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2010年9月30日 (木)

国際協力論講義(6) ~日本 援助による市場拡大の時代~

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 30 日 国際協力論講義(6)

国際協力の歴史 ~日本 援助による市場拡大の時代~

1958年、賠償との関係なく、インドに対する円借款が始まりました。

この頃の日本の資金協力は、日本製品の購入が前提とされていました。

このような援助は「タイド」と称されますが、日本の援助のタイド率は1960年代末までほぼ100%でした。

すなわち、資金協力は日本の輸出振興の効果があったというわけです。

当時、日本の1人あたりの国民所得は400ドル以下でした。

こんな経済情勢にあって、国際社会の援助を受けながらも、日本が援助を行ったのは、輸出市場の拡大と原材料の輸入の確保という効果が期待されていたためです。

このような援助の開始に伴い、日本の援助実施体制も整備されていきました。

1954年、技術協力の実施機関として社団法人アジア協会が設立されました。

1955年、外務省アジア局内に賠償部とアジア経済協力室が設置されました。

1960年、援助国の集まりである開発援助グループDAGDevelopment Assistance Group、翌年OECD-DACに改組)に加盟しました。

1961年、円借款の実施機関として海外経済協力基金OECFOverseas Economic Cooperation Fund)が発足しました。

同年、総理大臣の諮問機関として対外経済協力審議会が設立されました。

1962年、外務省に経済協力局が設置されました。

同年、国際協力事業団(JICAJapan International Cooperation Agency、現国際協力機構)の前身の海外技術協力事業団OTCAOverseas Technical Cooperation Agency)が創設されました。

1964年の日本の援助実績は1億1580万ドルとなりました。

(保健医療経営大学「学長のひとりごと」)

連句的コメント

保健医療経営大学学長のこの国際協力論という授業は、まだ誰もなされていない分野のお話であろうとおもいます。これまでに受けた、健康保険制度や介護制度とおなじく、やはり政治のカテゴリーに分類するのが最もぴたりとはまります。かささぎは真正面からは何もいうべき言葉を持たず、しかし、日常からその周辺へと微妙にシンクロする事柄を書き足すことならできるな。と思って、コメントから拾いました。ま、いつもの通りではありますが。笑

おはようございます。木造時代の建物の記憶あります。(※避病院だったころの)
たしか北側に学校の校舎みたいな長い廊下がありました。
建物の西に長く隔離病棟があったように思います。
あいまいな記憶なので自信はありませんが・・。
かささぎさんのご両親ならきっと全部覚えておいでかも☆

昔兵隊さんだった方に、馬の専用共同墓地があったところを教えてもらいました。
母にきくと、ひびょういんはもっと手前にあったような気がするなどといいますし、ある人は上陽にもあったと。一つの町に一つあった、ということかな。結核の多かった時代ですし、隔離病棟はどこもにたようなものでしたでしょう。
ちょうど、石橋秀野さんが入院したうたの療養所がのちにうたの病院となまえを変えるように、。ひびょういんは、公立病院と名前をかえた。ってことかも。
ヒビョウインについてしらべてみました。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BF%E7%97%85%E9%99%A2

「隣のトトロ」にもでてきませんでしたか?正面からはでてこないんだけど、ちょうど私達の古い記憶にかすかにひっかかっているような形での出方。サナトリウムっていうのかな。よくわからんけど、そんなのです。それらと避病院とはおんなじではなかったんだろうか?
古いきおくで、小学一年生のとき、ともだちの男の子のおかあさんがたしかけっかくで入院なさっていたのはどこだったんでしょう。いつごろまで、それはあったのでしょう。ばくぜんとしたきおく・・・。先生がその子に気をつかっておられるのがよくわかったので、かささぎも気になって今でも心に残っています。

藤山線の藤山あたりを義母とよく通りましたが、必ずある場所を通るとき100万回・・(オーバー・・v)位聞かされた話>>
戦争中の話です。 義母がバスに乗っている時騎馬の兵隊さん達が横を通っていて、馬が驚いて暴れてバスにぶつかったらしいのね。
それで馬は即死・・って話です(簡単ですぐ終わる話だけど)
その馬専用共同墓地ってのが藤山にあるという事実が100万回聞かされた場所と妙に符合したので・・
その馬さん可哀相~☆~いっしょに倒れた兵隊さんは大丈夫だったらしい~☆~そういえば土曜日に実家で、馬頭観音さんを写してきました。

子供時代の久留米までの3号線は、道の両脇は林や、山でした。
丘陵地のど真ん中をぶった切って道が出来た・・みたいな・・ちょうど今の高速道がそうみたいに・・。

結核の療養>>たしか山間部のどこかに知り合いが入院したような記憶が・・。
今でもけっこうある病気なんでしょう~?
人の地面に吐いた痰が乾燥して空気に混じって感染するとか聞いたことがあります。
乙先生に聞いてみよう

ふうん。その話、馬の特色が現れている話です。驚きやすい。驚いたら千里をかける。(様な気がする)
ところで元兵隊さんは、馬の墓地はどこだったってちゃんとおしえてくださったのですが、ひみつにしときます。
椎名マコトさんが八女で講演会されたとき、中国の駅の痰壷の話をされたのがとっても面白かった。それとね。きれいな女の人でも、道々、手洟をかむって話もね。でも。ひょっとしたら、きおく、合成されてるかも。本当は昔の日本の駅には痰壷があった、といわれたのだったかな。その理由はえめさんが書かれたこととつながっていくんでしょうけどね。

えめさん。コメントありがとうございます。
まあ、ちょうどのときに、公立病院についていったおかげで、ちょうどいいタイミングで90歳の方からこれまで聴いたこともなかった、ヒビョウイン情報を得ることができました。

それを調べてると、米穀手帳ではありませんが、1960年代までに各地の避病院は総合病院として発展的解消をみた。と説明されていました。
ということは、学長記事とあわせてよみますと、海外からいろんなものが流入してくるようになると、はやり病までが入り込み、それらは隔離されて、祟り扱いされたけれども、やがて近代医学の時代になると、治療法も確立され、看護も行き届くような体制がととのっていった。ということのようです。
檀一雄の詩「虚空象嵌」の一説、「皎皎皚皚舞ひのぼるもの」とおなじで、私達の生まれ育ったごく初期のころ1950年代から1960年にかけては、まだ戦塵が、こうこうがいがいまいのぼっていた、というようなかんじですね。 

投稿: かささぎ | 2010年9月29日 (水) 21時57分 

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コメント

いいblogですね
読んでしまいました
ありがとう

ありがとうございます、お若い方。
なると なるほど ワンピースですね。

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