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2010年9月12日 (日)

杉山洋おんじいのブログより、橋爪一郎従軍記に涙す、の巻。

夜話 488 『橋爪一郎従軍記』に涙した。


一郎さんに最後に会ったのは四年ほどまえのK病院の待合室だつた。

そして 今日「昭和38年八女郡辺春中学校学年通信」の『橋爪一郎従軍記』で再会した。

大学長名のAさんたよりに、もしやとお宅に電話。

久しぶりに一郎さんの奥さんとお話しすることができた。

一郎さんはお病気とのこと。

善知鳥が満洲から八女の長峰村の小学校に転校したのは五年生のとき。田舎の悪がきにいじめられて 悪たれの少年に育つた。

旧制八女中学校に村から五人入学。

一年の夏休みの初め、一郎さんはその後輩全員を北川内村から星野村に二泊の小旅行に連れて行ってくれた。一郎先輩は当時の長峰村吉田に居住。

食料を詰め込んだリュツクが割り当てられたちびの善知鳥に 八女中学校の一郎先輩は 「なーに帰る頃には軽くなってるよ」とやさしく勇気づけてくれた。

星野小学校で一泊、北川内の星野川岸で一泊。帰着したときリュックは空になっていた。

この宿泊旅行は生涯の思い出として老人善知鳥に強烈に残っている。

善知鳥のいじめ被害者意識も消え、以後学友とうまくいくようになった。

ひとつ釜の飯を食うということの大切さを一同体験したのだ。

善知鳥はこの経験をたよりに今の教育行政の批判をくりかえしているといってもいい。また、美術教育の原点もこの旅行で発見している。

一郎さんは常に笑みを浮かべていた。善知鳥の家にはよくみえた。

亡母のお気に入りの八女中学先輩だった。

悪たれの善知鳥の良き先輩に母は期待していたようだ。

母も「一郎さん」と呼んでいた。

そのころ中学校の講堂で一郎さんの鉄棒の大車輪を見たときは驚いた。

そんな時も笑い顔の先輩だった。その笑いにはつねに「はにかみ」の余情があった。

まだ「少年倶楽部」から抜け出せない善知鳥に『坊ちゃん』をすすめてくれたのも一郎さんだった。

再度満洲に転校し、戦後引揚者になって絵描きの道を中断、長峰村役場勤務にうっ屈していた善知鳥に例の笑みをたたえて激励してくれたのは「橋爪一郎先生」だった。

そのころ中学校の美術教師になる方法も教え薦めてもくれた。

鶏小屋改造の家に 病んだ妹を見舞いにも来てくれた。

一郎さんのお宅は岩戸山古墳のなかにあるといってもいいところだつた。古墳のスケッチの途中お宅に寄るのが楽しみだった。

戦後の引揚者の飢えを察した一郎さんはいつもの笑顔で、握り飯を善知鳥にすすめてくれた。あの星野旅行のときの一郎さんがそこにいた。

いま大学の学長さんのAさんは善知鳥の画塾の塾生でもあった。

いつごろだったか「Aは南極探検にゆくのが夢」とも一郎さんから聞いたことがあった。


八女中の旧学友たちは会うたびに「星野行き」を話題にした。

しかしその学友も全部逝った。

受け持ちの学年新聞に『従軍記事』を書く一郎さんの『教師魂』とそれを許す保護者の存在。それらの喪失が教育現場の頽廃をまねいていると思う。


電話の奥さんの声は一郎さんの病いをやさしく看とられるお人柄が伝わり、善知鳥も元気づけられた。出た涙は感謝の涙。

「橋爪一郎さん」頑張ってください。そのうちお訪ねします。

『従軍記』は大切に読ませていただきます。敬称略

以上、「うとうきちざのやめやわ」からいんようしました。
http://ameblo.jp/yameyobanashi/entry-10643009126.html

※かささぎ、いま、おんじいのブログへいったれば。ほれ、この通り。
そのまま、断りもせず、かっさらってきて、はりつけさせてもらいます。

杉山先生、どうもありがとうございます。すごい縁でありまする。
いや、ことばがでません。まっこて、奇遇ぜよ。

「一郎さんは常に笑みを浮かべていた。」そうです、むすこの章さんも又。

乙四郎。すごいね。
じつは、書いていませんが、古賀の音彦さんも似たようなことを言ってらっしゃるらしいよ。
この戦記を保存したい。って。久留米の文化財にってことかな?
あ!もしや、おんじい(八女文化財保護)とは文化財をめぐって、仇同士かも。
だけど、そげんこた、どげんでんよかですね。
いいものは、どこへだしても、いい。みんなの財産です。

東京の神崎美惠子(さくら)さん、今月福岡県古賀町のせんぼつしゃ慰霊祭で「父への手紙」資料を使わせてください、との申し出があって、受けるそうです。(パネルとかにして展示されるそうです。)

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コメント

杉山先生は長峰小学校でしたか。
父の姉が先生をしていたそうです。
戦前の話です。ニ、三年奉職、その後胃を悪くしてなくなりました。独身で中島澄江といいました。(長峰小の前には辺春小に勤めていた。)
それにしても、ちょうど今日杉山先生のことを書いたばかりでした。
いや、びっくりしました。これでもうわるくちがかけんごつなった。(こらこら)

>一郎さんのお宅は岩戸山古墳のなかにあるといってもいいところだつた。

そうだった。実家は、前方後円墳の端っこにへばりついたようなところ。裏山を駆け上ったら、石人石馬に会えました。
乙はここで生まれた(自宅分娩)ので、磐井の魂が乗り移ってるかも。

あれ?乙四郎はどんどらでうまれたのではないのですか。ふつう、母の里で自宅分娩、というのが当時のスタイル。だからこそ、すぎやまのおんじいは、青木繁の生家跡なんていいかたをゆるさなかった、(だって青木の生家は八女市岡山)、だから音彦サンが担当していた保存たてものの名称は「青木繁旧居」ですものね。正確。
うちの場合、最初の子ども(私)は母の里で生まれ、弟は寺田のこの家でうまれた。二番目は父の家ってことなのですね。だからかな。

今、確認しました。
里帰り分娩で、どんどらの木下精米所で生まれています。その後の赤ちゃん時代を過ごしたのが岩戸山古墳の方形部分の西の辺の真ん中あたり。

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