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2010年9月 5日 (日)

戦争の話(22) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 5 日 戦争の話(22)

<橋爪一郎従軍記>

   南国だったのかの巻

 まっ黒い貨車にとじこめられたままで、三日か四日か運ばれている間に、汽車の中がだんだんと暑つ苦しくなって来ました。皮の外(ガイ)とう(オーバー)をぬぎ、毛皮の靴をぬいでもまだむし暑く、汽車の中は、いよいよ、体の置き場所もないくらいに品物で一ぱいになりました。寒い国へ行っているはずであるのに、日に日に暑くなるとは不思議でなりません。どうも変だ変だと言っているうちに、私たちの汽車は、変なはずである所に着きました。そこは、(今の中共の中の)満州と支那の国境である山海関(サンカイカン)でした。今までよりもずっと南ですから暖かいはずで、着れるだけ着ていた冬の服装でのせまい汽車の中は暑苦しいにきまっています。ここで全員初めて汽車から降りました。ほっと一息つくひまもなく、上官の命令です。「みんな良いかッ!!直ちに次の事を実行せれ!!」「一ッ汽車の中には紙くず一枚も残してはいけない」「一ッ官物(軍隊のもの)はすべて返納せろ、フンドシ一枚でも持ってはいかん!!」私たちはここで、満州からの品物は一ッ残らず満州に返して、新しい服、新しい帽子、新しいタオル、フンドシまでもらいました。鉄砲も玉も返してしまいました。そして体につけたものは、防暑帽をはじめ、何から何まで南洋の熱帯地方の服装でした。上は半袖夏シャツ一枚、下はダブダブの半ズボン、誰でもひざから下はヒゲムジャのひょろ長い足まる出しです。半ズボンの下から風がスウスウはいって気が気ではありません。鉄砲も持たず、剣も持たず、丸腰のままの兵隊になってしまいました。再び貨車に乗りこんで、汽車は更に南へ南へと進んで行きました。今度は広すぎる貨車の中で寒さにふるえて一かたまりの旅を続けました。

1963年八女郡辺春(へばる)中学校『学年通信』より

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

山海関;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E9%96%A2

山海関(さんかいかん)は中華人民共和国河北省遼寧省の省境に位置する万里の長城の東端にある要塞明代は北方民族である女真の侵入に対する防衛の要とされた。「天下第一関」と称されるが、これは山海関の著名性を表したものではなく、東から数えて最初の関所であったことを示す。

山海関を越えて中原に向かうことを「入関して、関内に入る」と称し、満洲を「関外」もしくは「関東」という。かつて日本の租借地であった関東州や、そこに駐留した関東軍の名称もこれに由来する。

コメント

おはようございます。
さくらさん、迷彩パンツ似合いそう☆
岩国に行った時、基地の周辺にたくさんの古着屋さんがありました。
ひめさん、昨日はお世話になりました。
えめは海王星から来てこの世の人ではないのでよろしく願いします

朝学長ブログから転載しても読む間もなく、ばたばたと出勤。帰宅後読めば、なんというつらい記憶。兵隊さん、泣く子も黙るといわれた関東軍の兵隊さんたちは、こんな過酷な扱いをうけていたのですか。ひどすぎる。
十日も排便させないためにアヘンをのませた。そして立錐の余地もないほど兵隊さんをのせて貨物列車で何日も冬の大陸を移動。上層部だけが次にどうするという予定を知っていたろうが、ふつうの兵隊さんたちはまるで駒扱い、それに耐えねば、死ぬしかない。何の恨み言も書かれておらず、淡々と事実だけを書かれています。心中いかばかりだったかと思われます。
握り飯を40個ばかり、持たされて。とありますが、この記述は古代や中世の戦闘とまっすぐつながります。宮本武蔵などの映画で冒頭の関が原の戦いでのシーンなど連想できます。
ああ、でも、この大東亜戦争ってのは、まったくそんな戦国の世の下克上なんかのロマンもへったくれもなかったでしょうね。わたしはこの時代のこの手のはなしをよめばよむほど、黒暗暗(こくあんあん)たる気分になります。橋爪チチ、どんなきもちで、このいくさを戦っておられたことだろうか。

