやけど、わらいますよね。
常識のはなしをしますと、矢部というのは、弓矢を作る部族が住んでいたところですよね。
でも、そんなはなしはあまりきいたことありません。今朝、内弁、外弁というのを調べていたら「八女の手仕事」というブログにつながりました。そして、そこでは職人さんが弓矢をせっせと作っておられた。たしか、熊鷹の羽。絶滅危惧種だから、ほかの鳥のかもしれんけど。
 撓り佳き八女の矢竹や初明り  恭子
八女の竹は特別だって何かでよみませんでしたか。あれは科学の本でしたっけ。エジソンじゃないけど、電球のフィラメント、むかしは竹で代用したんじゃなかった。それも八女のじゃなきゃだめだったらしくて。どうしてかな。と、ずうっと疑問に思っていました。
次から次、こんなどうでもいいことがかけるものだわ。

光華門、南京
   ↓

エジソンが電球に使ったのは、京都郊外にある石清水八幡宮の竹だと聞いたことあり、また実際行ったらそういう説明書きの竹林がありました。『徒然草』第52段「仁和寺にある法師」でも有名な神社で(昔古文で勉強した覚えがある)、今はケーブルで簡単に登れます。
私が20数年前に行った時、にわか雨が降ってきたら、この神社の巫女さんが神社の中で雨宿りさせてくれた、そんな親切な神社でした。というわけで、「八女のじゃなきゃだめだった」わけではないのが残念でしたね。

乙四郎、引用のブログ読みました。
>「敵は城門を閉鎖した為、城外の住民と敵兵は城内に逃げ込めず、彼我の交戦する弾雨の下に倒れ、我軍の進撃する道路、クリークの中も死屍累々・・・。それらを取り除くでもなく、その上を砲車、人馬の進撃が続く。死体と血、土の混じりあったグニャグニャした感触の”道”の上を進むその時の感覚、光景は今でも忘れられない。地獄でもこの様にひどくはないであろう。でもこれが戦争だ。」
胸が悪くなるほど、リアルな表現、よく伝わります。

ですが、次の文章に異議あり。

>「その後の南京の様子からも、”南京大虐殺”など絶対に無いのだ。戦後一部の政治家が中国の謀略に嵌って謝ってまわったことが、事実として認識される様になったのだ。現に、東京裁判でも大虐殺のことは一言も論じられなかった。」

東京裁判で一言も論じられなかった、というのは本当ですか。何を裁かれたとお思いですか。
では、かささぎの持っている『廣田弘毅』にある「いわゆる南京事件をめぐって」の題の裁判での記録はなんだったのでしょう。
(ここで本をさがす。・・・ありました。できるだけ引用します。長いけどやらねば。)
これまでかささぎの周囲で南京虐殺はなかった。と主張された人にベテラン俳人のはるのみなとさん(お父上が海軍のえらい人だった俳人、連句をご一緒したことがあります。前田先生たちと星野に見えました、池の山荘)がいらっしゃいます。さしでがましくも、かささぎはみなとさんにここの部分をコピーしてさしあげたことがあります。なんにも返事がありませんでした。もしや、「これこそ東京裁判史観じゃないの」で片付けられたものでありましょうか。
ひとつ、いえることは、わたしたちは、なにも知らない。ということだけです。体験もしていなければ、戦記を読んだ量も圧倒的に少ない。
さきのブログのあるじは体験もなさっていますし、読書量も私達よりはるかに勝るでありましょう。
が、では全体を俯瞰できる位置におられたのかといいますと、それは疑問であります。
当時の裁判が戦勝国側の一方的なものだったとしても、そのなかでどう事実が陳べられたかを知ることはだいじであります。
かささぎも、手で入力することで、何かこれまでにないものを思うことが出来るような気がします。

ろいりさんへ。
以前書き込まれたように、中国や韓国の人たちがとても親切になさけを示してくれたということは戦争でもたくさんあったそうです。いま、『食べる』と言う本から一般人の戦記を引用していますが、その類の体験談がいくつもあります。機会があれば引きたい。
その竹、なんで八女だと覚えていたのでしょうね。
なにか理由があったと思う。久留米図書館で読んだ本です。もう一度読めば思い出すと思うけど、それがなんという本だったか忘れてしまいました。気になる。
それから、石清水八幡はずうっと気になっている。黒木助能の愛人(伝説では後鳥羽院の下された小侍従)になにか関係するのです。小侍従の父がそこ出身だったのかなあ。ああ、なんだったかな。いつかつながるか。これは星野の行空の墓~黒木市発行の調城哀話からの連句的。

従軍記は、面白おかしく淡々と書かれていますが、父の体には手榴弾の破片が埋まっているし、昇進が早かったのは前線で上等兵が次々に戦死したからだと聞いているし、仲間の屍の一部を遺品として収集するのが日課だったとも聞いています。終戦を知らず、8月15日以降も戦い続けていたとも。
戦争末期、南支那の日本軍がどうだったかは、一郎エッセイで明らかになってゆきます。

そうでしたか。

いわゆる南京事件は、昭和12年12月13日南京入城直後の残虐事件であろうとおもわれます。口述書には「アトロシティーズ」と英語で語られていますが残虐行為であります。たしかに大虐殺とはかかれていませんが、アトロシティーズについての質疑応答はあっています。
ともかく写せば、なにか見えてきそうな気がします。
(ちなみにかささぎの父とオットの父はともに12月13日生まれです。)

始皇帝の焚書坑儒も「大虐殺」といわれながら、史実は、殺された儒者は460人だったようです。
南京で日本軍による非人道的行為があったことは東京裁判で認められていますが、それが「大虐殺」と言えるか否かは議論があるところ。
宮崎で殺処分された家畜の数ほどの人間の屍があったとは、にわかには信じ難い。遺体処理に相当の人手と期間を要したはずですが、遺体処理の状況についての記録は残っているのでしょうか。

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