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2010年9月 7日 (火)

廣田弘毅

廣田弘毅

『廣田弘毅』  広田弘毅伝記刊行会編

  平成4年5月20日復刻版 葦書房刊

  初版刊行昭和41年6月

執筆担当
第一編 修学時代                  守島
第二編 外務吏僚時代                吉田
第三編 海外駐箚使時代             吉田
第四編 外務大臣時代              守島
第五編 内閣総理大臣時代          有田・守島
第六編 第一次近衛内閣外相時代 日高
第七編 重臣時代                        守島
第八編 東京裁判と広田               守島・渋沢 

第八編

(ロ)家族とのわかれ

夫人静子の死

裁判の結果、広田は不幸にも絞首刑に処せられたが、彼は最後の瞬間に至るまで平静なる態度を失わなかった。その慫慂として死に赴くさまは、処刑台の綱をひいた獄吏をして「神様だ」と嘆ぜしめるほどであった(遺芳録、荒井渓吉氏「広田さんという人」607頁参照)。察するに広田はこのような成行きをつとに見通し、宿命として諦観し、悟道の境地に到達していたのであろう。それにつけても思い起こされるのは、彼が最愛の妻静子夫人のことである。
(中略)
静子は、裁判開始後、二度法廷で傍聴した。また昭和二十一年(1946年)五月十四日、それまではほとんど尋ねた事のない巣鴨に、広田を訪問した。その時、夫妻の間でどんな話が取り交わされたかは、もとより知る由もないが、これが広田夫妻にとって最後の面会となった。十七日になると、彼女は突然練馬の仮寓から、長い間広田とともに過ごした鵠沼の家に帰るといい出し、鵠沼に移った。その間、彼女は家族の者に「パパが居る時代に、日本がこんなことになってしまって、このような戦争を止めることができなかったことは恥しいことです」と洩したということである。そして、翌十八日の夕刻、家人の隙をみて自害したのである。こうして静子は、遺書一つ残さず、何も語らず、やがて来るべき主人弘毅の運命をひたすら祈念しつつ、微笑さえ浮べて、われとわが身を絶ったのであった。
静子の初七日、三男正雄は広田に面会して、夫人の自害を知らせたが、広田はただ深くうなずくばかりで、ひとことも洩らさなかったという。しかし、正雄の語るところによれば、静子の自害は、広田にも、また子供たちにも、深い深い安らぎを与えてくれたのである。※
静子は享年六十二歳、法名を祥雲院殿瑞光彗鑑大姉と称し、福岡の聖福寺に葬られた。なおこの時、聖福寺の和尚は広田の戒名をも弘徳院殿悟道正徹大居士と決めてきたから、のちに処刑される前、花山信勝師が七戦犯に対し、仏になればみな平等絶対の姿になるのだからと、等しく光寿無量院何々という法名をおくった際、広田はこれを辞退し、禅家からもらった戒名で満足している。なお静子の死は、昭和二十八年(1953年)十二月五日東京丸ノ内の日本工業倶楽部で行われた広田弘毅追悼会の席上、長男弘雄によって初めて公にされ、列席者を深く感動させた。

※この一文の読み方は今の時代の私達には難しい。

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コメント

(ニ)いわゆる南京事件をめぐって

石射口述書

ここで弁護側の要請により、昭和十二年(1937年)五月から翌十三年十一月まで外務省東亜局長を勤めた石射猪太郎が証人として出廷し、宣誓口供書によりいわゆる南京事件と広田外相の措置について概略次のように証言した。

昭和十二年十二月十三日南京入城後、南京総領事代理(編注・福井淳)から本省に送られた最初の現地報告は日本軍のアトロシティーズに関するものであった。この電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。当時外務大臣はこの報告に驚き、かつ心配して、私に対し早く何とかせねばならぬというので、電信写しは既に陸軍省に送付されていること、陸軍外三省事務当局連絡会議の席上私から軍当局に警告すべきことを答えた。その直後の連絡会議で私は陸軍省軍務局第一課長に対し右アトロシティーズ問題を提起し、いやしくも聖戦と称し皇軍と称する戦争において、これはあまりヒドイ、早速厳重措置することを切実に申し入れた。同課長も全く同感で右申入れを受け入れた。
その後いくばくもなくして南京総領事代理から、南京在住の第三国人の組織した国際安全委員会作成のアトロシティーズ詳報が転送されてきた。私はこれに目を通し、概要を直ちに大臣に報告した。そして大臣の意を受けて私は次の連絡会議の席上陸軍省軍務局第一課長にその報告書を提示し、重ねて厳重措置方を要望したが、軍は既に現地軍に厳重にいってやったとの話であった。その後現地軍のアトロシティーズは大分下火になった。1938年(昭和13年)一月末頃と記憶するが、陸軍中央は本間少将(編注・当時参謀本部第二部長)を現地に派遣した。それ以後南京アトロシティーズは終止した。
この問題に関し私が陸軍省事務当局に対し申入れをしたのと併行して、広田外相は杉山陸相に対し本件至急厳重措置方を申し入れた由である。私はこのことを当時広田外相から聞いた。