政治。
もめるべくしてもめているんだとはおもいますが。
小沢さんのいう第七艦隊だけでいい論、を、解説つきで読ませてくれる記事発見。こういうのを読めば、自分は軍事がさっぱりわかっていない。というのがよくわかる。↓
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/e04df9787dd354af7156cdf214f26148

なぜ、岩戸山古墳に「今伊勢宮」があるのか、ずっと疑問です。
また、「君が代」の歌詞が織り込まれた百首和歌が、キリスト教伝来の直前の時期に、なぜこの今伊勢宮へ奉納されたのか。
和歌の中の「くるす野」は単なる地名なのか。
なぜ磐井の墓の地名が「岩戸山」なのか。
・・・
「岩戸山」を検索すると、次の情報を得ました。
「元伊勢神宮」(京都府福知山市大江町)が日室ヶ嶽という山の麓にあるそうなのですが、この山には「岩戸山」の異称があるのだと。
また、京都の祇園祭のメインの曳山は「岩戸山」だと(↓)。
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?blog_id=6633
祇園祭といえば、日ユ同祖論でよくでてくる、日本とユダヤの共通項。
「君が代」の歌詞はそのままの音で、ヘブライ語で宗教的意味をもつのだとか。※
なぜ、徐福の末裔(ヒミコもイワイもその可能性あり)が集積している八女地方で大虐殺があったのか。なぜ、ヒミコはその存在の形跡が消されたのか。
この虐殺の時期は、世界史的にはイスラム教の黎明の直前でもある。
磐井の息子(葛子)はなぜ殺されなかったのか。
葛子の墓とされる鶴見山古墳に、なぜ十字架の石人があったのか。

投稿: 乙四郎 | 2010年9月 5日 (日) 01時47分

※かささぎ注;香川宜子先生が教えて下さったヘブライ読みの君が代。
以下、引用。

日本の君が代の本当の意味をご存知でしょうか?
 
本当はヘブライ語でクムガヨハ、チヨニヤチヨニ、サッザリードイシュノ・・・と歌われ
神よ、立って讃えよ。残された我々神の選民は最期に地球を守る民となれ。
神の願いは成就しあまねく述べ伝えよ。という意味だそうです。
だから、日本の民は世界に向けて平和を発信していく宿命を背負ってるみたいです。
ちゃんと靖国に祭られた戦争で亡くなった人たちに今の自分がこうして生きられていることに
感謝して、私たちはこの使命のもとに今後は世界にむけて発信していく民たりたいと思ってます。
聖書にも、極東の日出る島の神の栄光さえしらない民がやがて神の栄光を讃えてやってくるという
くだりがいくつもあります。それと君が代が不思議に合致しているのです。  香川
※かささぎの独り言
乙四郎紹介動画の祇園祭。
動画をみていましたら、下京の町家が映っていて、木屋町を想い出した。
石橋秀野さんが寝付いたところですからね。
岩戸山曳きぞめの動画も、戸畑祇園山笠に似ていた。
こどもたちがのんびりと曳山をひいていくんです。
どの子も紐をもってじゅずつなぎになる。
ところで、尋ねたいことがあります。
鶴見山古墳とは、どこの?葛粉の墓ってんですから、屯倉のあったとこですか。
そこにはもう何もないみたいですよね。
八女の豊福にもありますね。まぎらわしいですね。同名の古墳。
しかも八女の場合、(これも天の配剤とかささぎは思うのですが)、行政の信じられない放置がたくさんあるらしくて(杉山先生のブログに詳しいです)、とっても重要な古代のなぞが秘められているにもかかわらず、重文登録などが遅れたり、はたまた書類のミスもあったりで、かわいそうな目に遭っている。偶然。そうなる定めであるかのように。逆にいえば、なにかに守られている。

 武装石人は2005年、八女市の鶴見山古墳で出土。
高さ158センチ、幅78センチ、よろいとかぶとを着け、両腕を広げて直立している。同古墳は

筑紫君磐井

(

つくしのきみいわい

)

を盟主として北部九州の豪族が結集して起こしたといわれる「磐井の乱」(527~528年)の約30年後に築造されたとされ、市教委文化課は「磐井の乱以後も筑紫君一族の勢力が残っていたことを示す史料」としている。(2010年3月20日  読売新聞)新聞記事。
石人写真はここ。http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/50204644.htmlそのことについての古賀の達也さん記事はここ。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou70/kai07001.html
http://sinkodai.typepad.jp/blog/cat150343/

