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2010年9月13日 (月)

戦争の話(30) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 13 日 戦争の話(30)

<橋爪一郎従軍記>

   そう式の巻の(2)

 泣き人とは字の通りに泣く役目をする人のことです。何と言っても悲しいはずの「そう式」ですからみんな泣きたいのは当然です。それで支那でも泣くわけですが、珍らしいことに支那には泣くことを商売にしている人があります。この泣き人という人は、何ぶん小さい頃から練習に練習を重ねていますので、みんな名人ばかりです。そう式の先頭に立って続けざまにわんわんおんおん泣き声を出してくれるのです。それはほんとに悲しそうな泣き声です。でも不思議なことに、その泣き人の目には一しずくの涙も出ていません。行列の先頭で、道々、あちら見こちら見しながら、まるで笑ってるような顔をして長い道を泣いて行きます。泣き人が多ければ多いほど悲しい泣き声は村のはずれまで聞えて行きます。泣き人の多いことは棺桶のりっぱさと共に徳の高い盛大なそう式であるわけです。大きい棺桶は何人もでかつぎ、棺桶の後からは、白い長いふさのついた魔よけの棒を持ったお坊さんがガラランガラランと鐘をならしながらおごそかについて行きます。

 支那のお墓は割合に浅く、大ていは山の中腹に、棺桶のまわりに土を盛って小高い丘のお墓になっています。お墓の上には小石が高く積み重ねてあります。これはちょうど小石の塔みたいなものですが一番上の石は広く平べったい石になっています。このまじないは多ぶん鬼を払うものでしょう。そう式を盛大に行う支那の人を皆さんはどう考えますか?

1959年八女郡辺春(へばる)中学校『学級だより』

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

▼かささぎの独り言

行列の先頭で、道々、あちら見こちら見しながら、まるで笑ってるような顔をして長い道を泣いて行きます。

映画で見た葬儀。

中国のは『初恋のきた道』(章子
怡デビュー作)。
強く印象に残っている。皆で棺おけ担いで、黙々と長い距離を歩く。
その場面はモノクロだったため、とくに。
悲しみよりは、重くて辛い感じがよく伝わった。
かささぎは葬の行列というと、『ごんぎつね』しか思い浮かばない。


http://www2.saga-ed.jp/school/edq12801/hiranoHP/hirano-el/gongitune.html

つぎに、韓国の葬儀。『四月の雪』裵勇俊。
帰れ、と追い返される。黒い中、鮮やかな色の供物が目を射た。
日本と似ているようでだいぶ違うな、でも同じかもしれないな。

泣き女は、五木寛之のエッセイで知った。韓国にもある。

泣き女;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A3%E3%81%8D%E5%A5%B3

コメント

コメント

一郎さんの書かれている支那の葬祭、死ぬ前に自分の棺おけを用意しているというのを読んで。
もしや、ずうっと前からそうだったとする。そんなら、イワイの寿陵も、その手のものだったのではなかろうか。つまり、イワイは大陸から来た、ってことの証明では。
『石橋秀野の百句を読む』(山本安見子著)を読んでるところですが、次の一句、安見さんの初節句、生後一ヶ月での句。

父小野氏母石ノ上氏
初ひヽな陸奥(おく)と大和の御祖(みおや)かな

前書のいそのかみ氏をどう安見さんがよむかというのがかささぎは知りたかったんです。父のほうは、調べられたからわかったんですが(健吉の母方の祖は小野のたかむらってことになってた、横山家、前田利家の家老だった家)、藪家のほうが謎だったんですよね。で、その部分を紹介します。以下全文引用。
「母石ノ上氏」と詞書をつけるからには、藪家が石ノ上家の流れを汲む、という誇りがあったのではなかろうか。
奈良の石上神宮は藪家代々の地、天理にある。
天理一帯は、古代には、和邇、柿本、物部などの豪族が繁栄した地。石上神宮は物部氏の氏神である。
物部氏は古代の有力氏族である。物部守屋は587年に弱冠十四歳の厩戸王子、後の聖徳太子と蘇我氏の連合軍に敗れた。物部一族とそれに繋がる人々は石ノ上氏となり、それから千三百年あまり、中央政治とは無縁で田畑を耕しながら営々と天理に住み続けてきた、と考えたとしてもおかしくはないだろう。
(でも秀野の父は立派な系図まで借金のかたにうりとばした、というはなしがこれにつづく。)