この証言に対して反対尋問に立ったコミンズ・カー検事は、まず昭和十三年二月の最初の週の終りまで「大分下火にはなったが」アトロシティーズ事件が継続していたということを確認してから、石射証人との間に次のような質問応答を行った。

カー 1938年1月28日から31日までの四日間に、南京において強姦、強盗、放火、殺人事件が76件あったという2月2日の報告を受けているか。

石射 報告を受けた日付、暴行があった期間等は覚えていないが、70幾件事件があったという書類は受け取っている。

裁判長 陸軍の代表は、あなたに対して、南京占領軍に対する警告はいつ発せられたかということを知らせたか。

石射  陸軍の代表とはどういう意味か。

裁判長  あなたの宣誓口供書に「軍は既に現地軍に厳重にいってやったとの話であった」とある。

石射  その軍というのは柴山兼四郎(編注・事件当時大佐、陸軍省軍務課長)であったと思う。

裁判長  彼は、南京の占領軍に対していつ警告が発せられたかをあなたに教えたか。

石射  日時は聞いていない。はっきり記憶していないが、福井氏の電信報告があって、その問題が外務省における連絡会議で討議されて、私から警告を与え、それから間もなくだと思う。

カー  宣誓口供書で見ると、どうやら第二回目のものと思われる。第二回目の連絡会議が開かれたのはいつか。

石射  第二回目であったか第三回目であったか記憶していない。当時たびたびそういう会合が行われた。

カー  しかしあなたは、宣誓口供書の中で国際委員会の第一回の報告を受けた直後だといっているではないか。

石射  原文ではその後間もなくと書いたと思う。

カー  それでは、その後どれくらいの期間が経過したわけか。

石射  その点については記憶がはっきりしない。ニ、三日という短い時間ではなかったと思う。

裁判長  直ちに処置を講じたか。

石射  その電信は、着軍直後、陸軍に送られた。それからニ、三日後と記憶するが、私の所で行われた連絡会議で軍務課長の注意を喚起した。

裁判長  この報告がどれだけ考慮されたかということは、直ちに処置がとられたか、そしていつ警告が発せられたかということの二つのことに立脚する。しかし証人は、それに関して情報を持っていないようだ。

カー  軍の代表、すなわち柴山は、だれに対してその警告が発せられたかということをいったか。

石射  聞かなかった。

カー  南京総領事からこういう報告を陸続として入手した時、あなたはどういう処置をとったか。

石射  私の記憶では、一まとめになって一回あるいは二回きたかと思う。

カー  最後の報告は第58号となっており、日付は1938年2月2日である。この報告に例の76件の事件が詳述されている。軍が発したという警告は、なんら価値がなかったというふうに考えなかったか。

石射  徹底していないという感じを受けた。

カー  その警告が発せられなかったというような疑いは持たなかったか。

石射  そういう疑いは持たなかった。 

カー  あなたが接受した報告は、全部広田に報告したか。

石射  すべて報告した。

カー  情報部は、あなたおよび広田に対して、世界の新聞雑誌は南京暴虐事件を攻撃する記事で満ちているということを報告したか。

石射  外国の新聞にどういうことが載っているかということについては時々情報部長の話を聞いていた。

カー  これらの報告はだれに回覧されたか。

石射  省内の各局長、次官、大臣等にはいっていたと思う。

カー  閣僚にも回覧されたか。閣僚に対して、外国の新聞記事、報道の要約が回覧されるというのは慣例になっていたのではないか。

石射  記憶していない。

カー  日本の新聞雑誌が南京の残虐行為に言及しているのを見たことがあるか。

石射  記憶していない。

カー  日本の新聞記事はこのことには全然触れなかった。こういう記事は差止めになっていたのか。

石射  差止められていたかどうか私は知らない。

カー  広田はこの件を閣議に持ち出したか。

石射  それは聞いていない。しかし広田外務大臣が陸軍大臣にその問題を提起したということを知っている。

カー  しかしその後も残虐行為が起こっているという報告が入ってきたとあなたは申し立てた。そのことを広田に報告した時、彼は何か処置をとったか。陸軍大臣以外のだれかにこの問題を提起したことがあるか。