 その他
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-85.html
(鶴見山古墳の天井石が抜き取られて八女公園の慰霊碑にされてたことの写真報告)・・・これを読み、去年高良山で芭蕉霊神社を探したとき、そのちっぽけさに思わずよろめきながら、けれども、よく見ると、その天井石の余りの立派さにもよろめいたのをまざまざと思い出しました。写真がどこかにある。まってくだされ。つけます。これ。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0fa1.html
しまった。肝腎の巨大な覆い石が撮れていません。
実物をご覧になるのが一番です。
あんなに重たいものがよく載るものだと感心します。
(そして、次にこそっとおもう、この石、どこから盗ってきたのだろう。)
この石人のシンプルな造形を、十字架とみたのは、竹橋乙四郎だけかな?
でも、そういえば、似ています。
            

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コメント

山海関>>岩戸山のふもとにあるお店の名前。奥様は中国の方とか。

戸>>地面の扉が開く場所>>と、何かで読みました。
大地震>>江戸、神戸、西戸、八戸・・
岩戸>>天の岩戸もこちらの岩戸も謎と神秘に包まれていますね☆

えめさん。ことだま、すごいものですね。
ところで、はずかしい話、笑わないでください。
わたしは、関東軍を日本の関東に本部がおかれてる軍隊だとばかりおもっていました。その割には上官の命令のことばまでが九州弁なのはなんで?と思って読んでた。関東軍のイメージはとっても悪いでしょう。戦争の原因を作ったとされるから。
ウィキから拾ってきました。

「張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行したことは、1920年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。

また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。

また、関東軍は、阿片王と呼ばれた里見甫と結託し、アヘン取引組織を作った。これらの事実により、戦後においては「太平洋戦争の原因を引き起こし、日本を破滅させた元凶」として忌み嫌われる、旧軍の中でも特に悪の枢軸的存在としてのイメージがついてしまった。

これをよみ、橋爪一郎従軍記の昨日の文章を読み、それから、西牟田靖ブログでぐうぜん知った、自民党党首の祖父はアヘンでもうけた人である、という事実も考慮に入れつつ、いろいろとものを思う。

谷垣禎一の祖父、影佐禎昭(フレッシュアイペディア検索);
民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買を行う里見機関を設立。中国で阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。戦後中国から戦犯指名を受けるも結核のため入院、55歳で獄死。このかたの生き方、すさまじい。
生涯を追った著書に浅田百合子『日中の架け橋~影佐禎昭の生涯~』(新風舎、2003年)
これ、なんとなく、よみたくなってきた。香川先生の本が出てた出版社(去年つぶれてます)。

元伊勢とユダヤ
   ↓

とんでも仮説

徐福(ヨハネ)の末裔たちは、八女の奥地に集落を形成し、その地はヤーヴェ(神)の村(矢部村)と称された。
矢部村は八女津姫を輩出し、やがて卑弥呼として九州広域へ君臨した。
卑弥呼の影響力の拡大とともに徐福の末裔たちは平野部へ進出し、磐井を輩出した。
磐井は聖地イースェ(伊勢)宮を建造し、その地を岩戸山と称した。
古代キリスト教勢力は、これを好ましく思わず、大虐殺によりイスラエル支族の痕跡を抹消した。この時、邪馬台国の痕跡も徹底的に消された。
岩戸山の聖地は、大和の前方後円墳に模して改造され、磐井が自分の墓を生前に作らせたものと史実が捏造された。
磐井の息子は、イエスの受け入れを表明したために赦された。

とんでも仮説おもしろいです♪
ヤメツヒメ=ヒミコ>>昔、夫に力説しました(^_-)-☆
岩戸山の石室には何が眠っているんでしょうね。
「戸」を開けたらいけないのでしょうね
40年前、「この石室の入り口はこの市の歴代首長だけに伝承されている」と、聞いたことがあります。

(仮説補足)
イス・ラ・エル=man for god「神の民」
エルが「神」で、イスが「民」
宮は「神のため」の聖地なので、伊勢=イセなら、イセ宮は、まさにイスラエル。