大陸の影響は当然あったとしても、生前にあんなでっかい墓をこさえたというのは違和感があります。その前にも後にも、日本には生前に墓を作る文化はないように思えます。しかも、大和に屈服したがごとき前方後円墳です。
磐井は、墓ではない、大きな聖地をこさえたのではないでしょうか。

秀野さんの石上神宮のことをすこし。

[また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。](ウィ記石上神宮)
これ、こないだ乙四郎がなんかかいてましたね。わすれた。

つぎの文章の長くてわかりにくいこと。
くらがひとりでたおれた?(うぃきぺでぃあ)

天武天皇3年(674年)には忍壁親王を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。]
兵器庫を移動するため、人民のべ15万7千余人とは、どういう計算だろうか。
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/tabi1996/kaso32.htmのブログでは、やまは人工の山では。とあります。築山ならそのくらいの人員があれば、できたかも。と、いわとやま、自然の丘陵だろうか?(うん。でも龍頭公園は築山。だれが祀られているか知りません。)
ふつのみたまではなく、ふるのみたまをよびだしてしまったため、神がかりの女巫が一晩中怒り狂った、というの。だれか、ふるのみたまとふつのみたまの違いを丁寧にといてくださいませんか。

それから、「天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある」のも、興味をひく。八女戦国百首が元号の数(天文24年)とおなじ人数24人でまかれていることに通じるから。

それから、もう一点。へこという地名、たしか佐賀やまとのほうにもある。兵庫とかいてへこと読む地名が。関係ないかな。

それと。いわとやまこふんに話を戻します。
県南ニ里。っていう表記。上妻県。かみつやめのあがた。みなみ?あ、そうか。群ガの南だ。ガトウのガでしたね。石人石馬は形象埴輪の代替品てかかれている。

佐田茂名誉教授のかかれたものをみていたら(『古代を考える 磐井の乱』小田富士雄編のなかにあります)。
等身大の武装石人・石盾・石刀は全部で約120枚、一メートル間隔で二列に並んでいたらしい。しかし、石蔵、石殿はもうなかった。筑後国風土記にはそれらのことも書かれていることから、壊されて他の物に変ったのだろうという。墳丘のてっぺんにイワイに模した武装石人と「盛装した」石馬、さらにイワイをまもる近衛兵の武装石人がならび、墳丘には扁平な武装石人・石盾・石刀が二重にぐるっとめぐっていて、三重にめぐる円筒埴輪とあわせるとさながら墳頂のイワイ軍団を守っているかんじである。(とかかれていた)
で、イワイ以後は、生活感のにじみでた石人形になっていく、武装はしていないもの、子を背負った女の石製品とか(イワイロードではいちばん新しい童男山ででるらしい。これってきゅーぴーさんがでるのとあんまりかわらないようなかんじで、なんかいやだ。ねがわくば、所帯じみないでほしい気がする)。

でも、それって平和になったと言う事かもしれないジャン。

はい。そうなんです。おめでたいことなのに。

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コメント

おはようございます。 思っていたより激しい雨になりましたね。
葬列>>5年生の時同級生のお父様が亡くなられたのでクラスで参加しました。
旗を持った人や棺おけを乗せた台車がつらなってお墓の方へ向っていきました。
当時、集落には葬式用具の一式があったと記憶しています。
今、色々と自分の葬式プランの事が話題ですね。
私は「この写真で」と決めてるのを写真立てに入れています。
でも10年も経ったのでそろそろ最近のを選ばないといけないかな~と・・。

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