石射  承知していない。

カー  広田は、これらの残虐行為を阻止するために、さらになんらかの措置をとることについて、証人と協議したことがあるか。

石射  協議は数回したと思う。

カー  その時に広田はどういう提案をしたか。

石射  陸軍の事務当局に厳重にいってくれと度々いわれた。

カー  そういうことをしても全然効果がなかったことをわれわれは知っている。あなたは、この問題を閣議に持ち出すことを広田に提案しなかったか。

石射  そういう提案をしたことはない。閣議がそういう問題を討議するとは思われなかった。

カー  なぜ閣議はそういうことを討議しないのか。

石射  出先の軍に関することは、閣議として取り扱うことはなかったからだと思う。

カー  この残虐行為に関連して責任者のだれかが罰されたか。

石射  聞いていない。

カー  責任者を処罰せしむるために、広田は何か必要な措置をとったことがあるか。

石射  そのことについて広田外相はおそらく陸軍大尉に話したろうと思う。

カー  その問題を広田は閣議に持ち出したか。

石射  聞いていない。

カー検事の反対尋問終了後、山岡弁護人が再び直接尋問を行い、石射証人から「外務省の権限上、同者が実際に行った以上のことはできなかった」という証言を得た。

以上、『廣田弘毅』、425~430頁冒頭の全文引用。
なお、冒頭のタイトルに付された(ニ)はイロハニのニ、であり、ここは第八章「東京裁判と広田」の七節、広田被告個人弁護段階の節のニに当たる部分である。

裁判で南京事件の占めている部分は大きく、何も書かれていない。というようなことを言おうものなら、それは無知、とても恥ずかしいと思うものです。

この部分は、じつは最小部分です。会話体によって、双方の心理的な駆け引きめいたものまで想像でき、真実が最も伝わりやすいのではと思って、まず、これを引用しました。

おそらく、これを読まれたあと、ほうら、やっぱりさほど大掛かりなものではなかったんだ。と思われるか、それとも、二ヶ月も続いたさつりくやさまざまな地獄の沙汰、。これはたいへんなことだったんだ。とおもわれるかは、各人で様々でありましょう。
もうしばらく引用を続けたい。
(かささぎ脚注・南京事件への追求の部分だけを引用。石射という外務官については↓)

とほほ。なんでこんなこと、はじめたのかなあ。
始めた以上は最後まで引用しなきゃなりませぬ。
あれです、寺田天満宮の扁額の字が広田弘毅の字でしたから、縁を感じて、いつかきちんと読まねばと思って本、持っていたのです。でも、全体をよむまではまだできていませんでした。少しずつやります。

第六編 第一次近衛内閣外相時代
(ホ)南京惨虐事件発生と広田外相の措置
(前半略)
一体何故にかくの如き不祥事件が起こったのであろうか。この点に関して当時現地にあって外交折衝の任に従事していた南京大使館参事官日高信六郎は次の如く語っている。
    (つづく)