過ぎ越しの祭のとき、マナの粉と竈(かまど)を取り寄せてくれた日本人所長
↓の八章にあります。マナイ神社奥にこのじんじゃがあります。かささこれは、しっていた。どこでよんでいたのかな。そうだ、最初は吉野裕子の『隠された神々』ででした。つぎに太田竜のユダヤ本。
ところで、この↓本ですが、「ユダヤ人、浜寺」出検索して、一番目に出たものです。と蘭ベルドールの写真をみることができますので、ぜひごらんください。浜寺教会、捕虜収容所が生んだものではありませんでしたね。でも、浜寺、と出たとき、びっくりしました。

25年前に米谷よね子著「過越しの祭」を読みました。
ユダヤ人のご主人の家庭の風習など興味深く読みました。
あと自閉症の息子さんとの格闘の子育て「遠来の客」も秀逸です。
久しぶりに検索してみたらまだまだお元気で気迫があります。
youtubeに2009年のインタビューが載ってました。

あわてました。「米谷ふみ子」氏です(^^ゞ

「関東軍を日本の関東に本部がおかれてる軍隊だとばかりおもっていました」って、こりゃ恥ずかしいことでも何でもないです。私より10歳ぐらい年上の人で、15年ぐらい前に同僚だった国語の先生もそれに近いことしか思ってなかったし~漢文で山海関とか函谷関とか出てくるのにね。おそらく戦中派だって知らない人多いと思いますよ。
それこそ私のほうが恥ずかしながら、この商売していながら30過ぎまで関東州とは、中国の関東地方かな?というぐらいで、あまり深く考えてませんでした。ある時ふと、中国に山海関というのがあるけど、その東という意味かなとひらめいた、そして調べたらその通りだったというお粗末。
そこで今度は、日本の関東・関西ってどこの関を基準に決めてるのだろうと疑問に思い、何でも考えかんでも知って…のケペル先生に習って調べてみました。そしたら関西は鈴鹿・不破・愛発の三関が区切り目になってるが、関東は時代によって違い、上記三関以東の時代から逢坂の関以東を指す時代、そして中世以降は箱根関以東を指すようになったらしい、いやはやまた一つ賢くなった。

上のコメント、名前入れ忘れました。ついでの追伸、「山海関」というお店、中華料理店でしょうか。私の錆びついた中国語が通じるかどうか、一度行ってみようかな、ついでに25年ぶりの岩戸山古墳にも、と思いました。
戸>私は昔柏戸のファンでした。あ、こりゃ無関係で失礼。

ろいりさんこんばんわ。
古墳のふもとの山海関は居酒屋さんみたいです。
たぶん日本語でOKだと思います^^
おおぐうぜん! 私も柏戸派。
わが家は大鵬派=祖父、伯母 VS 柏戸派=祖母、私で、
決戦勝負は大騒ぎでした☆彡

乙四郎先生のお徒歩番(馬を許されない下級武士)をずうっとしているかささぎです。つくづく妙な役回り。きっとでっかいぱんをふんだにちがいない。その償いをさせられているのだと思って眠たいときも身をコナにしてかんぱってるあるよ。出勤前、アクセス解析をなんとかまとめましたが、まだ見ていない。漫画家の方の新聞投稿を知らずにアップしていたのかな。
えめさん、米谷ふみ子、中城ふみ子。ぜんぜん違うのに、なんか似てる。ああそうか。なまえがおなじだ。っ(てそれだけじゃん。にてるの。)過ぎ越しの祭り。わたしも読んだみたい。芥川賞でしたね。中城さんは歌人でした。説明文をよんでいたら、「自分を装飾するために」なる言葉がプラスの意味で使われていました。それになんともいえないびっくり感を味わいました。いいんだ。じぶんを装飾してもいいんだ。と思って。なんかさ。日本人て妙にひげばかりするじゃない。卑下。かざったらだめ。みたいな。でも、いいんだね。飾っても。あれ。そういう意味じゃないのかな。↓はなし、ぜんぜん関係ないとこ、走ってるね。ごめんなさいね。

