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2010年9月29日 (水)

国際協力論講義(5)~日本 賠償の時代~

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 29 日 国際協力論講義(5)

国際協力の歴史 ~日本 賠償の時代~

10月6日は「国際協力の日」です。

1954年10月6日、日本はコロンボ・プランへの加盟を閣議決定し、同月、コロンボ・プランの正式加盟国となりました。

コロンボ・プランは、1950年に発足したアジア・太平洋地域の開発を促進するための地域協力機構です。

翌年、3840万円の予算により、政府ベースの技術協力事業(研修員の受入、専門家の派遣)が始まりました。

政府ベースの資金協力は、1954年11月の日本とビルマ連邦(現ミャンマー)との間の「賠償及び経済協力に関する協定」が始まりです。

この条約では、戦後処理としての賠償の支払にあわせて「経済の回復及び発展並びに社会福祉の増進に寄与するため」の協力についても規定されました。

その後、賠償協定はフィリピン(1956年)、インドネシア(1958年)、ベトナム共和国(南ベトナム)(1959年)との間で署名されました。

このほか、対日賠償請求権を放棄したカンボジアやラオスのほか、タイ、マレーシア、シンガポール、韓国、ミクロネシアに対する無償援助等(準賠償)も行われました。

これらアジア諸国への賠償等の支払は1976年まで継続して実施されました。

(保健医療経営大学「学長のひとりごと」)

コメントまとめ

これ(国際協力論2)を読んで、わたし自身の中にあった「国債という借金まみれのわが国、よその支援どころじゃなかろーもん」という偏狭なせこい考え方を恥じました。支援は恩返し。
ところで、やはりどこまでもせこいわたくしは思うのです。
日本を抜いて、世界ナンバー2の経済大国になりつつある(あるいはすでになった気でいる。いや、実質アメリカさえぬいて、影のナンバー1かも知れない)中国に、発展途上国への支援をどんどんやってもらわないかん、と。そして、世界的大国として、「愛という伸び代のある堪忍袋」をお持ちいただきたい、と。

1990年は世界銀行からの借金を返し終わった年です。借りている間は、理屈上は援助を受けていることになります。
しかし、学長がWHOの援助で米国へ研修に行かせてもらったのは1984年だったので、確かにこの頃までは被援助国だったと言えないことはない。

関東大震災の時に日本へ援助の手を差し伸べた国のリストの中に、貧しい「中国」があります。
卑弥呼や磐井の頃から、大陸と日本との仲は緊密だったので、その流れからは自然なことかも。
長い長い両国の歴史のごく最近になって、中国と日本との関係がどんどん冷え込んでゆくのはやりきれないですね。

ユニセフの脱脂粉乳で栄養失調から免れた私たちです。

豚の餌で大きくなった私たちは、元気一杯50代を過ごしています。アメリカ様に足を向けてはなりませぬ!?

はたしてこれからはチャイニーズ化していくのでしょうか。西太后のような女性はまだいるのでしょうか?

こんな事を書くのではなかった。アドルフに告ぐ。明日行けなくなった。まもるさまのお守り。また熱が出た、私の休みに合わせて。しょんなか。

投稿: ぼん | 2010年9月28日 (火) 23時04分

おばあちゃんの休みにあわせて熱をだしてくれるありがたーいマモルくん。なんていい子。

ところで、かささぎも、豚のえさの脱脂粉乳で育ったため、ときに無性にあのぶたのえさが恋しくなります。それとディーディーティーっていったか、白い白墨の粉みたいなんをしらみ防止として頭からぱたぱたふられた記憶も鮮明。においとともに。あれもアメリカの援助物質だったんだろうか?あまった農薬?こんなこといったら、ばちあたりますね。おかげさま。なにごとも。
そういえば、先日公立へ父をつれて薬もらってきた時、待合室で隣り合わせた高齢の絣の女性(おんとし90と。堂々としてすんごいびゅーてぃふるな人だった)からこういう話をきけました。

ここは昔、ヒびょういん、ていう病院がありましたとこです。

は?非病院?ああ、避病院ですね。隔離病棟があったんですね。

そうです。うちの人は戦地から帰ってきたとき、マラリアももらってきて、そらあおおごとでしたもん。はだかにぬれタオルばいーっぱいまいて、看病してました。

へえ、そうだったんですか。それは知りませんでした。

一句。

避病院跡の病院天高し   恭子

賠償の国、日本か。
賠償をするのは得意でしまくり気味ですが、賠償をせがむのはできない国なんじゃないかな。
みょうな自尊心、武士道が邪魔をする。
はらはへってはいくさができん。ってときになれば、自尊心もへったくれもなくなるにきまっている。なしくずし。これも得意。(かささぎ)

         

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コメント

おはようございます。木造時代の建物の記憶あります。
たしか北側に学校の校舎みたいな長い廊下がありました。
建物の西に長く隔離病棟があったように思います。
あいまいな記憶なので自信はありませんが・・。
かささぎさんのご両親ならきっと全部覚えておいでかも☆

えめさん。コメントありがとうございます。
まあ、ちょうどのときに、公立病院についていったおかげで、ちょうどいいタイミングで90歳の方からこれまで聴いたこともなかった、ヒビョウイン情報を得ることができました。聖域っぽい。のとこでも書きましたが、それを調べてると、米穀手帳ではありませんが、1960年代までに各地の避病院は総合病院として発展的解消をみた。と説明されていました。
ふうん。ということは、学長記事とあわせてよみますと、海外からいろんなものが流入してくるようになると、はやり病までが入り込み、それらは隔離されて、祟り扱いされたけれども、やがて近代医学の時代になると、治療法も確立され、看護も行き届くような体制がととのっていった。ということのようです。

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