はじめに華北で撃ち合いが始まり、それから間もなく上海事件が起こった。当時上海には、日本人居留民(5~6万人ぐらいだったと思う)とその権益を保護するという名目で、海軍の陸戦隊が駐屯していたが、ごく少数だったから、何か事が起こった場合には非常に危険な状態にあった。
そこで海軍としては上海では事を起こしたくない、戦闘は北支那にとどめておきたいという気持が強かった。ところが、図らずも大山中尉射殺事件が起こり、思いがけぬことから撃ち合いが始まって、遂に陸軍派兵ということになった。しかし、それは上海の日本人居留民の保護が目的で、十二月初めまでは南京を攻めるというようなことではなかったと私は諒解している。
ところが、いざ上海で戦ってみると、中国軍は非常に強い。日本人の予想とは大違いで、抵抗は激しいし、加えて民衆の対日の空気も実に冷やかだった。
つまり、それだけ反日気分が強かったということかも知れない。五年前の昭和七年第一次上海事変で日華両軍が撃ち合った同じ場所で戦ったのだから無理はないだろう。
こうして、しばらく膠着状態を続けたのち、とにかく上海における戦闘は終熄した。その終り頃には、人口の多い国際都市のそばで、両軍が対峙するというよりむしろ乱戦であったから、その間、相当の混乱は免れなかったようであるが、残虐行為などは行われなかったようである。
上海周辺における戦闘の終末期に仏人ジャキノ神父は、在留外人有力者と諮って中国非戦闘員のために南市の一郭に安全地帯を設け、多数の人命を助け賞賛を浴びたが、彼の行動に対し日本側は当初から好意的態度を示し、陸海軍司令官は寄付金を贈り、広田外相は書を送ってその人道的業績を讃え、その成功を祈ったのであった。
その後、中国軍は蘇州あたりまでは猛烈に抵抗していたが、柳川中将の率いる部隊が杭州湾に上陸すると、横を衝かれるというので急に退却し始めた。非常なスピードで、一方は退却し、他方は前進したから、いきおい乱戦となり、ひいては残虐事件を惹起する下地を作るようなことになった。
中支派遣軍司令官の松井大将は、人も知る大アジア主義者で、立派にやろうという気持が非常に強かったから、南京攻撃に際しても、事前に降伏を勧告するつもりであった。ところが蒋介石らはいち早くも漢口に移り、市長はじめ市の要路者はいずれも逃げてしまったし、中国軍も一時頑強に抵抗はしたが、結局は逃げ出し、しかもサッと退却したものであるから、それにひきずられるような恰好で、日本軍は予想外に早く南京に入城した。松井さんの考えでは、城外に主力をとどめて置き、ごく少数の優秀な兵隊だけを入城させるつもりだったが、城外はすっかり焼き払われて、宿泊設備も何もない有様だったから、結局全部入城することになった。そして、それがやがて南京事件を惹き起こす大きな原因の一つとなったのである。
  つづく。

それより先、揚子江にはパネー号など外国艦船が多数碇泊しており、日本軍の警告で安全な上海に難を避けることになった。ところが、日本側も予測しなかったことだが、柳川兵団あたりが猛烈なスピードで揚子江上流に出て敵の背後にまわったから、安全だと思っていたところが安全でなくなってしまった。わが将兵はかねてから米英は敵軍を援助しているものと信じ込んでいたから、遡行するパネー号などの艦船を見て、「さア支那兵が乗って逃げて行く。撃て!」というのでやってしまったような次第である。
一方、レディバード号はイギリス艦船と知りながら、橋本大佐が撃たさせたらしい。もちろん、初めは知らなかったのだろうが、あとで艦長が語ったところによると、「間違えられていると思い、イギリスの旗を立ててわざと近寄って行ったのに、撃ち続けた。あまり接近して大砲の死角に入ったので、やっと撃つのをやめたが、そのために負傷者が出た」ということであった。
外国の権益の保護という点については、松井さんは特に厳しかったから、われわれも加勢して外国権威のあるところをマークした地図を兵隊に配布したり、立入禁止の立て札を立てたりしたのだったが、最初のうちはそれが徹底しない憾みがあった。ハーバード系の金陵大学における婦女暴行事件などはその著しい例で、外国でも大分問題にされた。しかし外国の権益は、概して保護されたといってよく、それほど大きな問題にはならなかったようである。
陥落後の南京城内は、文字どおりカラであった。
 つづく。

中国側の軍事行政その他の機関や官吏は一斉に退却し、市の役人や警察官まで姿を消し、完全な無政府状態であった。その上外国の大公使館、領事館の職員その他の外国籍職員も全部立ち去ってしまい、若干の米人宣教師と僅かに残ったドイツ人など数名の外国在留民が外国人居住地区のなかに設けた安全地帯に二十数万(戦前南京の人口百万と称せられた)の下層民が避難しているだけであったから、日本軍としてはとりつくしまもなかった。普通なら、市の有力者が自治委員会などを組織して、迎えに出たり交渉に当ったりするものだが、そういうものが全くなかった。ある意味では、非常に不幸なことで、そのようなことが結果的には日本軍をして無茶なことをやらせるところまで追い込んだのだと思われる。
しかし、何と言っても、残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。たとえば捕虜の処置については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々と打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。

しかし心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、数日中に四十名の補助隊員が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代わりに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。
  つづく。