ろいりさん。どうしてかんこくのひと、濁音にがてあるか。理由、しってたらおしえてくたさい。
はこねのやまはてんかのけん。かんこくかんもままならず。←かんこくかん。韓国間ではなく函谷関という関所だったか。そうでしたか。

戦争の話、どうしてどんな風に戦ったのか、細かなことを知らなくて、橋爪一郎従軍記をよんでいますと、具体的なことが見えて、その上、生徒に伝えようと、というより自分で自分に忘れぬようにいいきかせるかのようで。戦争の記憶を書きつける筆の全身の思惑が微妙なタッチで伝わります。
書くまいとしていること。書こうと努めていること。
きっと一郎サンは今のわたしたち以上に、じぶんたちが所属していた関東軍という組織への疑問と怒りと理不尽さでいっぱいだったでしょう。でも、それをあからさまには書かれていません。なにか、明るい、たのしい、おかしいことでもあるかのように、書かれています。
こどもが特別な体験をわくわくと記すかのような書き方。
そうでもしなきゃ、やりきれなかったのでしょう。
それとも、時代が求めるものに答えたのだろうか。
なんとなく思います、先生は大切な戦記を学級便りの端っこに書いていた、でも、こどもたちはそんなの見ていなかったのではなかろうか。と。
でも、それでも、先生はきちんと書かれている。
そして、いまの私達がそれをきちんと読んでいる。
(これでいいのだ)。ですね、モリヤまさん。


子供の好きな「巨人・大鵬・卵焼き」に対して、渋い大人好みの「西鉄・柏戸・フグ料理」、というのを昔「フクニチ・スポーツ」で読んだ覚えあります。私は「西鉄・柏戸・豚料理」でした。
で、「どうしてかんこくのひと、濁音にがてあるか」という質問への答えですが、まず濁音苦手なのは韓国・朝鮮人より中国人です。正確に言えば、中国語では日本語のように「濁音・清音」という区別がなく、そのかわりに「有声音・無声音」という区別があり、この無声音が濁音と清音の中間ぐらいの音なので、日本人には濁音に聞こえないわけです。欧米人が、どうして日本人は「R」と「L」の区別をつけきらんと、というようなものでしょうか~これはコリアンも区別しきらんが。
韓国・朝鮮人は語句の頭に来ると清音なのが途中に来ると濁音っぽくなる、でもそれは本人たちがそう意識してません。
例:釜山のアルファベット表示はちょっと前まで「pusan」だったけど今は「busan」と書くようになった。つまり日本的発音の「プ」と「ブ」の中間音で、語頭にくると「プ」に近く、途中に来ると「ブ」に近くなるけど、コリアン語には別に破裂音の「pu」があり…あ~ようするに外国語の発音ちゃ難しかちいうこと。
外国人に言わせれば(アジアン・欧米人問わず)、日本語の撥音「ん」には「m」「n」「ng」の三種類あって、これがなぜ同じ「ん」であらわされるか不思議らしい。促音の「っ」がまた難しく、洗濯機がなぜか「せんたっき」になる、これも日本語を習う人にとってわかりにくい~だから「チョト マテ クダサイ(クタサイ・クラサイ)」となる。
というわけで私の「日本語論」をまとめて紹介する機会がなかなか持てませんが、少なくとも、日本語だけが綺麗で美しい、あるいは奥ゆかしい言語と思っちゃいかんのですよ、あるいは昔の日本語は美しかったのに今の日本語は乱れていてウンヌンカンヌンというのにも反対、日本語は昔から「乱れ」つつ今の日本語が形成されてるのです。旧仮名遣いが正しいと思ってる人は、まず発音も旧仮名遣い風に発音してからそういいなさい、というのが私の主張です、と言いながら、「私は(を)」を「私わ(お)と」書くのにはやはり違和感を覚える。ようするに自分が使ってきた言葉に対しては保守的になるんですね、人間というものは。

ろいりさんは学校の授業でもこういったことをしゃべっているのかなーと、ニヤニヤしながら読みました。
それにしても、音楽の事やら映画のことやら、ようしっとんなさる。かんしんするわー。

検索サイト Yahoo  検索ワード furutasigaku葛子

で見えている。
その一位記事を貼り付けたいが、なぜかできんのです。磐井のらんはなかった、というタイトルなんだけど。

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