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2010年9月 2日 (木)

森山光章 『小説 奴婆多麻能〔誼〕の改變』 談義

コメント

森山さんは塾やってる時、S会の活動というか、折伏というか、そんなことも盛んにやりござったそうな~あくまでも又聞きで、ホントかどうかは責任持ちませんよ。でもこの記事を流し読みして、最初に思い浮かんだのははその伝聞情報でした。

私もそう思った。昔ちょこっとかじった事がある。試験も受けて、めったに通る人がいない試験に通った4人のうちの一人だ。全部忘れているけど。
私から言わせれば・・・病気だ。

ろいりさん。ぼんさん。こんばんは。
うーん。びょーき。。。ですか。そうかなあ。
おお、いま、テレビにイーグルス。ほてるかりふぉるにあ、うたっています。いいうたねえ。
many of rooms at the hotel califonia・・←あたた。
Plenty of room at the Hotel California
http://g-onion.hp.infoseek.co.jp/hotel%20california.html

1969という年のもつ意味。


かささぎはがっかいが嫌いですがなしか縁がありますね。
森山さんがにちれんしんじゃっぽいのはすぐわかりましたが、作品の中でぞろぞろとその言葉が出てくると、これまではあれるぎーがおきそうだったのに、こんどはそうでもなかった。なれてきたのだろうか。
かんがえてみればよ、宮沢賢治もそうだったし。まったくタイプはことなりますが。

むしろ気になるのは、小説、詩、俳句、短歌とスタイルが違う作品を次々に出されるのだけど、それが全部おなじように感じられるのは、常に変らぬ使用言語と「」〔〕それと強調のドット多用のせいだと思いました。かささぎはそれに苛立ち、こんなことあってはいけないのですが、人の作品に手をいれてしまいました。作品を引用するというのは、決していじってはいけない、まちがいがあってさえ、。わかっているんです。いじっているわけではなく、時間が足りない中でやったので、という大義名分をたて、かささぎには一切不要とおもわれる、カッコをぜんぶはずしてみた。
すっきりした。なんといいますか、武装しすぎとおもう。
だいじょうぶだから。そのままでいいから。そういいたくなりました。ほたっといて。といわれそうだけど。

やはり、元の表記へ敬意を払って、注意深く、「」〔〕るび、つけました。安堵しました。
意味が、こめられている。それは作者の深いところから、きている。かささぎには、よくはわからなくても。

日蓮上人の伝記を読んだのは小学生の時でした。
色んな苦難にあい島流しにあい、、海の岩の上で嵐の中で南無妙連華経をあみだした・・記憶ではこんな感じ。
日蓮を祖とする宗教はたくさんありますね。
今調べたら伝統宗教と新宗教と区別されています。
おきらいなのは新宗教のほうにありました。
宗教にはまるで無関心なのですきもきらいもありませんが、祖母がしばらく立正佼成会(こちらも日蓮系かな)に入ってました。長引く病気を持っていたので人様に進められて。
庭野日敬氏の頃です。
小学生の時何度か大きな集会にくっついて行った事があります。
久留米でのお祭りの時(信者さんかな?)女性歌手(オペラ?)を見ました。
顔は浮かぶけど名前が出てこない・・(^^ゞ

boutique思い出しました。
石井好子さん。シャンソン歌手。お父様は久留米の石井光次郎氏。

石井さん、なくなられてたのですね。
今日の夕刊(西日本新聞)で知りました。

石井好子さんは石井光次郎の娘でしたか。
久留米の人だったんですね。親戚に朝吹登水子さん。娘時代、この人の翻訳で左岸の小説のほとんどをよみましたっけ。あ、サガンです。

日蓮ではなく、いけだだいさくがにがてなだけです。
かささぎはいま、倫理という宗教めいた修身誌を毎月読んでいます。義務ではなく、そこにおいてあるから、つい。ほら、はやおきかい。今年元旦にかんさんほか、政治家の目立つ人たち数人がこの会で挨拶していた。どのくらいの寄付が積まれたことでしょうか。私は罰当たりでちーともなーんも拝まないけど、信仰心が厚くてやっていることが悪そのものって人よりはましなんじゃないかと思うときもあります。

ところで。森山みつあきの思考。
突然、わがみちざねは。というだよねえ。
え。どうしてここにすがちゃんがでてくるの!って、目が点になるんですけどね。
すがわらのみちざね、法華経信者だったの。陰陽師かとおもった。いや、おんみょうじにしゃくふくされる、悪霊。「提婆達多」というので、まっさきにかささぎの脳裏にうかんだのは、だいだらぼっち。おなじものだろうか。勝新が演じたとありますが、だいだらぼっちはもののけ姫にでてきましたよね。

投稿: かささぎ | 2010年9月 1日 (水) 23時14分

それで、結論です。

ずうっと同じ調子でこの「小説」は最後まで続いていくのですが、おなじことば、「梅花に雪が降っている。」というのが折々にリフレーンされるたび、どんどん意識の深層におりていく、という構成になっています。
何と申しましょうか。かささぎは森山さんを「くるひをむかへる詩人」と位置づけていましたが、ぜんぜん普通です。結句の、「これでいいのだ」までが、赤塚不二夫のせりふからの引用めいて、重厚さという厚ぼったい時代おくれの綿ふとんの重圧からすぽんと「ぬけ」をはたしている。かれはかく。
まず宇津之(このよ)の深層構造をしることがすべての始まりである。すべての学問はこの深層構造の覚智を基底におかない限り、すべてゴミである。それはタラズの犯罪でしかない。
抗しなければならない。久遠である。始まりである。
普通であることが、この地獄を破砕する。
梅花に雪が降っている。(これでいいのだ)。

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