問題はこのような放火、殺人、暴行、掠奪といった残虐行為を、外国人の見ている前で働いたということであろう。しかも軍の上層部では戦争に没頭していたし、今日とは違ってラジオ・ニュースなどもなかったから、このような事件をあまり知らなかったのである。そこで私は、多分十二月二十五日だったと記憶するが、司令官の朝香宮を訪ね、「南京における皇軍の行動は全世界の注目を浴びているから、そのおつもりで・・・」と、暗に注意を促してから、参謀長に会い、「いま、こういう話をしてきたが、外国の権益のあるところでは慎重にやらねばならない。南京でやっていることが世界中の評判になっているから、大いに自重して欲しい」と申し入れたところ、素直に諒解してくれた。その他警備司令部、憲兵司令官などをも歴訪して同趣旨を説いてまわったことを覚えている。
その後、南京における状況が東京にもわかって、外務省から陸軍側に知らせたり、外務大臣から陸軍大臣に処方を要望したりする一方、陸軍も本間少将を現地に派遣したり、法務官をやって軍律を励行するなどしているうちに、事態は暫次改善されていった。
この事件を通じて、外務省としては、現地においても、また東京においても、できる限り適切な処置をとったと私は信じている。広田外務大臣は事件を閣議に持ち出すべきだったという議論もあるが、それは当時の事情から言って、かえって逆効果をきたしたであろう。もし閣議にはかったりすれば、閣議が統帥権に容喙するとして、一層陸軍を刺激したに違いない。そこで外務省としては、陸軍大臣に厳談し、軍務局に厳重抗議したのである。
広田さんとしては、南京事件に関する限り、最も有効と思われる手段をとったと私は思う。パネー号事件の時などは、みずからグルー大使を訪ねて頭を下げているが、もしその処置を誤れば、危うく日米開戦にもなろうというところであった。
結論としては、叙上のような特殊の事情はあったし、また日本軍は軍紀粛正だと信じ切っていた日本人一般の軍に対する過大評価も問題になるであろうが、根本は、軍人に限らず、日本人全体から、いつのまにか、モーラル・チェックというものが失われていたという点にあると思われる。いついかなる時にも、人として絶対にある程度以下のことはしないという心構えの欠如が、南京事件を惹起した最大の原因であると私は思う。
  (脚注;南京大使館参事官日高信六郎談)
  つづく。

ところが戦後東京で行われた極東軍事裁判では、この事件もまた有力な戦争犯罪の一つとして取り上げられ、事件の直接の最高責任者である松井司令官はもちろん、広田外相も同事件に関する不作為の罪を問われることとなった。それは実際広田の思いもよらぬ出来事であったのみならず、憲法上の権限を持たぬ広田外相としては迷惑至極の事件であった。しかも広田が職責上とるべき手段は遅滞なく十分にとっていることは、当時の外務省主管局長石射猪太郎等の弁明発表するところにも明らかである。このことに関しては、東京裁判編(第八編)に関係証人の証言等を引用してあるから、すべてはその項を参照されたい。※

(以上で第六編の第一次近衛内閣外相時代、南京惨虐事件発生と広田外相の措置についての項、引用終り)。

※裁判での証言部分は、コメント欄冒頭の、9月8日に引いていますので、より戻ってもう一度ご覧下さい。
かささぎは、最初にあの証言をよんだとき、次の部分が目につきました。

裁判長 陸軍の代表は、あなたに対して、南京占領軍に対する警告はいつ発せられたかということを知らせたか。

石射  陸軍の代表とはどういう意味か。

裁判長  あなたの宣誓口供書に「軍は既に現地軍に厳重にいってやったとの話であった」とある。

石射  その軍というのは柴山兼四郎(編注・事件当時大佐、陸軍省軍務課長)であったと思う。

陸軍の代表って、そんな聞いたこともないような軍人さんではなく、ほんとうは誰だったのでしょうね?
かささぎはよくわからないです。
軍の代表はとうじょうひできとはちがうのですか。(というより、天皇ではなかったのですか。)

広田弘毅はだれをかばって、ひとことの弁明もせず、刑死したのか。天皇のためでしょう。
かれの妻もまた。

(それをしったとき、深い感銘をうけた。)

これを打ち込んでいる以上、ことしの八女市老連広報の山下功氏の気が重たい記憶も打ち込んでおかねばならないだろう。
だれかがやらねばならないことです。

山下功。このひとは何者でありましょうか。
中国語がおできになるのですよ。
すごいなあ。
尖閣諸島と古賀辰四郎、を去年書かれていた方です。いまから打ち込みます。

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