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2010年9月12日 (日)

戦争の話(29) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 12 日 戦争の話(29)

<橋爪一郎従軍記>

   そう式の巻の(1)

 支那のどこの家にもある大きな品物の一つに棺桶があります。日本のふとんを入れる長持みたいな大きな箱ですが、とても重たいものです。板で作った箱ではなくて四角い柱ばかりで作った箱です。フタは少し山形で、全体、内、外みんなウルシで塗り上げたすばらしい棺桶です。一つ作るにも高いお金がかかるということです。この棺桶は、まだ生きている人が自分の物に用意しているのです。少しひどい言い方ですが、支那の人は自分の棺桶を作るために一生せっせと働いているのです。すばらしい棺桶で死んで行った人が一番偉い人としてみんなにあがめられるのです。

 別な話ですが、私たち兵隊は、この棺桶によく寝たものです。寒い日はフタをして暖かく、カの多い夏は、少しむし暑いが、かやの代りにしてなかなかいいものです。私も大金持の金ピカの棺桶を見つけて寝た事がありますが、その時そのまヽ死んでいたら今頃は一番偉かった人としてみんなの人にあがめられていたというわけですが、・・・・・・・。

 さて支那では、お年寄りの人から順々に亡くなっていかれる事は、天の神のおまねきだとしてあまり悲しみません。子供が死んだり誰かが早死したような時は、それこそかわいそうなくらいひどく悲しみます。棺桶の用意が出来ないまま死ぬ事はそんなに残念というわけです。支那の人は死んで財産を子供に残すのではなく、働いた財産全部を自分のそう式の費用にあてる風習があるのです。そして又、お墓を大切にし先祖を大切にする事も外の国におとらぬようです。

 所で私は支那にいる間に三度だけ、そう式の実際を見ました。日本とちがう所の一つに、そう式の列の先頭に「泣き人」という人が通ります。

1959年八女郡辺春(へばる)中学校『学級だより』

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

▼かささぎの独り言

ん。棺おけでねた。すてきだ。

画家の杉山洋おんじいと似てる。
(杉山おんじいは若かりしころ市の火葬場の造営に携わり、できたての焼き場のかまにねたことがあるといってらした。)
生きてるうちから自分の棺おけを用意する。

なんて、自己完結型のさばっとした生き方。
こないだのだーしゅーさんの「中国人はカルテを自分で管理する」ってのと同一。すてきだ。http://blog.goo.ne.jp/dashu_2005/e/ae699ceaff19c9510d39790a58f8398c

(※ちょうどこれに呼応するように、保健医療経営大学の学校通信、「楠風通信」に「患者目線の情報」という記事がかかれているのを発見しました。ついでのことにご紹介します。文末)
だけど、中国の人たちはたいせつな棺おけに異国の兵隊さんが寝たとあとで知ったら、いやだったでしょうね。
かささぎは、廣田弘毅の戦記を目下引用中で、その中の記載とリンクさせて想像しながら読んでいます。きのう引用した中に、次の一節がありました。

>「普通なら、市の有力者が自治委員会などを組織して、迎えに出たり交渉に当ったりするものだが、そういうものが全くなかった。」(南京入城後、昭和12年末)

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6354.html

橋爪一郎従軍記は日本の戦況が悪くなる昭和17,8年頃からのものです。
したがって、南京事件(昭和12年12月13日~13年2月はじめ)とは隔たっているのではありますが、のちに軍事裁判で文民であったにもかかわらず、廣田弘毅がその責任をとらされたことを思えば、この世界大戦で噴出した日本軍の最も罪深い影の部分。その部分はいやでも知っておかねば。知らずに戦勝国のやった不公平裁判史観だということはできない。知った上で、おなじ言葉を吐くべきだ。

患者目線の情報

  診療情報管理士
    専任講師  柴田実和子

長年勤務していた国立病院機構九州医療センター医療情報管理部を辞し、今年四月、病院のマネジメントができる人材を育てるため、本校(保健医療経営大学)へ赴任いたしました。
ここ五年、医療従事者の間で、大きく意識が変化したのは、診療録等において「患者の立場」に視点を置くようになったことです。背景には、雑誌やインターネット上での病院情報、病院機能評価の結果公開等のホームページ、患者の医療に対する知識、個人情報保護法の全面施行等の法整備の中で、従来の医師おまかせ医療「パターナリズム」から、医師と患者とは「対等な契約関係」であるという医療の変化があります。
手術や投薬等の診療方針を説明し、患者が納得したうえで治療を行うこと、すなわち、「インフォームド・コンセント」が常識となり、また他の病院の医師の意見を求める「セカンドオピニオン」についても徐々に定着しつつあります。
医療従事者と患者がより良い信頼関係を保つためにも、患者は、受診する医療機関および医師、治療方針等を自分の意思で選択し決定する時代となりました。
この患者の意思決定を支援するためには、正確な情報、例えば自院の診療方針・治療成績(疾病別平均在院日数、疾病別手術件数、手術後合併率、再入院率、疾病別死亡率等)などを提供しなければなりません。また、情報の提供は、経営戦略上重要な足掛かりにもなります。
そのためには、診療記録を読み、病院にとって必要な情報を収集し、監査によって精度の高い情報を適切に管理し、情報を活用し、また誰にどのような情報を提供するのか決定できる人材、また医師・看護師のみならずコ・メディカル(薬剤師・理学療法士・栄養士等)とコミュニケーションを図りリーダーシップがとれる人材が必要となってきます。
本学(保健医療経営大学)は、社団法人日本病院会より診療情報管理士の指定校として認可された九州唯一の大学です本大学でしか味わえない幅広い知識を身につけ、将来自分で考え対応できる社会人に育つことを期待しています。大いに学びましょう。

(「楠風通信」第四号平成22年9月6日発行)

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コメント

一郎さんの書かれている支那の葬祭、死ぬ前に自分の棺おけを用意しているというのを読んで。
もしや、ずうっと前からそうだったとする。そんなら、イワイの寿陵も、その手のものだったのではなかろうか。つまり、イワイは大陸から来た、ってことの証明では。
『石橋秀野の百句を読む』(山本安見子著)を読んでるところですが、次の一句、安見さんの初節句、生後一ヶ月での句。

父小野氏母石ノ上氏
初ひヽな陸奥(おく)と大和の御祖(みおや)かな

前書のいそのかみ氏をどう安見さんがよむかというのがかささぎは知りたかったんです。父のほうは、調べられたからわかったんですが(健吉の母方の祖は小野のたかむらってことになってた、横山家、前田利家の家老だった家)、藪家のほうが謎だったんですよね。で、その部分を紹介します。以下全文引用。
「母石ノ上氏」と詞書をつけるからには、藪家が石ノ上家の流れを汲む、という誇りがあったのではなかろうか。
奈良の石上神宮は藪家代々の地、天理にある。
天理一帯は、古代には、和邇、柿本、物部などの豪族が繁栄した地。石上神宮は物部氏の氏神である。
物部氏は古代の有力氏族である。物部守屋は587年に弱冠十四歳の馬宿王子、後の聖徳太子と蘇我氏の連合軍に敗れた。物部一族とそれに繋がる人々は石ノ上氏となり、それから千三百年あまり、中央政治とは無縁で田畑を耕しながら営々と天理に住み続けてきた、と考えたとしてもおかしくはないだろう。
(でも秀野の父は立派な系図まで借金のかたにうりとばした、というはなしがこれにつづく。)

大陸の影響は当然あったとしても、生前にあんなでっかい墓をこさえたというのは違和感があります。その前にも後にも、日本には生前に墓を作る文化はないように思えます。しかも、大和に屈服したがごとき前方後円墳です。
磐井は、墓ではない、大きな聖地をこさえたのではないでしょうか。

秀野さんの石上神宮のことをすこし。

[また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。]
これ、こないだ乙四郎がなんかかいてましたね。わすれた。

つぎの文章の長くてわかりにくいこと。さっぱりわからん。くらがひとりでたおれた?なしか。

[天武天皇3年(674年)には忍壁親王を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。]
兵器庫を移動するため、人民のべ15万7千余人とは、どういう計算だろうか。↓のブログでは、やまは人工の山では。とあります。築山ならそのくらいの人員があれば、できたかも。と、いわとやま、自然の丘陵だろうか?
ふつのみたまではなく、ふるのみたまをよびだしてしまったため、神がかりの巫女が一晩中怒り狂った、というの。だれか、ふるのみたまとふつのみたまの違いを丁寧にといてくださいませんか。

それから、「天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある」のも、興味をひく。八女戦国百首が元号の数(天文24年)とおなじ人数24人でまかれていることに通じるから。

それから、もう一点。へこという地名、たしか佐賀やまとのほうにもある。兵庫とかいてへこと読む地名が。関係ないかな。

それと。いわとやまこふんに話を戻します。
県南ニ里。っていう表記。上妻県。かみつやめのあがた。みなみ?あ、そうか。群ガの南だ。ガトウのガでしたね。石人石馬は形象埴輪の代替品てかかれている。

佐田茂名誉教授のかかれたものをみていたら。
等身大の武装石人・石盾・石刀は全部で約120枚、一メートル間隔で二列に並んでいたらしい。しかし、石蔵、石殿はもうなかった。筑後国風土記にはそれらのことも書かれていることから、壊されて他の物に変ったのだろうという。墳丘のてっぺんにイワイに模した武装石人と「盛装した」石馬、さらにイワイをまもる近衛兵の武装石人がならび、墳丘には扁平な武装石人・石盾・石刀が二重にぐるっとめぐっていて、三重にめぐる円筒埴輪とあわせるとさながら墳頂のイワイ軍団を守っているかんじである。(とかかれていた)
で、イワイ以後は、生活感のにじみでた石人形になっていく、武装はしていないもの、子を背負った女の石製品とか(イワイロードではいちばん新しい童男山ででるらしい。これってきゅーぴーさんがでるのとあんまりかわらないようなかんじで、なんかいやだ。ねがわくば、所帯じみないでほしい気がする)。

でも、それって平和になったと言う事かもしれないジャン。

はい。そうなんです。おめでたいことなのに。

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